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複雑に決まっとる

【コラム】 東京支部 吉田真澄


 地球温暖化防止→SDG→脱CO→環境派政党の台頭→脱石油・石炭→ロシア産天然ガス依存→ドイツをはじめとするEUの相対的弱体化→ロシアによるウクライナ侵攻→人民戦線→大規模・長期市街戦→ノルドストリーム2の爆破→欧露分断深化→NATO諸国からのウクライナへの戦車供与→インフラの大量破壊→復興のための都市再建→CO大量排出

 

 たとえば、こんな事象一つ取り上げてみても国際社会の動きは、複雑にして不確実性に満ちている。シングル・イシューで順接のように見えた因果律なんて、いとも簡単に逆接へと転化していく。考えてみれば、世界では196国がひしめき合い、国益、宗教、イデオロギーなどをめぐって、くっついたり、離れたりを繰り返しているのだから当たり前のことかもしれない。しかもそこに国境を越えたグローバル企業というプレーヤーまで加わっているのだから、複雑性は、増大する一方である。しかし、高度情報化社会に生きる私たちは、溢れる情報の取捨選択だけで手一杯になり、すでに矢印1〜2本分の繋がりしか思考できない体質となってしまっているのではないだろうか。


 そのような状況下でも、わずかな知識人は、確固たる歴史観と豊かな知見のもと、的確な判断を下すことができるだろう。しかし、決して公正とは言えないメディアしか持たない国々(いわゆる先進国を含む)の市井の人々に、高度な情報リテラシーを身に付け、深い射程を持って物事を判断することを期待することなんて、もはや不可能ではないかと思えるのだ。

 

今般のコロナ騒動、ワクチン問題、ウクライナ紛争を通じて、私が敗北感、失望感、無力感とともに、改めて身にしみたのは「伝えることの困難さ」であった。古くて新しい問題でもある。でも、ここまで情報端末がモバイル化し、読むことより、見ることが選好される世の中となった現在では、人々に複雑な事象に対して多元的な視野から関連分野の文献・資料等を紐解き、比較衡量してみる、などいった行動を望むべくもないではないだろうか。だいいち、矢印の4〜5本先までの話なんか持ち出そうものなら、たちまち陰謀論者扱い(時には家人や、友人にまで)される始末である。バッカヤロー!


 お日様が出ると→あったかい、雨粒が頰あたると→冷たい、侵攻は→絶対悪といった矢印1〜2本社会の中で切り取られ、単純化された情報を、人々が、仲間意識確認行為のようにSNS等でキャッチボールしている様子を目にすると、デジタル・ファシズムは、すでに我々の身の回り(しかも、今や世界レベルだ)にまで深々と浸透しているかのように思われる。そんな空気感に、私がふと悪寒を覚えるのは、あのナチスドイツが、民主選挙で合法的に政権を獲得した際の支持層が、従来からの通説(日本では政治学者・丸山真男に代表される)で語られているような、冷遇されたドイツの低所得者層や大衆などではなく意外にも、社会的エリート層(米国におけるベトナム戦争介入時の強硬策支持層も同様)であったという論考(『日本人が知らない最先端の世界史』福井義高)を思い出したからである。


 振り返ってみれば、この3年間ほど、日本の指導者層は一体、国民をどう導いてきたのか。コロナでは国家レベルの学級閉鎖を。ワクチンでは、国民的免疫特性を考慮しない、相変わらずの欧米追従と、国際機関依存と、データに対する独自検証なきメガファーマへの忠誠を。そして、ウクライナ紛争では国際法原理主義(そうであれば、国際的には主権国家としての地位が脆弱な、台湾の未来はかなり危ういことになりますが...)を。もはやこの国には、難解な事象を解明しようという知も、気力も残っていないかのようである。

 

 世界の善良な市民たちを巻き込んで悠々と、しかしこれまでにない強大なトルクで流れゆく現代の情報大河。もし私たちがこのまま、伝える困難さを克服できなければ、伝えること(本来、言論だけではないはずだ…)に挫折してしまえば、伝えることを諦めてしまえば…。その大河が流れ着く先に待ち受けているのは、理想の未来などではなく、人類が忘れてしまいたかった過去の惨劇なのかもしれない。

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