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良心を裏付けるものについて

【コラム】東京支部 日髙 光 コロナ禍において、我々の社会では道徳についての様々な論争があった。


表現者の内輪でもそれが発生した事は、これを読んでいる人ならまず間違いなく知っていると思う。


私自身も、表現者を通じて知り合ったとある友人とコロナについて色々と論争をして、結局袂を分かつ事になってしまったのだが、その論争の最後の方で、私たちは心の神棚についての話をしていた。


心の神棚というのは、私と彼が共に学んだ恩師が言い出した事なのだが、もっと世に馴染んだ言い方に直せば「お天道様が見ている」といった感覚を常に持ち、何かしらの判断をする度にそのお天道様の前に立つような気持ちを持つ、その精神的空間を指したものだ。


本当の良心というのは必ず何かしら従うべき権威を伴っているもので、そうした権威を持たない良心が主張する善意は所詮、社会契約上の不都合を回避する為の、わが身に降りかかる不利益を回避する為の、極めて利己的な動機によるものにすぎない。相手の方はさておき、少なくとも私はそのように考えた。


(例えば『コロナをうつされたくないから自分もコロナをうつさないためにマスクしたりワクチン打ったりする』というような…。それでは仮に自分がコロナにならない確証が得られたら、その人はマスクやワクチンに興味を示さない疑義がある。それは公共や他者の幸せを意識した本当の良心と言い切れるだろうか?というような話。尚ここでは実際の話はさておきマスクやワクチンは感染予防に効果アリという前提にしておく。)


私にとっては、その良心を訴える場所が心の神棚であり、その向こうには何か絶対的な存在が居る。


特にこれといった宗教に入信しているでもない私がこんなことを言うと奇妙というか、説得力を欠くように思われるかもしれないが、人間はどうしようもなく追い込まれた時、様々な形で神を意識せざるを得なくなる。(…というか、居てもらわないとどうにもならなくなってしまうのかもしれないが。)


個人的な話になるが、私が絶対者としての神を最初に意識したのは、大体10歳くらいの頃だった。


当時小学生だった私は所謂いじめられっ子であり、そのいじめはニュースで大々的に取り上げられるような陰惨なものでこそなかったが、一人の少年が人生に絶望するには十分なものだった。


このいじめに対して、幼い私の脳裏には二つの選択肢があった。一つは中学進学までの時間をこのまま耐えて、環境が変わり皆が大人になってこの下らない茶番を終える事を期待する事。


もう一つは、クラスメイトのいじめの加担者(殆ど全員だが)を全て襲撃し殺害する事だった。


(実際には幾らかの心あるクラスメイトとその親、そして担任の先生の本当の良心に救われる形で私はひとまずの平穏を取り戻すのですがそれはさておき…)


私が心の神棚の前で訴える事になったのは後者、「いじめ加担者を全員殺害する」選択肢を取る事を考えた場合だった。


少なくとも、日本の法律や社会的な都合を根拠とした習俗が私を許すはずは無かった。私自身許されるなどとは微塵も考えていなかった。


しかし、幼い私がその短い半生で見聞きし、言い聞かされ、体感してきたこの世界の本当の規則は、当時の条件であれば幾らか私を弁護してくれる可能性が高いと考えた。


それは間違いなくこの社会を相手にしたものではない、絶対者たる神を相手にした裁判を意識したものだった。


私はそこでさえ許されるなら、その極めて暴力的な計画を実行して良いと思っていた。


一方で、私はそう信じて計画を実行した場合、神が本当に私を許すかは分からずにいた。少なくとも決めつけてはいなかった。


全てのカタが付き、私が実際に神の前に立たされた時(当然、この世においては私は有罪とされ、それにふさわしい報いを受けただろう、その後の話として)それでも私は有罪だと言われたなら、素直に諦めて地獄へ行く。


私はそんな覚悟を決めた上で、事前に心の中で一所懸命に考え、全神経を研ぎ澄まし、心の神棚にてお伺いを立てた。そしてその回答としては「少なくとも現世の人々はお前を無罪とはしないだろうし、今の状況ではそこまでの行為はまだ認められない。」…までしか感じ取れなかった。


心の神棚の前に立つというのは、概ねこの様な感覚である。


明治以降、日本には絶対者としての神が居ない事、その重大性が様々な人によって語られてきたが、個人的にはこのような形で、本当に追い詰められた人間の心には、否応なしに絶対者としての神が求められ、何らかの形で現れる筈だと思う。


宗教が定義する様な明確なルールがないにしても、その土地、その国の地形や気候、幾らかの歴史的経緯を反映した何かしらの規則、その答えの様なものが存在し、それは幼き日の私が試みたように、我々がその人生において経験したあらゆる事を思い返せば、その影くらいはつかめる筈なのだ。


その規則は、決して人間理性によって設計されたものとは別な形をとる。少なくともそのようになる傾向が期待できる。


この心に浮き上がってきた影を絶対視せずに、その理解を神に問うという営みが出来さえすれば、社会的な都合やエゴイスティックな判断に惑わされず、一人の人間として正しい答えを出せる。


逆にそうした営みを持たないが故に、我々日本人は、欧米では最早過ぎ去ったものとなりつつあるコロナ禍を継続し、マスクやらワクチンやらに振り回されて生きているのではないか?


歴史や自然の織りなす世界の奥深くにある筈の神の意思ではなく、ただ人の顔色を窺って物事を決めてしまっている。故にそれは本当の良心とはならず、ただ社会生活上の不都合を避けているに過ぎない。


(保守的な理性への懐疑だとか漸進的態度だとかいうものは、後者のような愚劣な臆病者の言い訳としてあるのではなくて、前者のような崇高なものと対峙し考えて動く人の勇気が蛮勇とならないよう用心する為のもので、だからこそ保守思想はバークやチェスタトンのような信心深い人々によって生み出され引き継がれたのだと私は思うのだが、それはまた別で書くとして…)


クライテリオンは別に宗教を立ち上げる為の雑誌ではないが、少なくとも心の神棚にて行われるような様々な煩悶の結果として現れるものを、一つ一つ書き記していく事で、良心の基準を表現するのが一つの目的だった筈である。


故に心の神棚で私が何をしていたかを書くことは、クライテリオンにこれから記事を書こうという人にとって、それなりに意味のある事と思う。


冒頭の、コロナ禍で論争した嘗ての友人と心の神棚について話した事を今になって思い返すと「神の論理とは、大した事の無いウイルスに関する扇動的な報道や、著名人の死などによって突然変わったりするものだろうか?」「幼稚な生命至上主義を散々批判し、言葉の使い方に拘った筈の表現者の人間が、コロナ如きで自粛がどうだのとほざく行為は、お天道様の前で恥じるところは無いのか?」と言いたくなる。


そんなもので答えを変えてしまう様な心の神棚は、所謂カルトのそれであろうが、本当に必要な心の神棚は、人類に必要は信仰は、真の良心は、そんなものではない。


正しく自然の法則や歴史や伝統から導き出される答えは、かならず神の意思を反映しており、当然それに相応しい一貫性をもって、心の神棚にて我々に語りかけてくるだろう。単なる社会における個人的都合とは違う本当の良心、その信じ方と確かめ方について、我々は真剣に考える必要がある。

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