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行き過ぎたリベラリズムの行く末を案じる

【コラム】東京支部 梅園みつ子


アリエルやティンカーベル役を黒人女性が演じることに眉をひそめたら差別なのか。差別なんかではない。「ドラえもん」がハリウッドで実写化されるとして、のび太くんの役を金髪碧眼の少年がやるとしたら嫌だ。それと同じで、原作やアニメですでに出来上がっているイメージと著しく異なることに、ただ違和感を覚えるだけだ。


公衆トイレや商業施設のトイレの「ジェンダーレス化」に反対するのはLGBTQの人々への差別なのか。差別なんかではない。男女共用トイレは悪用される危険性があり、女性にとっては身の安全に関わるという理由で受け入れ難いだけだ。


度を越したリベラリズムを象徴する、いわゆるポリコレとおぼしき例は他にもまだ色々ある。最近日本も含めて一部の先進国では、文具や玩具等で女の子はピンク、男の子は水色といった色分けをやめるとか、学校や職場(客室乗務員など)の制服も性別を問わずスカートとスラックスを好きに選べるようにするといった動きがあるようだ。また、日本航空やディズニーリゾートは乗客や来園者へのアナウンスの際に「Ladies and Gentlemen」と言うのを「多様性に配慮して」廃止したらしい。さすがにこれは行き過ぎではないのか。先ほどトイレの話で「ジェンダーレス化」なるものに言及したが、最近「ジェンダーフリー」「オールジェンダー〇〇」という言葉もしばしば見聞きするようになった。自分は、特に海外旅行先などでレディーファーストで丁重に扱われたときは素直に嬉しいと思ったが、そのうち「レディーファースト」という概念もなくなってしまうのだろうか。


ここらへんで「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と締めくくって話を終わらせたいところだが、「どのラインを越えたら『行き過ぎ』なのか」という問題が生じる。「常識の範囲で」と言えば、「では何が常識なのか」と反論されるだろう。これに関しては西部邁氏の言葉を借りたい。西部氏は著書「人生の作法」の中で、常識というものは昔からの積み重ね(歴史の流れ)で出来上がっているという面があるので軽く扱うべきでない、といった主旨のことを述べていた。もちろん、「これまでずっとそうだったから、これからもそうすべきだ」を例外なく全てのことに当てはめるべきだとは私は思っていない。日本社会には変えるべき悪習もたくさん存在する。しかし、長年一般的に常識とみなされてきたこと(公共の場や職場のトイレは男女別になっていて然るべきものだ、という感覚はそれに含めていいと私は思っている)を大きく変えるというならば、もう少し丁寧に、慎重に検討していただきたいものである。企業や政治家たちは、ただ「弱者とマイノリティの味方」をアピールすればイメージアップになるだろうという、浅く短絡的な考えでやっているだけだ。そしてメディアがそれらを好意的に取り上げるのにも呆れてしまう。この流れがこれ以上エスカレートしないことを願っている。

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