top of page

『私が敬愛する信州の先達』 『田舎からのナショナリズム』

【コラム】 信州支部 長谷川 正之(経営コンサルタント)


■『私が敬愛する信州の先達』

「三澤勝衛を知っていますか?」と長野県人に尋ねてみたい。


明治から昭和初期に生き、諏訪中学校(現・諏訪清陵高校)地理科教師として52歳の生涯(1885年~1937年)をおくった人物である。


彼の著作を読み、高校に現存する「三澤勝衛先生記念文庫」を訪れ考え、私は多くの示唆を受けてきた。その教えや主張を紹介する。


生まれは、長野県更級郡更府村(現・長野市)。農業に従事しながら勉学に励み、小学校の代用教員から各種検定試験に合格し地理科教員免許を取得。ついに旧制中学校教諭になった尋常ならざる努力家だった。


地理学、鉱物学、太陽黒点観測をはじめとする天文学の研究に打ち込み、「自分の目で見て自分の頭で考える」教育を実践。一方、地域の人たちと各地の現場を歩き、風土を活かした産業等を調査し、総合的で独創的な「風土産業」論を展開、著作・論文として結実していく。今まで2回にわたり著作集が出版され(15年前に三澤勝衛著作集1~4が出版)、在野で地方の人物では異例といわれる。


彼の唱える「風土」とは、「大気と大地の接触面」であり、この接触面=風土を知り尽くすことが自然を活用した産業を育成する基礎であると主張する。


日照、雨、風、地形、土質、温湿度、日向日陰など、お互いに影響しあい微妙な風土が生まれる。その対象をよく見て考えることが重要で、土質しか考えないのは視野の狭い「土百姓」ときつい。


また、その風土に合う作物を作る「適地適作」を強調し、そばや桃やさくらんぼはやせ地、あんず・ぶどうは乾燥を好み、インゲン豆や養蚕は風の吹くところを好むなど、風土を知って作ることが重要と説く。


そして、肝心の「風土産業」については、「風土は個性の強いものなので、風土をより織り込むほど生産物は差別化され需要化される。逆に、市場対応中心の産業は個性を喪失していく」と主張する。


ここで、私が受けた「示唆」について述べる。私が関わっているマーケティングとは「顧客を創造する活動」であり、小さな企業が顧客を創造するには、「大」にない優位性を持つ違い=個性をどう作るかの視点が欠かせない。そこに、三澤の主張が時を超えてつながってくる。


彼はこういう。「その土地で泣かされているもの(例えば、豪雪地帯の雪、寒冷地の低温等)に注目し活用して、価格競争面等での優位性につなげるべき」と。風も霧も雪も低温も、見方を変えれば価値を持つという、大変優れたマーケティング的な見識と思う。


また、昭和初期に書いた彼の本には、現在を予見しているようなことも書かれている。それは、「地域における連環式経営」という考え方だ。北ドイツの事例として、栽培する甜菜から砂糖を精製、馬鈴薯から食料・酒精へ。多量廃物は豚飼料、豚排泄物は肥料に、という循環型農業である。


日本では長野県塩尻市の事例として、大豆生産→豆腐→北風利用し凍み豆腐、豆腐搾り粕→豚飼料→豚排泄物→桑・夏野菜肥料。さらなる提案は、繭→石鹸・化学薬品作り。簡単に儲かるからと水田にまで桑を植え、大量生産・画一化するのは大間違いと喝破する。


この「連環産業」の考え方は、環境省が推進する「地域循環共生圏」、各地域でのSDGsの実践(ローカルSDGs)と方向性は同じと思うのだ。


また彼は、「風土の視点で世界を理解する」考えを示す。北アメリカ大陸の農業地域と降水量分布、牛一頭に要する牧場面積の広狭と夏季の雨量のとの類似分布など、多様な図を用いて説明している。


三澤は、一つの石の両側で風土は異なるという独自の視点と観察眼を持つ一方、風土の視点で世界を捉える大きなスケールを併せ持っていた。歴史的にみても、稀な人物と敬愛の念を抱く。


改めて脳裏に浮かぶのは、前々回のメルマガに書いた日本の若者の「SDGsの理解促進」「先住民族や第三世界の若者たちとの交流」という願いである。


その実現に貢献すると信じ、微力ながら私なりに三澤先生のことを次世代へ伝えていきたい。



■『田舎からのナショナリズム』

前から気になっている言葉、「ナショナリズム」。


口に出して言うと、何か地雷を踏んだような、心がざわつく。でも今のままの日本ではまずい、という懸念と憤り。改めて考えてみようと思ったきっかけが先週立て続けにあり、思い切ってここに書く。


私は、かつて地元小学校PTA会長をやり、翌年PTA歴代正副会長会を結成し来年で20年。新年度になって、教頭・教務主任が替わり挨拶に行った時、「結成目的」を説明した。


当時、神戸連続児童殺傷事件、池田小学校児童殺傷事件他、児童を巡る凶悪殺人事件等が連続して発生。我が小学校も不審者が目撃され、関係者が緊急に対応を協議。警察や現役PTAに加え、PTA・OB役員もパトロールへの参加を申し出て、「児童の命は地域で守る」を合い言葉に結成したことである。


幸い不審者の件は何事もなく、今は各クラスで絵本の読み聞かせ他をしている。日本の未来を背負う児童に、「生きる上で何が大切か」を教える「共同体」として、皆さんイキイキと真剣勝負をしてくれている。


続けて、10人ほどが集まる花見の会があった。畑の中にある東屋(屋根・柱の休憩用建物)を所有者が快く貸してくれ、一昨年から年に数回続けている。


私が言い出しっぺで、肩書きに関係なく30代~70代の男女10人ほどが、小学校児童を持つ家庭をどうバックアップするかをメインに、気楽にワイワイやっている。携帯での交流が日常的であり、面と向かって話せる機会は貴重。今回は、「少し変わった話題」が熱く交わされた。


「なんで、国会議員は国民が課せられている納税義務を免除されるのか?」「裏金問題、国会議員はもう当てにならない、自分たちで国のことを考えるしかない」「トランプになったら日米安保条約はどうなるの?」「日米地位協定はどうにかならないか?」ほか、いろいろな疑問や発言が飛び交った。


私は、嬉しくなった。近所や地区の話だけではなく、国会や国会議員のこと、日米安保条約や戦争のことなど、会話は盛り上がり、夏にまた会おうと散会した。私は、家に戻り残り物のビールを飲みながら、「田舎からのナショナリズム」について考えてみた。


辞書の定義は、「『国家』の共同体的性格を強調し、その統一性強化と発展を主張する政治思想や運動」とある。国家主義、民族主義、国民主義等。この『国家』という言葉がどうも扱い難いが、参考になる本に出会った。


先崎彰容著「ナショナリズムの復権」には、ナショナリズムをめぐる3つの誤解があるという。「全体主義との混同」「宗教と同じ呪縛力を持つ」「民主主義による政治権力追求と同根」。私が「怯む」理由はそこにある。


一方、この本には高坂正堯・京都大学教授(享年62歳)の整理も紹介されていて、私には分かり易い。


「国家は『力の体系』『利益の体系』『価値の体系』の3つが絡まり合ってできあがっている。戦後の日本は、『力の体系』は米国の軍事協力にゆだね、『利益の体系』=経済成長だけを国家目標とし、『価値の体系』は置き去りにして来た。」


なるほど、ならば今の状況はどうか。『力の体系』は、トランプ大統領になれば日米安保条約がどう変動するか国民は不安が増す。『利益の体系』は、円安と新自由主義蔓延で「格差拡大」「増税・生活困窮」。『価値の体系』は国家権力最高機関の国会で「嘘、改ざん、隠蔽、偽装」をいやというほど見せつけられ裏金問題でダメ押し、この国の「倫理は崩壊」状況にある。大手マスコミも忖度が甚だしい。


花見の集まりで、堰を切ったように参加者の不満や意見が溢れたのは、頷ける。お任せ民主主義ではダメだと。改めて『国家』とは何か、その共同体的性格を強調する「ナショナリズム」とは、を考える際の出発点は、置き去りにして来た『価値の体系』である。


日本人が昔からご先祖様を大切にし、受け継いできた共同体の精神(相互扶助等)、例えば「地域で子供たちの命を守り、生き方を教え伝える」「お裾分けと返礼の物々交換」、「利他の心」や「死者とともに考え生きる」死生観など。これは田舎にはまだ残っているし、農耕民族としての精神や行動(アニミズムを含め)は「漢字」という表意文字に宿っている。


国家とは、日本民族とは何か、田舎から素朴に考え議論し、他国の民族にも思いを寄せていきたい(運動などではなく)。田舎の小さな点が野火のようにつながり広がれば。


ここまで書いてきて、それでも「ナショナリズム」という用語を使っていいものか躊躇するが、小熊英二は大著「<民主>と<愛国>」の最後でこう言っている。


「それをもなおナショナリズムと呼ぶかどうかは各人の自由としよう」。


この言葉に触れ、落ち着いた心で発信していきたい。

閲覧数:27回

Komentarze


bottom of page