【コラム】 信州支部 加藤 達郎(特別支援学校教諭)
富士山を観たときの感動を言葉にすること、その難しさを感じる。
心にはその時の感動がしっかりと残っているのに、いざ言葉にしようとすると、とても難しい。
年末から年始にかけて、静岡・山梨・長野と3県から富士山を観た。
静岡県では、静岡市清水区にある三保の松原から富士山を仰ぎ観た。
三保半島は近くにある大崩海岸や安部川、有土山の砂礫が波の影響によって運ばれ、形成された半島であるらしい。この半島には多くの松があり、松の合間から駿河湾と富士山を望むことができる。
実際に現地に行き、丁寧に手入れされた黒松の合間から、朝日に照らされた青い海原と雪化粧した富士山を眺めると、その風景に没入する感覚を味わうことができた。
自我を忘れて自然に身を委ねる感覚、その時生じる安堵感や幸福感は何ものにも代えがたい。自然と同期して心が洗われると表現すればよいのだろうか。
おそらく、我々の先祖も圧倒的な自然を前にしたときの感動を言語化する難しさを感じていたように思う。だから、歌や絵という形でそのままの様子を表現し、感覚を共有したのだろうと思う。
万葉の歌人、山部赤人の和歌を紹介したい。
「田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」
静岡で過ごした翌日、山梨に移動し、富士山の北東、杓子山に登った。山頂からは前日の三保から見た富士山とは全く違った姿が広がっていた。
まず、富士山山麓の広がりが果てしなく、広大な樹海が在ること。そして、その樹海と滑らかな連続性をもって山容が形成されていること。
三保では海から聳え立つ富士の高さに圧倒されたが、杓子山からは壮大な横の広がりに圧倒された。
富士山の特別な点は静岡からでも、山梨から見ても、富士山と分かる所だと思う。
私は現在長野県に住んでおり、毎日山々を見ているが、見る場所が変わると、どの山なのか分からなくなることがよくある。
一方で富士山はどこから見ても富士山だと分かる。おそらく、圧倒的な大きさや美しい形に加え、周囲に似ている山がないことなどが富士山を特別な存在として認識できる要因だと思う。
唯一無二の存在。それゆえ、古くから特別な存在として崇められ、愛されてきた、そんな考えが浮かんでくる。
最後は先日1月3日に登った高ボッチ山(塩尻市)からの富士山。
高ボッチ山は標高1665mと長野県内では低山であるが、諏訪湖と富士山が同時に見られる絶景スポットとして知られている。
幸い天気が良好で、山頂から美しい諏訪湖と富士山を観ることができた。200kmほど離れた場所からの眺めだったが、富士山は変わらずに安堵感を与えてくれた。
富士山。故郷が北海道の私にとって、けっして身近な存在ではなかったはずである。にも関わらず、どこから観ても名状しがたい感動と安堵感を与えてくれる存在。そして、古くから多くの人に大切に想われてきた存在。
時代や場所を超えて存在を感じさせる富士山は、我々日本人に時間や土地を超えた繋がりを作り、日本という共同体を形成してくれる自然物の一つではないだろうか。
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