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信州支部便り 5月号

【コラム】 信州支部 前田 一樹  ※信州支部メルマガより転載

 信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp


▼05月01日配信 一人でもやる一人だからやるー己のなかの能動性の発見

先日(4月29日)に単独で「乗鞍岳(3026m)」に山スキーに行ってきました。


乗鞍観光センターからバスで「位ヶ原山荘(くらいがはらさんそう)」まで行き、そこから、3時間ほどスキーで登り、頂上にある神社を参拝。頂上から少し下った「3000m」地点から斜面を滑り降りました。


天気は快晴。雪質はかき氷のような粒々の「ザラメ」。適度な抵抗を感じながら快適な滑りができました。


山スキーは管理されたスキー場内のゲレンデではないため、「雪崩、転倒、滑落、岩への激突によるケガ」などのリスクがあり、それらに自己責任で対応しなければならないため、かなりリスキーな要素を含むスポーツです。


そのため、山スキーは基本的に一人では行かないのですが、仲間との都合が合わず、今回は「単独」で行くことにしました。


しかし、だからこそ意識できたのは、「一人でもやることの意味」でした。


その活動自体が、自分にとってなくてはならないものなのであれば一人でもやる。パーティーで行くというのは、「リスクをカバーする」という目的があるのですが、「誰かと一緒でなかれば行かない」というのは、どうも他者依存的ではないかと。


また、「集団」を前提に考えしまうことで、「単独」の可能性と、それでしか味わうことができない、喜びが見えなくなってしまうのは残念です。


「単独」でしか感じられない時間の流れ。休みたいときに休む。自分の体との対話しながら登るペースを決める。景色を心行くまで眺める。大自然とのマイペースで附き合いがあります。


なにより、その活動(私の場合は「山スキー」)が好きなのだと、自分にとって正直な「欲求」を確認できます。それは、内から湧き上がってくる、「能動性の発見」とも言えます。


誰と比べるでもなく、群れるのでもなく一人でもそれをする。自然な能動性の発露を確かめること。そこに、「単独の時間」を持つ意義があります。


正直な「欲求」は意外に掴みにくいものであると思っているのですが、それを発見することは、日々の喜びに繋がるように思います。


これは趣味に限らす、様々なことに通じるのではないでしょうか?


さて、最後にこれまで続けてきた、「週1のメルマガ配信」についてお知らせです。


転勤して大変多忙なことと、新しい職場に慣れないため、メルマガを書く時間が取れず、配信のペースを変えようと思ったのですが、継続してきたことで、雑誌に記事を掲載いただいたり、支部メンバーの投稿も始まったりと、信州支部にとって重要な進展があったため、やはり、続けることにしました。


しかし、できるだけ短い時間で仕上げられるよう、内容的には「短文」になりますので、トピックに対してあまり説明を補足できないと思われます。その点ご容赦いただければ幸いです。


本当にささいな言葉しか紡ぐことはできていませんが、感想をお送りいだだける方もおり、大変励みになっています。これからも、信州支部メンバーのメルマガも合わせて、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。



▼05月07日配信 北アルプスへ再入門「白馬三山」山スキーツアー

GW「5月3日、4日、5日」は2泊3日で、「白馬三山」と言われる、白馬岳(2932m)、杓子岳(2812m)、白馬鑓ヶ岳(2903m)を、山スキースタイル(スキー板の裏面に滑り止めの布を貼って斜面を登り滑るスタイル)で登り、白馬岳「大雪渓」や、それぞれの山のピークから残雪の斜面を滑走してきました。


この3日間は「圧倒的な快晴」に恵まれ、それぞれの白馬三山のピークから「北アルプス全体」を隅々まで見通すことができ、残雪をまとった北アルプスの山々の言葉にできぬ壮大な景観に、改めて深い感銘を受けました。


5年前、初めて一人で北アルプスの「燕岳(2763m)」に登った日も、圧倒的な快晴で、隅々まで北アルプスの全容を見通すことができました。


その時に浮かんだ言葉は、変な言い回しはありますが、


「北アルプスに弟子入りしよう!」


でした。北アルプスがいつも見える松本市に生まれ育ちながら、それは、近くて遠い未知の存在でした。


しかし、そのとき確かに自分の前に、壮大なスケールでありながら、具体的な「質量」「形」「手触り」を持った、己を超えたものの姿を見せてくれたのです。


そのときから、それに少しでも近づきたくて、「山」に登り続け、アプローチ(岩登りと山スキー)も広がっています。


やはり、登山はレジャーではありますが、「宗教的」な行為なのではないかと自分では思っています。


今回もその気持ちを新たにした、「山スキーツアー」になりました。



▼05月12日配信 映画『ファイト・クラブ』にみる仮面と素面の愛憎と調和の可能性

お恥ずかしい話なのですが、遅ればせながら、つい最近、エドワード・ノートンとブラッド・ピット主演の映画『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー1999)を初めて鑑賞しました。


当時、中学生だった私は、ませた少年ではなかったため、流行していた「鉄腕ダッシュ」というテレビ番組で、不良がボクサーを目指す「ガチンコ・ファイト・クラブ」という企画を見ており、そのイメージから単に殴り合うだけの映画だと思っていました(しょうもない話ですみません…)。


しかし、当たり前ですが、そんな単純な映画ではありませんでした。有名な映画ということで、ネタバレも大丈夫だと思いますので主題を一言で言うと、


「仮面をつけて生きてきた男の中に生まれた、暴力的で奔放な2重人格との愛憎の物語」


だと言えます。


あらすじなどの詳細は割愛しますが、主人公「僕」(エドワード・トートン)の仮面をつけて生き続けることの「苦しみ(鬱、不眠症)」と、その反動として内面に現れた無目的かつ痛烈な破壊衝動を体現した人格「タイラー」(ブラッド・ピット)の対比が、都市の清潔な高層ビルやうらぶれた路地裏、酒場などを背景としながら、ダディーとユーモラスを交えて鮮やかに描かれた作品でした。


そこから得られる教訓というかメッセージは、「あまりにも、仮面をつけて生き続けると内なる暴力(タイラー)が作動してしまうぞ」という警告であるように思いました。


ただ、破壊的人格「タイラー」にも言い分はあって、「破壊衝動をもった自分を認めろよ」という叫びもまた真実味を帯びています。


なので、結局は「仮面と素面」を折り合わせていくために、その間でバランスをとる「素直な感受性」の重要性を示唆していると解釈できました。「性的シンボル」のカットが挿入されていることからも読み取れます。


そして、それを敷衍すると、日本人の「仮面をもっぱらにする習慣(タテマエのみの適応行動)」と「自滅願望(止まらないデフレ、少子化など)」が張り合わさっている構図にも通じているように思われました。


反面そのような実存的な問いを、娯楽性の高いエンターテイメントとして昇華できる「余裕」を持った、アメリカの懐の広さを思った次第でした(25年たった現在のアメリカについは分かませんが)。


ということで、あまりいないとは思いますが、もし私のように未見の方がいらっしゃいましたら、お時間があるときにご覧いただければと思います。



▼05月20日配信 違和感を受け止め言葉にすること

職場で「働き方改革」ということがよく言われます。しかし、業務や仕事量が減るのかというとそうではありません。なので、実際は「人は雇わない(金は出さない)けど、ともかく効率よく仕事してね!」ということになります。


これはまさに「緊縮財政」を糊塗するために作られた耳障りのよい、「スローガン」だと思われるのですが、職場では誰もそれに疑問を持つ様子はありません。


もちろん、早く退勤できることに「反対」の人はいるはずはありませんが、仕事量が変わらず、効率だけを求められるならば、以前より「苦しくなるのは明らか」です。


いままで違和感を覚えていたため、この機会に少し調べてみると、「内閣府」のホームページに、働き方改革についての方針について説明した資料を見つけました。


その資料のなかで、冒頭「働き方改革の意義」として、以下の3点が挙げられていました。


【意義①】日本経済再生に向けて、最大のチャレンジは働き方改革。働く人の視点に立って、労働制度の抜本改革を行い、 企業文化や風土も含めて変えようとするもの。働く方一人ひとりが、より良い将来の展望を持ち得るようにする。


【意義②】働き方改革こそが、労働生産性を改善するための最良の手段。生産性向上の成果を働く人に分配することで、賃金 の上昇、需要の拡大を通じた成長を図る「成長と分配の好循環」が構築される。社会問題であるとともに経済問題。


【意義③】雇用情勢が好転している今こそ、政労使が3本の矢となって一体となって取り組んでいくことが必要。これにより、人々が 人生を豊かに生きていく、中間層が厚みを増し、消費を押し上げ、より多くの方が心豊かな家庭を持てるようになる。


※内閣府HPより引用、【】内引用者


この他のも資料には多くのことが書かれているのですが、ひとまず趣旨だけを読んでも、①~③について突っ込みどころはあります。


【意義①へのツッコミ】日本経済再生に向けたチャレンジは、「需要」を生み出す「政府側」の「積極財政」への転換ではないか。


【意義②へのツッコミ】いくら労働側の問題を改善して、労働生産性を上げ「供給」を増やしても、デフレであってみれば「賃金」が上がることも、「需要」が拡大することも望めないのではないか。


【意義③へのツッコミ】政府側が「緊縮財政」を継続する限り、「政労使」のなかで、最もダメージを受けるのは「労」である。「政労使」それぞれの役割を果たすことが先決ではないか。そして、「政」の役割とは、「労」が仕事をしやすくなる環境を「財政政策」を通じて実現することである。


ともかく、現在の経済問題を解決するためのカギは、「労働側にではなく、政府側にある」ということ。


もちろん、私は経済の専門家ではありませんので、お粗末なツッコミであります。ただ日々の仕事を通じて感じる「働き方改革」への違和感を、少しばかり知識を乗せ言葉にしただけです。


しかし、現状が変わるとしたら、多くの人の認識が変わることです。そのためには違和感を素直に受け止め、それについて考え言葉にしていき、それが人々の間で連鎖していくことを期待するしかありません。


「違和感の共有」は難しいことではありますが、まず自分が素直にそれを認めることから始めればよいのだと思っています。その受け止められた感情は何かに繋がっていくものです。私の場合は信州支部の活動に繋がっていきました。


お読みの皆様が感じられている、違和感は何でしょうか?



▼05月25日配信 登山とは「生の確認」である

山登りの根源性は、唯一無二であるその彼(彼女)の「個」の存在、そして、その生態的な積極性や共生性、さらに、山や自然のなかでその個から発せられ、山や自然から純粋に反射される「生の存在の確認」にある。


山登りを避けている方、苦手な方にも、その生の確認を自ら体得してほしい。山に登り自然に入ると、私たちは、あなたは、生を確認できる。


※岡秀郎『なぜ、あなたは山に登るのか 答えはついに-人生とつなぐ山登り原論』、2023年、文芸社、()内引用者補足


以前からメルマガで、「登山と思想の関連性」についてたびたび触れてきました。


それは、「登山」が勝負やルールといったものがなく、スポーツやレジャーの枠に収まらない「自然」を相手にしたものであり、その点で明確な答えがなく、絶えず、人生、社会、世界について問い続ける「思想」と似ていると思えたからです。


そしてつい先日、私の関心と近しい「登山と思想の関連」を扱った本と偶然出会いました。冒頭の一文はその著作からの引用です。


著者の岡氏は、大学山岳部から登山を始め、新聞記者を続けながら、日本中の山岳地帯を踏破し、チベットの未踏峰「パルンツェ(7308m)」にも登頂した記録を持つ方です。


世間に知られた方ではありませんが、一読引き付けられる言葉が多く、登山を続けてこられただけでなく、一貫してその営みを「思想」と関連づけながら、「登山と思索」を両輪で続けてこられた方でなければ書けない著作であることが分かりました。


岡氏はその著作で、


「登山とは『生』の確認である」


と定義されています。


確かに、登山には第一に「能動性」が必要です。山には登る必要性はありません。登ることを自ら思い立ち、計画し登らなければならない。そして、その現場では身体的な負荷がかかりながら、危険箇所を通りながら、気象の変化への対応にも求められる。場合によっては、生死を分ける極限的な判断も伴う。


そのどれもが、人間の「生(生命)」の働きを際立たせる要素になります。


そして、その「生の確認」は、文字通り「命がけ」のヒマラヤの最高峰へのチャレンジだけではなく、登山者が能動的に行うならば、どのような「登山」の根源にも横たわっているのではないかと言います。


この定義に納得を覚えつつ、一つ疑問が解けた気がしました。


それは、これまで味わってきた「登山の魅力」についてしっくりとした説明ができない、伝えることができないというもどかしさ、についてでした。


「頂上に登ったときの景色の美しさ、達成感、充実感」などなど、どれもあるのですが口にしてみると何かが違う…


それもそのはず、登山が日常に何かを「プラスしていく経験(景色、達成感、充実感)」ではなく、生が欠落しているという「マイナスの感覚」を回復する営み(生の確認)であるとするならば、その表現は的外れになるからです。


そして、逆に言えば、登山とは「生きている実感を失った近代」、特有のものであると言えます(ここに、近代への懐疑を持つ「保守思想」との関連が垣間見えます)。


よって、「生の実感を失っている感覚」を感受、認識している方にとってこそ「登山」は意味を持ってくるのです。その実感のない方には、なかなか「登山」の魅力は伝わらない。


これが「登山の魅力」を伝えにくくしている原因だと思われました。


その考えを社会に置き換えると、「甘やかされたおぼっちゃん」(オルテガ)である現代の大衆人は、「生きているなんて!そんなの当たり前じゃん」としか思いません。


そして、必ず「山に登ってなんの『意味』であるの?」と「意味」を問います。


だから、「山登り」は、現代社会では「永遠にわけの分からない物」であり続ける他ありません。


とっても、「生の確認」ができる唯一の方法が登山であるはずがありません。それぞれが自分に合ったアプローチで、「生の確認」をしていけばいい。重要なのは「あなたにとっての生の確認」の方法です。


ただそこには「生の確認」とう点で共通点があるはずだと思っています。そのことを信じ、何某かのヒントになることを願いつつ、これからも山に登りまた書き続けていきたいと思っています。

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