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信州支部便り 4月号

【コラム】 信州支部 前田 一樹  ※信州支部メルマガより転載

 信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp


▼04月07日配信 「山スキー旅行in秋田2024」から気づいたこと

3月末の最終週(3月25日~3月29日)、秋田県まで「4泊5日」の山スキー旅行に行ってきました。今回のメルマガでは、その中で気づいたことを若干ですがお伝えいたします。


まず、3月25日(月)に長野県を北に抜け、新潟県に入り山形県を経て秋田県の仙北市にある「角館(かくのだて)」に向かいました。


途中、高速道路に乗っていて感じたのは、「新潟、山形、秋田」を貫く「日本海沿岸東北道」が、途中何か所か途切れていることでした。繋がっているところでも、対面交通の区間が多く見受けられました。


前線開通を目指して工事が進捗しているようですが、令和の時代になっても、まだ、日本海側には高速道路のミッシングリンクがあることに驚きを覚えました。


調べてみなければ確かなことは言えませんが、昭和の時代から高速道路の整備がはじまり、現在まで未整備の区間が残っているというのは、いわゆる「緊縮財政」の影響が大きいのではないかと、その光景を見ながら考えました。


「角館」には3日間滞在し、そこを起点に、地元のスキーガイドさんに案内していただきながら、


26日(火):森吉山

27日(水):秋田駒ケ岳

28日(木):岩手山付近(大松倉山、三ツ石山)


の3山で山スキーをやってきました。森吉山では、頂上付近に「樹氷」の巨木を見ることができ、秋田駒ケ岳は、ガイドさん曰く「なかなか晴れない山」とのことでしたが、絶好の快晴に恵まれ快適な山スキーができました。


東北の山はゆったりとなだらかな山容をしており、時間をかけて頂上まで登り、適度な傾斜の斜面を滑り降りることがきる、まさに「山スキー」向きの環境でした。


また、角館は「みちのく小京都」とも呼ばれ、武家屋敷が残る情緒感じる街並みが残り、街中や枝垂桜や川沿いのソメイヨシノが咲き誇る時期と、9月のお祭りには、全国から観光客が大勢訪れるとのこと。


滞在した3月末の時期はオフシーズンで、観光客はほぼいませんでしたので、山スキーから帰ったとのんびり居酒屋巡りもできました。


秋田の造り酒屋から仕入れた酒を出している居酒屋では、秋田県内の若手の酒蔵経営者が結成する、「Next5」というグループを結成している、酒蔵の酒を一杯づつ飲ませていただき、各蔵の個性と秋田の酒に息づく伝統と革新の味を堪能し、朴訥で豪快な店主さんの心意気に包まれました。


29日(金)には角館を出発し、宮城県の「仙台」に向かい大学時代の友人に会いました。仙台の大都会っぷりに驚き、東北の中でも一極集中が進んでいる実態も目の当たりにしまし、その日の深夜、長野県に戻ってきました。


旅をすることで自分の知らない「日本」が見えてきます。私には「山」というキーワードが旅をする切っ掛けを与えてくれます。これからも時折、「山」を求めて地方を旅し、そこから見えてくることをお伝えできればと思っています。



▼04月14日配信 本来の生の流れを呼び戻すウィトゲンシュタインの哲学

哲学は生の流れの中にあるものごとを説明しようとして、逆に生の流れを断ち切り、立ち止まり、目を凝らし、内面を見つめ、超越者を求め、はるかに深みをめざそうとしてきた。


もう一度水面に顔を上げ、生の流れへと戻っていかねばならない。哲学はむしろそのリハビリテーション的な活動なのである。


どうすれば、哲学問題に悩まされず、霧が晴れ、憑き物が落ちた状態で晴れやかに生きることができるのか。


哲学とは、われわれを、とりわけ哲学問題に悩まされる哲学者たちを、本来の生の流れへと呼び戻すための技術の集積なのである。


(野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』、319頁)


最近になって「憑き物」が落ちたように、これまで自分が手あたり次第に本を読み、必要以上の情報を頭に詰め込み、勝手に社会や世間の問題にたいして深刻に思い悩んでいたことが、いかに自らの「生の流れ」を断ち切り、滞らせていたかが見えるようになってきました。


それは、ウィトゲンシュタインの晩年の著書『哲学探究』に関心を持ち、関連する解説書を読んでいた影響かもしれません。


『哲学探究』に影響を受けたのは、「人間は自らが語る、(または、周囲から聞く)言葉によって作り出される『像』に動かされているのだ」という考えでした。


「像」とは、イメージ、概念、規則など、なにかしかを示した「ものごとの意味」です。言葉によって「イメージ、概念、規則、意味」などを駆使して、生を営むのが人間の特性なので、それ自体に問題はありません。


しかし、ありもしないことを「像(イメージ、概念、規則、意味)」をあるとした場合、それに動かされ引きずられて、「生の流れ」が断ち切られたり、不自然な方向へと引きずられたりしてしまうことに問題があるのだと理解しました。


そして、その姿はまさに「社会、思想、経済、哲学」など、とうてい分かり切らない事柄に関する雑然とした言葉で、頭を一杯にした「自分そのもの」ではないかと思い至った次第です。


上記の引用は、『哲学探究』の解説書の著者である野矢が、ウィトゲンシュタインの哲学を一言でまとめて言葉です。


その著書を読んでいる途中、ありもしない「像」に振り回されている自分を反省しつつあったところ、最後にこの文章が現れ、ウィトゲンシュタインの哲学を要約した素晴らしい表現であるとともに、「哲学」そのものの本質をも言い当てた言葉と捉えられ、恥ずかしくも、どこかすがすがしい気分になりました。


余計な「像」に引きずられず、さらさらと「生の流れ」のままに行きたいと思います。といっても、迷い思い悩むことはこれからも必ずでてきます。そのときのためにも、ウィトゲンシュタインとはこれからも適度な距離で付き合っていきたいです。


ウィトゲンシュタインの哲学は、論理的で超絶難解なものだとされており、実際そうなのですが、「本来の生の流れを呼び戻す」といった側面もあることを知ると親しみやすくなるのではないでしょうか。


ウィトゲンシュタインに興味を持ちましたら、今年度の「表現者塾」の講師にもなっている古田徹也先生の『はじめてのウィトゲンシュタイン』を読まれることをおススメいたします。



▼04月22日配信 保守思想の根源と「禅」の関係ー同じ道を歩いてきたことについて

結局、人は20歳(はたち)頃にやっていたことを一生やり続けているのだ。(小林秀雄の講演より)


3月に異動となり引っ越して、4月から長野県の南の街「飯田市」に移り住んでいます。


場所が変わると、職場環境、生活に必要な店、電気ガス水道など、自分を支えていた環境要因がリセットされ、当たり前であったものが、当たり前でなくなり「インフラ」の重要性を実感する毎日です。


気持ちも落ち着かず、足元が定まらないような心地のなか、仕事は慌ただしく新学期を迎え、慣れない職場での業務に追われながら、またたく間に3週間が過ぎました。


そうした、「切れ間」のような状況に立つと、これからどうしたものかと、いままでを振り返り、行く末について考えるところがあります。


そこで、しきりに思い出されたのは、2005年、「20歳(はたち)」のときの「禅」に出会ったことです。


大学生だった当時、私は情緒不安定な自分に嫌気がさし、なんとなく「自己と向き合い、心を落ち着かせるもの」というイメージから、「座禅体験」ができる寺を調べ、足を運びました。


そこで、はじめて1時間ほど、「ただ座った」あとの感覚は忘れもしません。


周囲の景色の輪郭がはっきりとし、頭のなかのノイズが止んだ静けさ。質素な味噌汁とご飯はおいしく、お腹まで快調に…「これには何がある!」と直感するのに十分な経験でした。


そこから、20代は自分なりに「禅」を追求しました。しかし、30歳を境に、定職に就くための勉強とともに「禅」と離れ、政治経済のあらゆる問題について目を開かせてくれた、西部邁先生が語る「保守思想」に傾倒していきました。


ところが、最近、「保守思想」の根源に「禅」があることが得心できました。


保守思想は、もちろん「政治経済」を扱いますが、そこに限定されるものではなく、それを支える国民国家の「伝統や文化」に目を向け、さらに全てを包み込む、「歴史、自然、言葉」(福田恒存)といった、己を超えた「宗教」の次元にまで開かれているのだと。


そう考えると、20歳(はたち)で「禅」に出会ってから、ずっと同じ道を歩いてきたことに気づきました。


来年は「禅」との出会いから20年。そして、人生の半分を迎える40歳を迎えます。


何も成し遂げることもできず、ただただ仕事に追われ、保守思想を学び、暇があったら山に登る日々ですが、これまでより自覚的に座り、深く深く「無意識の声、自然の声」に耳を澄ましていきたいと思っています。

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