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信州支部便り 1月版

【コラム】 信州支部 前田 一樹  ※信州支部メルマガより転載

 信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp


▼01月12日配信 生と死が懸けられた領域に接していることー新年最初の信州支部メルマガとして

今年初めのメルマガは、年末年始の「槍ヶ岳登山」から無事に帰ってきたこと。また、そこでのエピソードを簡単にお伝えいたします。


今回の登山の日程は、当初12月29日から「3泊4日」の予定でしたが、「12月31日」は猛吹雪となったため1日テントの中で停滞。


槍ヶ岳に登頂を試みた「1月2日」も、登山の途中で強烈な吹雪にみまわれて停滞。何とか吹雪をやり過ごし登頂はできたものの、下山は翌日「1月3日」となり、全部で「5泊6日」の長期冬山登山となりました。


特に「1月2日」の登山中に吹雪にみまわれ岩陰でやり過ごしていた4時間は、息が凍りついて固まるほどの冷気によって両手足が冷え切ってしまい、


「冬山で遭難して死んでいくってこんな感じなんだ」


と最悪の事態を予感するほどできした。


しかし、丁度正午になったところで、嘘のように吹雪をもたらしていた雲が過ぎ去って奇跡的な快晴となり、無事目的であった「槍ヶ岳」に登頂することができました。


その頂上からは360度の眺望が開け、北アルプスの山々と世界の果てまで見渡すことができる絶景を心行くまで堪能することができました。


天国と地獄を1日のなかで両方味わえたという意味で、1月2日はその日無事テントに帰ってこられた安堵感とともに忘れない思い出となりました。


この体験を通じて「死」というものに自ら進んで接近できる機会は、現代では「登山」だけなのかもしれないと考えました。


いたずらに無謀を犯すものではありませんが、登山を続けていくと、やはり「死」がどこか可能性の一部に織り込まれていくのを実感します。


月並みですが、「死の存在を感じるから、生を実感する」といのも、裏返すと「死から遠ざかれば遠ざかるほど、生の実感も薄れる」のも事実だと思っています。


改めて「登山」とは「現代において生と死が懸けられた数すくない領域」なのだと得心した次第。このような実感を持てる世界と接していることは、否応なく思想への関心とも関連してくるものと考えています。


今年も仕事や言論などありますが、「登山」の世界をもう一歩深めていく年にしたいと考えています。


最後にお知らせで、今年から信州支部メンバーのメルマガも「毎月末日曜日」に配信することになっています。こちらも地方ならではの、保守思想にまつわる経験談や論考などをお届けしていきますのでご期待いただければ幸いです。



▼01月20日配信 キェルケゴールという稀代な人物像を浮かび上がらせ、そこから著作活動の目的や思想内容の理解へと読者を繋げる良書

ここ数日、「風邪」で寝込んでいました。そこで時間があったため、布団にくるまりながらとてもよい書籍を一冊読み終えることができました。


今回はその本について簡単に紹介いたします。


それは、今月「1月11日」に発売されたばかりの、『キェルケゴール―生の苦悩に向きあう哲学』(鈴木2024、ちくま新書)です。


この本は継続して参加している「読書会」にて、その存在を教えていただき早速取り寄せました。


というのも、2017年に出版された、鈴木氏の訳になる『死に至る病』(鈴木2017、講談社学術文庫)が、難解であるこの書に込められた概念をできる限り、正確に分かりやすく伝えようとする努力が実った作品であり、私自身の理解も大変深まったため、今回の新書に期待を持ったからです。


一通り読み終え、今回の新刊が何より素晴らしいと感じたのは、「キェルケゴールという人物そのものを浮かび上がらせることに力点を置いている」ところでした。


個々の著作や概念に目を向けているだけでは決して、キルケゴールが伝えたかったことを受け取ることはできないという確信の元に、読者にできる限りありのままに人物像を伝達しようと心を砕いている点でした。


鈴木氏の懇切丁寧な語りと、真摯な文章に納得させられつつ、キェルケゴールの人格と思想の目的が内面から、彼に影響を与えた周囲の人物達との関係と、彼が生きた当時のデンマークの社会とともに見えてくるよう見事に書かれています。


鈴木氏は、彼の生涯について、


「キェルケゴールは、基本的に神に仕えるスパイとして、キリスト教界にキリスト教を再導入するという任務を遂行した。ここに彼のアイデンティティがあった。そしてその彼が、ゆえあってときに著作を執筆し刊行したのであり、またゆえあって市井の人々や、体制派キリスト教とも対立する羽目になったのである(18頁)」。


と紹介し、できうるならば、哲学や倫理学の文脈、または、単に概念や理論を構築した思想家として捉えるのではなく、


「まずはそのありのままの姿で彼のことを理解してあげるべきだと、切に思う。神に仕えるスパイという使命を(勝手に)確信し、その活動の過程で後世に名を残す著作をものす一方、どうしたわけかスキャンダラスな人生を送らざるをえなくなってしまった、一人の弱く不器用な人物として。そのようにこそ彼を生きたのだから(18-19)」。


と語ります。そして、


「そのためには、彼が死後の出版を見越して書き残した、膨大な量の日記を読み解くことが必要となる。日記を手がかりにして彼の全体像を立ち上がらせることで、彼の思想家としての側面についての理解も深まる(19)。」


と解説しています。


この引用だけで、鈴木氏が「研究対象」としてではなく、キェルケゴールという人物に人間的な共感を限りなく寄せながら、その生涯と向き合いつつ研究を重ねてきた情熱というか「愛」が伝わってきます。


確かに綿密に研究に裏打ちされた内容ではあるのですが、それ以上にその「愛」が行間から滲み出ているがために、本書を読み進めるごとに、読者のなかにキェルケゴールという特異な人間の人物像がはっきりと結ばれることになります。


今回は、本書の特徴が「キェルケゴールの人物像を浮かびあがらせる」ことを目指した点にあることをお伝えしました。


次のメルマガでは、浮かびあがったキェルケゴールという人物から何を学んだか、的を絞って自分にとって重要だった点について共有できればと思います。


それらを読みいただき、興味を持たれた方は本書をお手にとっていただければ幸いです。



▼01月27日配信 日本人の問題認識についての私見ー白馬は植民地なのか、外国人が雪のよさに気づいたのか

前回のメルマガで、次回は『キェルケゴール―生の苦悩に向き合う哲学』(鈴木2024)について書くとお伝えしましたが、ひとつ気になることがあったため、今回はその件について書かせていただきます。


それは、冬シーズンは予定が空いていれば週末はスキーをやるために「白馬」に通っているのですが、今年はさらに輪をかけて「外国人スキー客」が多くなっていることに驚いたことについてです(昨年も似たようなネタについて書きましたが、今回は少し違った角度から)。


主観的にはスキー場の来ている半分以上、「6、7割」が外国人スキー客で、日本人スキー客の割合を凌いでいるという印象を持ちました。


昼食や休憩のために入るレストランでも、周囲から聞こえているのは外国語ばかり。まるで外国旅行に来ている気分になりますし、食事コーナーのスタッフも外国人の方ばかりで、「お邪魔させていただきます」という状況になっています。


私は白馬出身ではありまんが、同じ長野県の白馬からそう遠くない松本出身です。その人間がなぜ肩身の狭い感覚を持たねばならないのか。自宅の庭に誰かが勝手に入って遊んでいるのを許容しているような感覚がありました。


日本の「白馬」という最高のスキー環境のなか、沢山の外国人スキー客が楽しんいる光景を見て、私の頭に浮かんで離れなかった言葉は端的に、


【植民地】


という言葉でした。教科書的なバナナやゴムのプランテーションとは違いますが、「自国の豊かな自然資源を、欲しいままにされている」という意味で、これは「植民地」と言えるのではないかと…


スキーをやっていても、この「植民地」という言葉が頭から離れず、終始残念な印象が消え去ることはりませんでした。


しかし、私はこの事態を招いたのは「外国人」の責任ではないことを知っています。それは、90年代からデフレを放置してきた、「日本人」自身の責任であり、怒りや情けなさの矛先は、その現状を招き寄せた自国の「政府」と我々「国民」に向かいます。


デフレ放置を招いた、「政府の愚策」については、藤井先生の著書を読んでいただくとして、「国民の認識」については、この白馬の現状を目の当たりにして、私の知人が発した言葉に象徴的に表れていると思いました。


それは、


【外国人にも白馬の雪のよさが分かってきたようですね】


という発言(別の方からも同じセリフを聞きました)。


上記の光景を目にして、私が持った【植民地ではないか】という感想と、知人の【外国人にも白馬の雪のよさが分かってきたようだ】という感想。


同じ場面に出会っても、こんなに違いがあるのだと、ショックを受けると同時に、ここに日本人の「問題」を見る認識の一端が現れているのではと考えました。


それは、


【現象だけを見て、背景を見ない】


という見方です。


もちろん、私の【植民地である】という見方だけが正しいとは言えません。


しかし、日本人スキー客で溢れかえっていた、90年代までのスキー場を知っている方でれば、「外国人が白馬の雪を気に入った」という心理的な原因以上の事態が起こっていると考えてもよいはずです。


しかし、外国人が沢山来ているとう「現れ」だけを見て、その「背景」にある「日本のデフレ状況」と、その対極にある「外国の経済成長」などについては考えないのです。


これが、「日本人の問題の見方の基本」だとしたら、永久に「デフレ」は解決せず、ただただ場当たり的な「現れ」だけを見た対処法ー観光の場合であればインバウンド依存政策ーが行われ続けるのも無理はないと考えた次第です。


っと、絶望的な気持ちにはなりますが、まだスキー場は存続しており、それを楽しめる環境はある。


長野県から「山」という根源的な資源が消えることはありません。そこに「根」をはり、その環境を存分に味わいかけがえのなさを知る。


その上で自分ができる範囲で、「背景を含めて問題を捉えていく可能性」について地道に共有していく活動を続けていきたいと思っています。

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