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『中庸』と平衡感覚――王道、伝統、叡智への回帰

【コラム】 東京支部 小野 耕資(思想史家・『維新と興亜』副編集長)


●平衡感覚を磨くための儒教

 儒教こそ東洋の道徳である。東洋人たる者、儒教の感覚を身につけなければならない。

 東洋世界において、儒教の感覚を身に着けることは長年重んじられてきた。儒教の大成者はむろん孔子だが、孔子は無から儒教を作り出したわけではなく、東アジア世界に基層的に存在していた道徳感覚を言語化したものが儒教と言える。日本においても、応神天皇の御代に儒書が伝わり、それ以降、儒教は人々に親しまれてきた。日本人の思想を考えるうえでも、儒教を外すことはできない。つまり儒教は日本人の伝統の重要な部分を占める存在だと言える。

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 さて、一に伝統、二に伝統というのがいわゆる「保守」であろうが、しかし時々そうした保守思想に対する批判として槍玉に挙げられるのが、結局「伝統」とは何なのだ、ということだ。

 よくある議論としては、エリック・ホプスボウムの『創られた伝統』を下敷きに、要するに「伝統」とは近代になって再発見、再構築されたものであり、それが前近代から一貫して続いているわけではないという言説である。

 しかし元来「伝統」という概念は、あるものが時代を通して変わらず生き残っているというものではない。世の中の多くの概念は矛盾し、また相反するものであるが、その中で正しきものを見極める平衡感覚(中庸)こそが「伝統」と呼ぶべきものである。あくまでも「先人に学ぶ」という思考が伝統思考であり、そこから出てきた発想が、「伝統」的意見と言ってよいだろう。伝統、慣習の中に平衡感覚を見出し、それを重んじるのが人類の叡智ともいえる。その意味でも『中庸』を改めて参照することは無駄ではないと思われる。

 いま「中庸」と書いたが、「中庸」こそ儒教の基本精神のひとつだと言える。それは『論語』、『孟子』、『大学』、『中庸』の四書が基本的な書物とされていることからもわかる。ここで言う「中庸」とは決して右翼と左翼の中間ということでない。右翼と左翼の中間を述べるのはどっちつかずの世渡り上手の処世術でしかない。

 福田和也は、西部の『知性の構造』『思想の英雄たち』を読み、西部的な保守の感覚を「中庸」ととらえ、「孔子なり儒学の概念と近づかざるを得ない」と論じている(西部邁、福田和也、木村岳雄『論語清談』)。本稿では、『中庸』を入り口に、先人の紡いだ平衡感覚とは何かについて考えてまいりたい。


●道義を深く自覚することこそ「中庸」

 『中庸』の第一章は以下のような記述である。


 天の命じるをこれ性と謂う。性に率(したが)うをこれ道と謂う。道を修むるをこれ教と謂う。道なるものは、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。


 天の命じるものを本性といい、本性に従うことを道という。道を修めることが聖人の教えである。道は少しも天命、本性に離れるものではない。離れてしまうようなものは道ではないのだ、といった意味であろう。ここで重要なのは天命を自覚する、ということである。天命を自覚することこそ道義だというのである。

 また、その後『中庸』は「中なるものは天下の大本なり」と続く。万物の正しく平静なあり方に戻すことこそが「中」だと考えられたのである。

 『中庸』が説くのは、君主を含めた人々が道義を身につけ、誠実であらんとすること、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友といった常識を重んじ、そうした関係性を大事にすることこそが天下を正す道だと説くのである。しかも『中庸』は「礼記」の一節でもあることが示すように、日常的人間関係と政治の不可分を示すものである。こうなると「中庸」は極論を排すといった「中間」的議論とはまるで違うことが明らかになる。むしろ正道に立ち返ることを要求するものだ。

 「温故知新」という言葉がある。また、「復古維新」という言葉がある。なぜ古きをたずねることが新しきを知ることになるのか。なぜ古に復(か)えることが新しきことなのか。それは人が初心に帰るように、国家もまた当初のあるべき姿に立ち返るという、進歩史観とは全く違う考え方があるからだ。

 「新しい」とは何か。真に新しいものは百年先、千年先の未来まで残り、参照され続けるものである。その意味で一時の流行などは、新しく見えて実は古いのである。流行が過ぎ去れば誰も見向きもしないからだ。目先の新しさに飛びつかず、「中庸」と古に立ち返るもっとも「新しき」発想により言説を展開する、そこにこそ伝統はあるのだろう。


●大川周明の『中庸』論

 大川周明は、日本文明を儒教、仏教を包摂したアジア文明の清華として評価した。その大川には『中庸新註』という著作がある。そこでは以下のようなことが語られている。


 儒教の志すところは、疑もなく「道」の闡明に在る。而して道とは人格的生活の原則に外ならざるが故に、儒教は人間が如何にして正善なる生活を営むべきかを究尽せんとするものである。然るに正善なる生活とは、吾等がまさしく「我」と呼び得るものと、我に非ざる「非我」との間に、正しき関係を実現し行く生活である。儒教に於いては、此の「非我」の世界を、天地人の三才に分類する。故に儒教の道とは天地人の道である。(中略)儒教は、宗教、道徳、政治の三者を包容する一個の教系である。そは人生を宗教、道徳、政治の三方面に分化せしむることなく、飽くまでも之を渾然たる一体として把握し、其等の三者を具有する人生全体の規範としての「道」を闡明せんと努める。


 大川は儒教の「道」が人格的関係であるとともに、自分と他者の関係における善なるものを追究する学問であって、宗教、道徳、政治が分化せず渾然一体となった形での人生規範となっていることを評価している。個人救済となりかねない宗教を、社会に引き戻す役割を評価していると言い換えてもよい。

 大川はインド哲学から始まり、儒教、プラトンなどのギリシャ哲学、そしてイスラム教にまで強い関心をもった。しかしその問題関心は一貫しており、政治と道徳、宗教が一体となったものこそ人類の根本原理(=王道)であり、それを重んじるべきだというものだ。

 こうした大川の関心は、経済的議論にまで及んでいる。大川は資本主義も社会主義を盲信した人物ではなく、資本主義と社会主義とに共通する唯物主義を批判した論客であった。資本主義も社会主義も物質的利害を人生最高のものと崇めており、両者は人間を経済的存在と見做し、物質的幸福を人生の目的としている。社会問題を解決するためには、そうした唯物主義こそ放棄されなければならない。人間は単なる経済的存在ではなく、国家もまた経済社会以上の存在である道義国家にならなければならないと論じたのである。


●道義を問わない経済学

 西部邁は『経済倫理学序説』で、経済と道徳の緊張関係を論じた。

 

 道徳と経済のあいだの緊密な関係が易々と保証されるものでないと知れば、市場的自由への懐疑が生まれる。この懐疑はおそらく難しい綱渡りなのであろう。懐疑が不足すれば自由放任に傾くし、懐疑が過剰になれば自由放擲に近づく。


 この箇所はケインズについて論じた箇所であり、西部はケインズを、道徳が底抜けに退潮していく中で、自由と道徳の関係に思いを致した人物として描いている。「自由放任」や「自由放擲」に楽観的な新自由主義的議論、共産主義的議論に大衆性を感じ、批判した。


 経済学とは、物質に込められる精神的な意味内容を問わないような学問である。もしそれを問えば、家庭や企業や共同体や政府やにおける権威と権力、地位と役割、伝統と慣習あるいは価値と規範などが経済の意味を構成しているのだということについて、議論しなければならない。経済学はそうした議論を好まない。


 近代経済学は、そこに道義を問わない。あえていえばそれは「神の見えざる手」が解決してくれるだろうという楽観論のもと成り立っているといえる。「自由」になんらかの制約があっては「自由」とは言えない。せいぜい「自分の自由によって他人の自由を制限するな」ということがかろうじて言えるくらいである。そこに道徳の出番はないのである。

 こうした西洋近代の論理を無邪気に受け入れた文明開化の時代を経て、明治二十年代にはそのうさん臭さが明らかになっていた。その結果「日本あるいは東洋のものを見直せ」という国粋主義運動が起こった。その主要論客陸羯南は、日本の自由主義の起こりを、(西洋近代文明の輸入ではなく)勤皇の志士の愛国心の発露にみた。


 日本における自由主義は吾輩その起源を探るに難からず。明治維新の大改革は啻に封建制の破壊のみならず、また啻に王権制の回復のみならず、この改革は実に日本人民をして擅圧制の内より脱して自由制の下に移らしめたり。即ち維新の改革は日本における自由主義の発生と言うも不可あらず。しからば自由主義は福沢先生の『西洋事情』より出たるにもあらず。中村先生の『自由之理』より来たれるにもあらず。当時洋学者の機関たる『明六雑誌』によりて現らわれたるにもあらず。征韓論を名として袂を払いたる民選議員の建白書によりて生出したるにもあらず。これらの事実は自由主義の誘導者たりしに相違なしといえども、日本の自由主義は維新の改革に先立ち早く既に日本有識者の脳裏に感染したるや明らかなり。ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか。日本の有識者は欧米人の来航に当り、早くも既に日本国の独立及び振興を策したり。日本の愛国心即ち日本魂は大八洲の威武名誉を海外に輝かさんと欲し、その籌策を探りてついに最も剴切かつ公平なる良謀を発見し得たり。国家権力の統一と個人智能の発達とは、日本の独立に已むべからざるの大政義なりし。日本魂を有するの識者はみなこれを認めて維新の大改革を成就せしめ、しかして自由主義は日本に発動を始めたり。(『自由主義如何』)


 一方で陸は明治維新後、自由主義がはびこることで格差が開き、拝金主義的な堕落が起こったことをつぶさに見ていた。したがって陸は簡単に自らを「自由主義者」に任ずることはなかった。


 しかれども吾輩は単に自由主義を奉ずる者にあらず、即ち自由主義は吾輩の単一なる神にあらざるなり。吾輩は或る点につきて自由主義を取るものなり。故に吾輩は自由主義もとよりこれに味方すべし。しかれども吾輩の眼中には干渉主義もあり、また進歩主義もあり、保守主義もあり、また平民主義もあり、貴族主義もあり、各々その適当の点に据え置きて吾輩は社交及び政治の問題を截断すべし。(同)


 つまり羯南は日本の興隆にむけていま何が必要か、その観点からその時々に必要な思想を採用していく「平衡感覚」に求めたのである。「国家はある面においては富者の専横を抑制する働きを持っている」ことを真正面から見つめる愛国者が、現代日本にどれだけいるだろうか。


●まとめ

 国家とは単なる利益共同体ではない。国家には必ず信仰とも呼ぶべき物語が存在する。しかし自己利益の追求のみを信じて疑わない経済は、国を単なる経済的一拠点としか見なさない。そして人々が自己利益を保証される限りにおいてのみ、国の存立を認めるのだと思い込んでいる。しかしそのような国家観、人間観は浅はかな考えに基づくものである。「政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府には非ざる也」(『西郷南洲遺訓』)と西郷隆盛が述べたのは言い得て妙である。まさに現代の政府は「商法支配所」になってしまい、護るべき「価値」を失い、我利我利亡者が世にはびこることとなった。

 『中庸』が説く平衡感覚は、人倫の根本を据えたうえで、それに沿うよう正道に回帰する動きを指す。それは極論を排し、世の議論の中間を探る行為とはまったく別物である。一方で、時が下り市場が発達していくにしたがって、人倫と市場の論理がかみ合わなくなっていく。『中庸』には経済論はほとんど登場しないが、後代の論客は経済においても、正道を据えて、市場の論理に固執せずあるべき姿に還ることを模索していた。洋の東西を超えた人類の叡智への回帰を模索することは、宗教、道徳、政治が渾然一体となった世界観を持つということでもある。こうした王道に基づこうとすることは、現代においても古びることなく模索されるべきなのではないだろうか。

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