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精神について

【コラム】 信州支部 御子柴 晃生(農家)


農業を生業とし、日々作物に雑草に害虫に触れていると思うことがあります。これら動植物には「精神」はあるのか、精神とは何かということです。


字引には精神とは「人間の「こころ」、また、その知的な働き」とあります。「人間の」とあるため人間以外の動植物には精神が無いということでしょうか。自分の経験では作物に見られていると感じることもあり、植物に音楽を聴かせると良く育つなどの話もあったりします(ただこれは自分の妄想や、音に対する反応であって、精神とは別な気がしますが)。


動物はどうでしょうか。学生時代に鶏・豚・牛などの家畜の世話を朝から晩まで3カ月ほどやったことがあります。どの種も本能と「習慣」の狭間で生きていると感じました。


自分は猫好きで、これまで猫が家にいなかったことがほとんどありません。猫も本能と習慣で生きているようですが、普段はこちらを馬鹿にしているような顔をして寄り付かない猫が、こちらが落ち込んでいたりするとそっとそばに居てくれる、なんてこともあり、心があるのかもと思うことがあります(豚にも同じように感じることもありましたが、猫も豚も自分の妄想、良く言って物語ではないかとも思います)。


「精神」=「心」とは何なのか。自分なりに考えてみました。心は実体のあるものではありません。心はどこにあるのかと息子に質問されたとき、自分は「人と人、人とものの間にある」と答えました。対他関係のなかにあるということです。


おそらく太古の昔、ヒトは時間意識を獲得したと同時に、空間意識のみで対象を捉えるよりもより深い捉え方、対象を抽象と具体で捉える認識能力を得た。この能力を「習慣」のなかで、他者と共同で繰り返し確認することによって「精神」=「心」が、言葉が、そして「共同の想像力」が生まれたのではないか。共同の想像力にもとづくある特定の集団の「慣習」が「文化」=「生き方」ではないでしょうか。


話は変わりますが今回の都知事選挙について。自分はこれを「野蛮」と感じました。野蛮とは「文化の開けていないこと、教養がなく、粗野なこと」を謂います。


政見放送で脱衣、ポスタージャック、石丸違いの記名間違い云々・・・何なのでしょう。日本の、故国の首都の選挙です。子細に見てはいませんが(見る気も起きません)、自分の想う日本人の文化とは全く反する、その文化を打ち壊すことを目的としているようなものに見えました。少し時を遡ればコロナ騒動の際に「新しい生活様式」ということばが、推奨が、実質的命令があり、多くの人々が唯々諾々と、陰に陽に従いました。


このできごと、この人々に「文化」=「生き方」、「共同の想像力」はあるのでしょうか。「慣習」を大切に、少なくとも気にしているのでしょうか。「習慣」のなかで、他者と共同で繰り返し確認することはあるのでしょうか。


「文化」があるとしても、自らの文化を破壊する「文化」など、自分がかつて世話をした動物、家畜にも劣ると考えます。かれらは少なくとも自らの習慣に命を懸けていました。


少し言葉が過ぎたかもしれません。


しかし、「文化」=「生き方」は人の内面・外面をほとんど規定する、決定的に重要なものと考えます。それを「○○理論では~」「原則では~」「計算では~」「戦略的に考えると~」云々と、人の生き方をズタズタに裁断するような話にはどうしても首を傾げてしまいます。


そんな話にのって踊らされるよりも、自らが生まれた瞬間から練り上げ続けてきた「文化」「生き方」「慣習」「習慣」そして「心」に正直に、素直に生きたほうが余程よいのではないか。


ただし人の習慣も集団の慣習も悪習としか言いようのないものもあり、その文化も不完全であります。どう考えればよいか。僕は、歴史、物事の持続、そのなかに見出されるはずの「伝統」がもたらす平衡感覚に重きをおく保守主義に惹かれました。保守主義をよすがに、生き方を、時間をかけて、より良いかたちにしてゆく必要はあります。


そのほか何だかんだありますが、結局、より「しあわせ」に生きて死ぬには、自分及び自分を現わしてくれる人々と場所が共有する生き方に素直になることが大事ではないでしょうか。


「えらそうに、誰だお前は」といわれると、すみませんと言わざるを得ないところが僕には多々あります。しかしどう考えても僕の小さな頭ではこれしか考えられません。なので、今後もこの調子で生きて死のうと思います。


【御子柴晃生(みこしば・あきお)】

89年長野県生まれ。

八ヶ岳中央農業実践大学校専修科卒業。

広丘御子柴いちご園代表。

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