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『われ片田舎のしめ縄作り』『われ故郷の香り』

【コラム】 岐阜支部 林 文寿


■『われ片田舎のしめ縄作り

去る3月中旬に私の住んでいる地域で、しめ縄作りの集まりがあり参加してきました。


しめ縄とは、神社の鳥居の上に掛かっているあの縄の事です。神社にお参りに行ったことのある、一般的な日本人(私の中で考える一般的日本人であり、このご時世では通用しない概念なのかもしれない)ならば珍しくないあの縄です。


私の住んでいる地区にある、秋葉神社のお祭りが毎年4月下旬にあるため、それに合わせて毎年地域住民による、しめ縄作りの行事があります。


毎年やっているのですが、私がこの行事に参加するようになったのは、ここ5年位のものなので自慢できるようなわけでもなく、そもそも縄ない(稲わらを両手で編み込んで縄にしていく作業)をすることすらままならない素人です。


一般的な日本人を自任している私ですが、今の日常生活の中で、縄ないをする機会は皆無です。恐らくこのメルマガに目を通す方の中で、縄ないを日頃やっているという方は非常に少ないのではないかと察しますがどうでしょうか。


日本昔話やらテレビの時代劇から想像するに、稲わらを使った縄というものは、日本人にとって古くからなじみ深いものだったのだろうと思います。


茣蓙やら蓑やら草鞋やら稲わらを使った道具たちは生活に欠かせない重要なものだったのだろうと思います。その道具たちを基本的には其々が家又は地域内で、自分たちの手によって作り生活をしていたのでしょう。


私の住む岐阜県の片田舎では、おそらくは戦後高度成長期前までは、そういった自分たちで使う道具を(以前に比べて減ってはいたでしょうが)自前する生活が残っていたのだと思います(好きでやっていたのではなく、貧しさ、経済的未発展段階ゆえに)。


つい70年前までは、縄ないとは誰でもできる当たり前の仕事だったと思われます。


しかし、現在45歳の私には縄ないが出来ません。一番の理由はその必要がなかったからです。特に縄ないを敬遠して生活してきたつもりはなく、時代の中で必要とされる技が変化したという事でしょう。


現代の一般的な日本人にとってスマートフォンをいじる技術は必要ですが、縄をなう技術は必要ありません。


しめ縄作りには、地区の男衆が寄り合いみんなで作業を分担して作ります。そもそも氏子である自分たちの神社の鳥居に奉納するしめ縄です。この作業もひとつの神事などだと感じました。神様に捧げるしめ縄を、皆で協力して作っていく。信仰心の自覚あるなしではなく、この共同作業自体が信仰のひとつの形だと思います。


神を通じて行う地域住民による共同作業、同一空間での時間の共有です。こう表すと礼拝の形にも思えてきます。そこに霊的な神を感じるという事が必ずしも必要ではなく、地域住民が一緒に俗物のためではなく、自分たちよりも大きな物存在のために、共同で何かを行うこと。それが重要な事だと思います。


昔の片田舎では、住民が共同しなければ生きていくことが困難だった現実があったはずです。そうした人々が力を合わせて大きなものを通じてひとつになる。それがお祭りであり、そのための準備作業としてのしめ縄つくりであったのだろうと想像します。


しかし、少子高齢化で過疎化が深刻なこの片田舎であっては、私よりも若い世代でのこの作業への参加者は皆無であり、参加者の平均年齢は60歳は超えているでしょう。この状況になってくると行事の存続自体が危うくなっています。


本来は、年長者、若年者との世代を超えた交流の機会でもあったはずです。そういった交流をしていく中で若年者は地域で暮らすこと、この土地に根を張って生きていくことを自然に身に着けていたのではないでしょうか。


しかし個への分断、タイパ・コスパのご時世です。この片田舎であっても御多分にもれずそんな考え方が当たり前です。


しめ縄なんて既製品を買えば良いとか、毎年作るなんて止めて樹脂製のものを用意すればいいんじゃね的な会話も作業中に聞こえてきました。そりゃそうだよなと仕方ないとは感じつつ、なんとも言えない寂しさを感じます。


あと10年後に地域でのしめ縄作りがどうなっているのでしょうか。それを考えると惨憺たる心地に成らざるを得ません。


しかし、しめ縄作りから私が感じたこと。それは、


“縄をない、しめ縄を作り、神という存在に対して奉納するという志は、共同体の一員としてこの土地に生きようとする人々の意志"


と同義だったという事です。


この片田舎で行われて来た風習は、日本各地でも同じような風習が行われてきたはずです。神という存在を通じて、私たち日本人は共同体を維持して生きて来たのだろうと思うのでした。


縄をない しめ縄つくれ 皆の衆 鳥居に渡して 心清まる



■『われ故郷の香り

私の住む岐阜県のある地域では、毎年5月中旬頃になると風景の中に真っ白い花を方々で目にするようになります。


その花は、ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)という樹の花です。名古屋辺りの街路樹で見たことがあるので、そこまで珍しい植物ではないのかと思います。ただ、自生のヒトツバタゴは全国的にも珍しいようで、自生のそれは天然記念になるようです。


私の知る限りでは自生のそれはうちの地域や長崎県の上対馬地方などにあるそうです。その縁があって、対馬との地域同士の交流があります(平成の大合併以前は大々的に交流を行っていましたが、うちの地域も合併で市に編入してしまい、それ以降の交流は細々続いている感じです)。


元々の自生のヒトツバタゴの数自体はうちの地域でもそれ程には多くはないと思います。ならば、なぜ目にする事が多いかというと、以前地域興しの一環でヒトツバタゴの苗木を各家庭などに配り、家の庭や街路樹として植えられました。今ではその苗木が育って立派な白い花を咲かせるまで大きくなったからです。


5月の里山では新緑が深くなってゆきます。そんな風景に真っ白い花はとても映えるものであり、車を走らせているとそれはパッと目に飛び込んで来ます。


ちょうどこの時期は水田に水が張られており、新緑と白い花と水を湛えた田んぼ。それがひとつの組み合わせとして私の脳裏には中にはあります。


ヒトツバタゴの花の近くに行った事がある方は知っているかと思いますが、あの花には甘い香りがあります。


田舎に暮らしていると、そんな四季折々の植物の香りが感じられるものです。春は木々の芽吹きであり、夏は燃え盛る草花、秋は落葉の。そして冬は香りたちが消えてゆく。


そういった沢山の香りの中で、私が自分の住む故郷の匂いだと強く自覚しているのがヒトツバタゴの匂い。子供の頃から当たり前に嗅いできたあの花の香りです。


という事で私のお国自慢はこの位にして。


そういった事を考えてみて思ったのは、記憶には質の違いがあるのだという事です。


思い出せる記憶の中で圧倒的に残っているのは映像ではないでしょうか。しかし視覚(映像)で得る情報(特に文字や数値)よりも、聴覚や味覚、嗅覚、触覚などはより身体的であり生々しく強烈な印象を記憶に刻む。


しかしその視覚情報よりも曖昧であり個人差の幅が大きく数値化が難しく扱いづらいものであるため、記憶の中では扱い易い視覚情報が優先されるのではないか。


技術の進歩によって、現代社会ではより視覚情報優位の傾向はより強くなっている気がします。また近代の衛生除菌社会が昨今のコロナ禍のおかげでより拍車がかかってしまい、身体の生々しさはより管理をされるべき対象となってしまっている気がします。


しかし、生きている限りは視覚以外の情報(刺激)は身体に降り注いでいるわけです。そんな人生の中で、多感な子供時代の身体的な生々しい記憶は生涯にわたって大きく残り続けると思います。私の場合はそれがヒトツバタゴの香りだったりするのです。


そういった子供時代の身体的な記憶はそれが生まれ育った場所の記憶。懐かしい思い出。故郷の記憶になっていくのではないでしょうか。


その思い出は、森の中の匂い、草原の匂い、磯の匂い、川原の匂い、畑の土の匂い、田んぼの泥の匂いだったり。または雑踏の匂い、煙突からの煙の匂い、金属粉の匂い、ペンキの匂いだったり。またはゴミの腐臭や硝煙の匂いだったり。


そんな香りたちに優劣があるわけではありません。その時間の記憶が幸福に満たされていたのならば、その香りと共に育った子供は、その故郷を良い意味で懐かしむ事ができるでしょう。その逆に育ったのならば、残念ながら悪い意味で故郷を懐かしむ子供もいるでしょう。


現代の視覚優位(数値優位)の社会なかで蜃気楼の如く立ち上がってくるタワーマンション。そんな生活の中では一体どんな匂いがするのでしょうか。そんな室内はひたすら無臭を目指しているようにしか私は想像できません(当の彼らにしてみれば、タワマンに暮らせない田舎者の負け惜しみでしょうがW)。


故郷の香りを持たずに育った子供はいったいどんな人間になるのでしょうか(こんな戯言を言う田舎者とは根本的に言葉が通じないのかもしれませんW)。


故郷は人間の軸だと私は信じます。


みなさんの故郷の香りは何でしょうか。それを思い出すのもまた一興かと。


緑萌え 皐月の山に 積もる雪 我の記憶に 故郷の香り


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