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社会的問題へのものの視方について(「虫の目、鳥の目、魚の目」と「僕の目」)・後編

【コラム】 東京支部 ともあすろう

前編では経済問題とコロナ問題について、主流派、正統派それぞれはどのように論じ、対策を掲げたかについて簡記した。経済問題では主流派はその経済理論により生産性向上を、正統派は現代貨幣理論により消費減税を、コロナ問題では主流派は徹底自粛を、正統派は自粛と社会活動のバランスを取るべきと主張していた。また、社会的な問題を扱うに当たり、多角的な視点「虫の目(ミクロな視点)」「鳥の目(マクロな視点)」「魚の目(時流の視点)」により観察していくことが重要であることが社会的に認識されていることを述べた。しかし、主流派の対策は、誤ってしまい、国家や国民に大きな被害を与えているのは、御存じのとおりである。そこで後編では、主流派と正統派の視点とその構造の違いについて考察していく。


主流派と正統派の「虫の目」「鳥の目」「魚の目」

まず、主流派のミクロの視点「虫の目」については、主流派経済理論における「経済人」が最小単位であるため該当しそうである。ただしこれは、理論を構築する為の仮説であり観察されたものではない。或いは社会から観察されたある個別の経済活動が「虫の目」なのであろうか。確かに◯◯国財政破綻や◯◯会社倒産のような話は仔細に分析されている。またコロナ問題では同様に西浦論文の「仮定のウィルス」もあるが、これも「経済人」同様、現実から観察されたものではない。従って同様に医療現場から抽出した個別の事案もそれに該当しそうである。◯◯病院クラスター発生、医療逼迫のような話はメディアを賑わわせ、多くの知識人が意見を語っていた。

一方で正統派の「虫の目」は経済問題では「貨幣」、コロナ問題では「ウィルス」が該当しよう。というのは、それぞれこれ以上分解出来ない最小なものであり、かつその扱う事象の範囲内全てに等しく影響を及ぼすものであるからだ。

次に、俯瞰的に観察するというマクロの視点「鳥の目」はどうであろう。主流派の経済理論には貨幣観が無く一般均衡理論により需要と供給は常に一致する[1]ことから、供給側から社会を観察すれば良いということになる。そして、商品の価格が上昇するインフレ現象を嫌い、価格が下落するデフレ現象を歓迎し、その対策は“生産性向上”という結論に辿り着く[2]。しかし、我が国の経済は、GDPも上昇せず、賃金も上がらず、新たなイノベーションも発生せず…ジリ貧である。コロナ問題では医師や知識人は、コロナウィルスによる感染者数、重傷者数、死亡者数だけを根拠にの徹底的な自粛を実行させ、初期には都心の歓楽街も閑散となる状況が、現在では自殺者の増加や他国とGDPの棄損等様々な問題を発生させている。確かに人と接触しなければウィルス感染はしないが、自粛は社会全体に影響し、人に経済的、精神的な負の影響を与えることはのは明らかであり、社会を病院内のようにそれだけ対策すれば良いということはない。

正統派は、現代貨幣理論の貨幣観により需要と供給の両面からの解釈を可能にする。信用貨幣とは国家により創造された債務と債券の“ただのデータ”なのだから、労働により生産されたモノやサービスこそが経済の本質であり、価格の変動から需給バランスの状況―インフレ、デフレという現象―を解釈が出来る。そこから価格の下落は需要不足によるもので→賃金の下落→購買力が下がる(需要不足)→価格の下落→…と負のスパイラルに陥る、との理解に辿り着く。信用貨幣論者から見ればデフレは歓迎すべきではなく、経済が縮小する恐ろしい不況であり、現実問題として商品が売れない、投資が行われず内部留保が増加する、失業者が増加する、日本経済は成長できない等の社会的問題が発生している。この時労働生産性を上げて供給力を高めようにも需要が足りなければモノは売れず、その達成は難しい。従って現実の経済は、供給と需要両面から観察する必要があるのだ。次にコロナ問題では、患者を最小化する徹底自粛は明らかにコロナ以外の被害を拡大させる危険性があることから、経済学、社会心理学等様々な知見等を用いた社会全体の俯瞰が必要で、最小限の自粛と努めての経済活動や社交の継続により被害者総数を最小化させる半自粛を主張していた。コロナ被害は、社会全体の問題の一部であり、これだけに拘る訳にはいかないのだ。

最後に、時流を観察するという「魚の目」という視点についてでは、主流派の論者達は、経済不況の原因をその時に発生した外的要因[3]を原因とした。例えばアジア通貨危機、夏季の気温上昇、災害の頻発…と理由様々なのだが、そのメカニズムは詳細に語られることは無く、過去の解釈と矛盾を起こしたとしても総括はしない。また、「国の借金」による「財政破綻」が屡々喧伝されるが、政府債務がどんなに上昇しようと政府の債務不履行の兆候や円の価値の極端な低下は確認されないが、この検証も行われない。コロナに関しては一貫してウィルスを恐ろしいものとして、日々死者や重傷者の数値を流し続け、波が収まれば総括することもなく波がくればうろたえるばかりであった。

正統派の経済理論はデフレ化した90年代のバブル崩壊や消費増税、日米構造協議や敗戦、明治維新までも端緒としての考察も可能で[4]、最近では日本以外の先進諸国でのコロナ対策への財政出動による好景気の現象もその理論での説明している。コロナ問題にしても、ウィルスを「毒性はそれほど強くはなく、老人は気を付ける必要があるが、若者は社会生活を営むべきで、新株になるほど感染が広がる分弱毒化される」と一貫し、インフルエンザ等の他の過去の疾病と相対的な比較や収束の都度に総括し、様々なことが明らかになった現在では、死者数や重症者数、感染拡大収束予測等、大筋正統派の見込みとおりであった。


社会的問題への正しい視点とは

それぞれの経済問題とコロナ問題の視点について考察したが、その構造はどちらも主流派、正統派共に類似していることに気付くことが出来る。まず主流派「虫の目」は、「経済人」や「ウィルス仮説」と仮説の何か或いは、“ある個別事象そのもの”であった。しかし、仮説の何かは観察されたものでなく観念であり、個別な事象では部分や断片なのだから、それらから一般論を語るのは適切では無かろう。他方、正統派のそれは、「信用貨幣」、「コロナウィルス」と「扱う事象、社会問題においてその全体に影響を及ぼすものの最小なもの」を観察、抽出して定義し、その論理に埋め込んでいた。

次に主流派の「鳥の目」は供給側のみ、コロナウィルス被害のみという「全体うち部分のみ」を観察し全体を評価していた。正統派は、需給両側、コロナと自粛による社会全体と「扱う事象、社会的問題での最小なものが影響を及ぼす範囲全体」を網羅していた。これは正しい「虫の目」を観察し、ミクロとマクロの解釈学的循環していくことで全体を網羅する「鳥の目」に到達していたのだ。

そして「魚の目」では、主流派は解釈に矛盾が生じたり、都合の悪い事象を黙殺していた。正統派は「虫の目」と「鳥の目」に相矛盾が無く「扱う事象、社会的問題での最小なものが影響を与えた端緒から連続的に一貫した解釈が可能で、論理的な予測が可能」であった。

主流派は、これらを押さえてなかったことから「虫の目」「鳥の目」「魚の目」というより、恣意的、断片的な視点「僕の目」となり、例えばミクロとマクロで合成の誤謬を起こす、相矛盾した「ガチャ目」となってしまうこともあった。彼らが視ていたのは、観念や断片であり、全体の中の一部を視て一般化していた。そして都合の悪い結果や事実が現れても、総括しない、解釈を変える等で省みることはしない。これではその構造を適切に捉え、効果的な意見に到達することは出来ないであろう。

この正統派の視点と思考の構造は工学の世界では当たり前のようだ。例えば何らかの構造物(例えば、ダム、橋、家)を建設する際、最もミクロなその材料や部品は強度や特性はマクロの全体を考えながら精緻に選ばれ(虫の目)、全体を俯瞰しながら調和するよう精緻に形作られ配置していく(鳥の目)、という循環を繰り返している。これら構造物の建設は過去の経験に基づくもので、時間の経過、自然の猛威という審判に晒され続けるため(魚の目)、一定の普遍性がありそうだ。しかし、知識人の多くが、自身が語ろうとしている事象や社会問題について語るとき、正しい「虫の目、鳥の目、魚の目」の視点から観ることが出来ないことが確認される[5]

例えばロシア-ウクライナ戦争に関して考察してみると、主流派は悪の独裁者プーチンがウクライナの善良な国民と民主主義のリーダーゼレンスキー大統領(虫の目)に国際条約を無視し侵攻をした独裁政治対民主政治の戦い(鳥の目)であり、民主政治側の日本はアメリカやNATOに従属してロシアに対立して行くべし(魚の目)となっている。一方、伊藤貫氏や表現者側の論考は、確かにロシアは国際法を違反してウクライナを攻撃しているが、そもそもロシアの国富を長年に渡り搾取し追い込んだのはアメリカを中心とした投資家達等であり、プーチンによる再三の警告にも関わらずクリミアを刺激したこと、両国民の歴史感情とクリミア半島の地政学的意味、アメリカ(ネオコン)によるロシアへの経済侵略という様々な視点(虫の目)から議論を進め、当事国のみならず、NATO諸国やイラ中国を加えた地球儀的に俯瞰(鳥の目)して観察しており、戦争の長期化は、中国と習近平を喜ばせ、その最もの被害者は(台湾と)日本である!(魚の目)と警鐘を鳴らしている。どちらがより真実に近い視点かと問われれば、言うまでもないであろう。本論考における視座の問題は、議論における必要条件であり十分条件では無いだろうが、この前提すら満たされていない議論が世に溢れているのである。正しい視点を持つことを怠れば国を滅ぼしかねない。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ [1] 一般均衡理論の考え方で社会を観察すると、その背後にセイの法則及び金属貨幣論といった観念が含まれてしまうと考える。というのは、一般均衡論とは供給と需要が一致するならば、「供給が需要を生み出すとも解釈できる」=「セイの法則」であるからだ。また、信用貨幣が含有されていないということは、物々交換の社会を示唆しており、使用されている貨幣は信用の負債ではなく何か「モノ」であると考えられるからだ。 [2] 確かに経済を供給側からのみの観察で良いならば、成田悠輔氏が言うように、消費しかしない高齢者は経済活動に何ら貢献しない主体となり、経済成長の妨げとなるであろう。 [3] これは政府にも言えるが、主流派はマクロ経済政策の失敗や不況の継続をアジア通貨危機、地球温暖化や異常気象のせいにして言いっぱなしにしていることを覚えている方もいるのではないか。 [4] マクロ経済の長期の渡る分析は島倉原氏が詳しく分析している。 [5] そもそもミクロ経済学がこの視点を有していないことは、本論で述べたとおりである。医学分野も専門分化し総合医療的視点に欠けていることが、森田洋之医師や和田秀樹医師らから指摘されている。 またマクロ経済学で確かな視点を持ち共闘していてもコロナ問題では正しい視点を持てず、表現者と袂を分けてしまった論者もいた。知識人でもなかなか正しい視点を常に持ち続けるのは難しいようだ。

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