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社会的問題へのものの視方について(「虫の目、鳥の目、魚の目」と「僕の目」) [1] ・前編



誤った結論に辿り着く、主流派の知識人、専門家、メディア

表現者クライテリオンの読書であれば、現在の我が国で経済問題やコロナ問題はどうすべき(であった)かを考察、議論する場合、その前段の結論は概ね共有されており、前者は、信用貨幣の円が流通しているデフレ化の日本では消費税減税を含む積極財政の実施が効果的であること、後者は、コロナウィルスとその病状を諸現象から明らかにすることで自粛と緩和の適切な地点を探し出し、コロナウィルスによる病死者と自粛営業による自殺者及び経済被害等を最小化とにすることを目指すこと等が了解されているであろう。

しかしこれらの問題について、我々の前提と主流派の意見や世間の通説とが乖離しているのはご存知のとおりである。勿論、世間が正しく我々が誤りならば、真摯に受け止め考えを改めるのは吝かでないが、経済問題では、彼らが言うような財政破綻や円の信任の喪失は起こらない変わりに日本経済の縮小、衰退が進み、コロナ問題は、当初予想されていたような死者は発生しない変わりに自殺者の増加や様々な社会問題が発生しており、我々が学んでいる言論の結論と警鐘に近く、正統性はこちらにありそうである。しかしながら、主流派の知識人や専門家、喧伝するメディアは、自身の不明を恥じることなく、様々な理由を並べて自己を正当化しているかのようだ。何故、彼らの議論からは誤った結論が導き出されるのだろうか?その構造について、2回に分けて検討していきたい。


経済問題・コロナ問題における論理の比較

では、主流派と正統派の経済問題とコロナ問題について、その対策の主張や理論について簡単に纏めていこう。

まず、主流派の論理的主柱であるミクロ経済理論には、貨幣について定義はなく[2]個人を合理的に行動する「経済人」と仮定し一般均衡理論を構築している[3]。これによると生産された商品は全て売れるため需要と供給は常に一致する。従って、効果的な経済政策として供給側からの「生産性向上」を主張、労働生産上の無駄を省くことが必要となる。この理念は構造改革法案等で現実社会に適用され、その後日本経済は成長せず縮小、衰退しているが、彼らに言わせれば、「改革が足りないからだ」となっている。

正統派は、主に現代貨幣理論をベースとしており、最も効果的な経済政策の一つに「消費減税」を主張している。簡記すると「信用貨幣論に基づけば、通貨発行権のある国家は財政破綻することはないため、経済が縮小しているデフレ下では財政収支を守る必要はなく、消費減税は直ちに全ての商品価格を1割程度軽減することから、消費行動が活発になり経済を活性化させる効果がある。」というものである。この時、「信用貨幣」→「国家は財政破綻しない」→「消費減税は可能である」→「全ての物品の1割減となる」→「個人消費が活発になる」→「社会の景気が良くなる」と、ミクロとマクロを解釈学的循環させ論理を積み上げている[4]。また議論の端緒もデフレ不況が始まった平成始め頃に語られることが多いが、当時のデータ、状況も当然現代貨幣理論で解釈可能で矛盾無いにも関わらず、毎回藁人形論法のような批判に曝されその理論が広まらない。

コロナ問題の議論においてでは、西浦論文での43万人死亡というウィルスを危険側に推測した仮説は国民に衝撃を与え主流となり、その後の行動が決定された。日々メディアに登場する医師や知識人はその流れに乗り、自身の知り得る医療現場での献身的で凄惨な情報、特に死亡や重症事案について伝え、喝采と恐怖を植え付けていった。俯瞰的な視点という点では、主要メディアから流れる情報は、感染者数、死亡者数、重症者数の数を流し、増加すれば大きなニュースとしてその日は各局で何度も報道された。その結果、コロナ対策として徹底自粛とワクチンの頻回接種の主張が支持され、直接サービス業を中心とした経済的被害と女性や若者を中心とした自殺者の増加等の様々な社会現象(更には、超過死亡者の発生の疑義も!?)が発生しているが、関連付けられた報道は少なかったようだ。

一方で正統派はコロナ問題においてまず、コロナウィルスを明らかにしようと努めていた。確かに貨幣とは異なり間が発明したものではない[5]ため、その定義は容易ではない。そこで正統派の論者は、日々の国内感染者数や重症化率等の公開されたデータとウィルス学や統計学等の既知の知見をとの解釈学的循環によりその実態を明らかにしていったのである。そこから、ウィルスは若年層にはさほど脅威にはならず、また、徹底自粛は感染防止にさほど効果が無いことを現実のデータと既知の理論との解釈学的循環により明らかにしていった。その一方で、E.ディルケームの自殺論等から徹底自粛は経済的被害や心身健康を損ね、多数の自殺者を出す等の警鐘を鳴らし、自粛と社会活動のバランスを取るべきと主張したが、主流派からバッシングを浴びたのである。


「虫の目、鳥の目、魚の目」

何かを対象にして考察する場合、精緻で多様な視点、大所高所の視点から観察したほうが蓋然性が高い結論、方法を導くことができることは論を待たないだろう。世間もそのような精緻かつ大所高所の視点の考え方に関心は高く、例えば「虫の目、鳥の目、魚の目」という言葉をネット検索してみると、民間企業やコンサル会社、自治体、学会…様々な組織、団体がこれらについて語っている。その意味とはおおよそ次のもので、「虫の目」とは近づいて様々な視点から見ること、「鳥の目」とは俯瞰して見ること、「魚の目」とは時流の流れを見て直感的に判断することであり、組織を運営、経営する上でこれらの視点は、非常に重要云々…というもので、あらゆる組織、団体からの関心は高い。主流派経済学を代表する伊藤元重氏もこの多角的視点を重要視し、「経済を見る3つの目」として自論を述べ著書を上梓している[6]。氏によると、「経済を見るには3つの目が必要」であり、「虫の目」とはミクロ経済学的視点であり、「鳥の目」とはマクロ経済学的視点、「魚の目」とは社会で起こっている諸現象がどう影響していくか見極めること、である。またコロナ問題では、メディアに出演する医師は現場の凄惨な状況を語り、日々全国の感染者、死亡者の情報や西浦教授に代表されるマクロデータの分析等が報道されている。このように、世間は「虫の目」「鳥の目」「魚の目」のような多様な視点が重要だと理解しているにもかかわらず、誤ってしまうのである。では、主流派と正統派では、その視る目において何が異なるのであろう。後編では経済問題とコロナ問題について、主流派と正統派それぞれ主張や対策について、纏めてきたことを踏まえ、それぞれの視点―「虫の目(ミクロの視点)」、「鳥の目(マクロの視点)」、「魚の目(時流の視点)」―について、その違いとそれぞれの構造を明らかにして論じていく。


[1] 私の遅筆が悪いのだが、表現者クライテリオン誌2023年5月号から似たタイトルの連載が始まってました…。本稿を投稿したらじっくり拝読させていただきます。決してパクッテないですよ。

[2] 貨幣の概念を定義していないことは、素朴に市場の商品と同じような有限な物質(金属貨幣論)と考えてしまうためか、「消費減税」という対策はプライマリーバランスというルールに縛られてしまう。確かにこのルールは、貨幣の供給に制限があると解釈出来ることから金属貨幣論的である。

[3] 一般均衡論からは、供給過剰によるデフレーションについて

[4] 他にも例えば経済対策としての国土強靭化を語る場合であれば、どこにどのような防災インフラを構造するか、労働力をどう確保するか、というような子細な議論も必要になろう。

[5] (某国の研究施設から漏れたとの学説もあるが、だとしても文脈の本質とは関係ない)

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