【コラム】 信州支部 御子柴 晃生(いちご農家)
自分の父方の祖父は大正9年生まれ。スマトラに出征し、戦後は多品目の農業で生計を立て、84歳で亡くなりました。自分は平成元年生まれ、高校1年、15歳まで祖父と同じ屋根の下で暮らしました。
自分は祖父が好きでした。4,5歳のときの、最も古い記憶は祖父と遊んでいる記憶です。小学生になってもカラオケを歌う祖父の部屋(歌うのが好きで、カラオケの機材があった)に行き、演歌や歌謡曲を聴いていました。
時々、祖父は戦時中の話をしてくれました。訓練の話が記憶に残っています。上官に張り倒された、戦友と〇〇を食べた…、記憶が曖昧で詳細を思い出せず残念ですが、当時も現在も、その話しぶりには過度な明るさも暗さもなく、只々自分の経験を語る、今の自分を在らしめている体験を解釈した「経験」を語る、そんな風にみえました。
祖父の態度に触れていたためでしょうか。巷間にあふれるあの戦いに対する一面的な評価に対しても幼いときから距離を置くことができました。過去や歴史への関心を持ち続けられています。
祖父は晩年、寝たきりとなり、入院し亡くなりました。病院からの最後の報せ電話は僕がとりました。
当時僕は精神的に迷走状態、自分がどう生きるべきなのかまったく見当がつかないという状態でした。いや、積極的に考えていたというよりも「どうでもいい、つまらない」という虚無のような状態でした。
祖父の葬式の時、涙が流れました。泣いたのは何年振りかで、自分でも驚きました。祖父が寝たきりになってから、祖父のことを考えることがなくなっていたにもかかわらず、涙がとめどなく溢れたのです。
その後、高校3年時、一向に進路を決めない自分をみて半ば呆れたように担任教師が1枚の学校紹介のプリントをくれました。何も決められないならここはどうだ、とのことでした。長野の山奥にある八ヶ岳農業大学校の紹介でした。
自分でも不思議なくらい素直に、担任の勧めに従いました。後付けかもしれませんが、祖父の死の後だったからだと思います。幼いころに見た、祖父の畑の上での土埃まみれの仕事姿は今でもはっきり憶えています。祖父がいなければ自分はイチゴなどつくってはいなかったでしょう。農業もやっていません。現在イチゴが育っているのは、祖父が遺した田んぼの土地です。
手前勝手に想います、自分を見失っていた僕に生死をもって道を示してくれた祖父。思わず言いたくなります、「おじいちゃん、ありがとう」と。
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