生命力とは何か?〜理由なく動き続ける宇宙をめぐって〜
- k.inaweofgaulle
- 2023年4月2日
- 読了時間: 9分
【コラム】 東京支部 K.T(都内医師)
「保守思想は死ぬ運命にあるのか?後編」を執筆して、他の塾生の方より生物学的に人間を理解しようとするのは魅力的であるけれど、物質の反応に目的があると考えるには限界があるのではないかというご指摘を受けた。今回は、この問いかけに対しての答えを書きたいと考えた。
現代人の多くは、物質が動いたり反応したりするのはその原因となる出来事が先立って起きているからであると考えている(と私は感じている)。物事を因果関係によって説明しようとするのが科学であり、科学的に説明できるものを事実と考えるという認識の枠組みが私も含めほぼ全ての現代人の無意識に埋め込まれているのではないだろうか?
しかし、当の化学はというと、このような認識に立ってはいない。物理学は、物質の運動原理を明らかにして法則によってこの世の森羅万象を統一的に記述することを目指す。そのため、物質の最小単位や物質間に働く力の追求を試みる。例えば、物質は分子・原子でできているというところからさらには、その原子は原子核とその周りを飛び回る電子で構成されているという。原子核はさらに陽子と中性子からなり、この陽子と中性子も3つのクォークという素粒子からなるという。ここで問題となるのは、ではその素粒子はどうして存在するのですか?と物質の根源に向かう質問は無限に続くことである。超ひも理論にしても量子重力理論にしても、どれほど物質や力の最小単位についての問いを進めても、その現象がどうして起きているのかを説明することはできない。ただ、私たちが生きている宇宙というのはそのように「動いている」ということが現象として拡がるばかりである、
そうすると、認識をひっくり返した方が良いということになる。つまり、この宇宙はそもそも理由なく動き続けているのだと。宇宙は、誰かが動かしているわけではなく根源的な動力なしに変化し続けているのだと。宇宙の内部では、それぞれの粒子はエネルギーの法則に従って運動しているが、宇宙自体が動いている理由はなく、宇宙とは動くものなのだという認識の転換が必要なのである。

※ 量子重力理論の物理学者カルロ・ロッヴェリ
「かりにこの世界がものでできているとしたら、それはどのようなものか。原子なのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし、量子場は相互作用や出来事について語るための言語規範に過ぎないことがすでに明らかになっている。(時間は存在しない NHK出版)」
そうやって、もう一度私たちが生きているというところまでを振り返っていきたい。宇宙はそもそも生命が誕生する可能性を孕んでいた。さらには、人間のように心をもって生きる生物が生きる可能性を持っていたということになる。物理学がまさにそうであるように、実際に起きている現実が一体何で起きているのかを説明しようとする試みが科学であると。そうすると、粒子は他の粒子との間に関係を持つことができる。粒子には共鳴や電子の授受を通して、他の粒子と関係を持つことによって初めて変化が引き起こされるという性質がある。こうして、粒子が関係を持って物質は複雑化することができる。
原子同士の結合は、原子間の電子の共有によって決定される(イオン・共有・金属結合)が、これらの原子間の結合やそれによって誕生する分子間の結合はそこにエネルギーが加わることで引き起こされる。こうして化学反応が生まれるが、化学反応にはその前後でエネルギーを外から奪う吸エルゴン反応とエネルギーを放出する発エルゴン反応に分けられる。発エルゴン反応は、エネルギーを周囲に発するので次の化学反応を引き起こす力を持っており、即ち化学反応は連鎖する可能性がある。
化学反応の連鎖の仕方は、一連の化学反応が連続して起こるということである。この一連の化学反応ののちに再度もとの化学反応に戻ってくることがありうる。そうするとちょうどしりとりで元の言葉に戻ってくるとそのしりとりが閉じて永遠にループするように、化学反応もループすることができる。すると、一連の化学反応がチームとなり同じ化学反応が半永久的にループすることが起こりうる。ここでは、化学反応は起こり続ける=変化し続けることが旨となるのである。化学反応は始点から終点ではなく、動き続けるものへと変化する。このような状態は複雑系科学において不安定系と呼ばれる。
進化生物学者のスチュアート・カウフマンは、この不安定系の中からどのように生命=生きたシステムが起こるのかを明らかにした。カウフマンは、ループを形成する化学反応でできる物質が次の化学反応を助ける=触媒となる関係を持つことが必要になるという。つまり、一連の円環を形成する化学反応達が互いに助け合っている状態が生きているシステムという。こうやって化学反応が助け合ってチームを形成し、このチームがチームとしての自己同一性を保ちながら循環している状態を「集合的自己触媒集合」と呼ぶ。集合的自己触媒集合は、それを満たす限りどれほど複雑になっても生きているということになる。

※ スチュアート・カウフマンの示す集合的自己触媒集合(WORLD BEYOND PHYSICS:生命はいかにして複雑系となったか 森北出版より)
さて、こうして物質は生命となり、生命は進化する力を手にしたのだ。生命は、生きている限り無数の化学反応を連鎖させて生体内部の秩序を維持する。多細胞生物・多臓器生物であるヒトでも同じことが起きている。ここで重要になるのは、生体は自分を形成する数十兆もの細胞を連動させなければならないということである。多臓器生物では、細胞は筋肉や肺、血球などのように臓器ごとに特性を持った状態として存在している。生体は自分が置かれている環境に応じて、これらの臓器の働き方を調整して生き残るために適応を行う。そのために、これらの数十兆の細胞は高度に統合されていなければならない。細胞同士は、内分泌系や神経系を通して、全身の状態に応じてその働き方を互いに調整する。このような生体の複雑なネットワークを免疫学者の多田富雄氏は超(スーパー)システムと呼んだ。
脳は、その中でもより情報の統合に特化した臓器である。高等生物の特徴はなんといっても、脳=中枢神経系の発達と言ってよい。脳の発達は、その生物の生体が全体としてその時々の状況に対してどれほど多様な行動の選択肢を有するかに対応している。人間のように、他の個体とコミュニケーションを取り、前脚は手となり道具を扱い、動かせる関節のパターンが無数になった高等生物は、身体が全体としてまとまった行動を選択するために必要となる処理すべき情報量が天文学的に増大する。ここで、脳はまさにAIが機械学習を行うように「概念」を扱うことができるようになる。脳は、情報処理の中で特徴量が一致するものを概念と紐づけて同一化することができる。色や大きさが異なるものであっても、同じ特徴量を有していれば例えばそれは「同じコップである」と認識することができるようになる。そうして、脳はコップに付随する無数の情報を「コップ」という概念に圧縮することを可能にする。これは、行動にも言える。例えば、自転車に乗るという行為は、時々に応じて右手の小指をどう動かすか、左膝をどう動かすのかなどをいちいち私たちは理性的に選択しているのではない。意識は、自転車に乗ってどこどこに行こうと思いさえすれば、その概念に紐づいた情報処理が無意識下で自動で行われ無数の筋肉や五感から入ってくる情報は統合した形で処理されるのである。
こうやって、生きる上で無数の細胞をどのように協調させるのかという時点で生体は「概念」を扱うことができるようになる。この概念は一つではなく、脳は複数の概念を組み合わせて文脈を生成することができる。状況に応じた複雑な行動を選択し、また状況を把握する上で状況を説明しうる幾つかの候補となる仮説同士を比較する推論を行うことが可能になる。こうして、思考の元となる複雑な操作が行われるのである。

※ 脳の動き方のイメージ図(筆者が構成主義的情動理論や予測誤差最小化理論に基づいて作成)
脳が、どのようにして意識を獲得したのかは生物学の議論の範疇ではない。これは、まさに宇宙はどうして動いているのかを問うようなもので、どうして私たちが識の中に生きているのかを理解することはできない。生まれた時から、私たちは識の中に生きている。生物学にできるのは、この識が生体のどのような機能とどのように関係しているのかを解析することである。この解析に意味がないなんてことはない。なぜならば、この解析によって私たちは人格の形成や心の働き方についての有力な仮説を獲得し、その仮説に基づいて自らの心を変化させる方法を得ることができるからである。
生命力という言葉を使いたくなるのは、私たちが生きているというのは、宇宙が理由なく動いているということに端を発して、この世にはそもそも得体の知れない理由を説明できない根源的な蠢きがあるということを認識することに意味があると考えるからだ。蠢き方にはある程度の法則、原理があるからこの原理を生かすことはできる。私たちが生きているというのは、理由を決して説明できない根源的な力に支えられているというのは疑いようがない。生きているという得体の知れない現実の中で、無数の物質は関係を持ち私たちは思考し行動し続ける。そういう定めなのだ。動き続け、秩序は造られたり壊れたりする。思いたくなくても、生体は常に感情を生み出し、私たちはこの感情と共に生きていかなければならない。そして感情は、生体内の自律神経や内分泌系の変化が生み出す気分と先に述べた文脈生成の過程と密接に関係していることが分かっている。分かったとしても、この関係自体を変えることにはならない。私たちはこれまでもこれからも、この関係の中で生き続けるのだ。
私たちは、私たちが誕生する前から存在する、もしくは誕生した時から存在する仕組みの中に生きなければならない。その中で生命を繋いでいく宿命を負っている。この宿命を受け入れ、宿命に飛び込んで個々人はそれぞれの運命を味わえばよい。それは、感情的にみずみずしくエネルギッシュな人生そのものなのだ。生命力は、私たちが生きていく上で如何ともしがたい、私たちの存在を生み出す力の総称なのである。この生命力を積極的に生かして、どう生きるべきかを考えることは有意義ではないかと私は問いかけたいのだ。
私は、このように生命を生かす根源的な力・性質がこの宇宙に遍満していると考えている。そして、このような考え方は日本人の精神性の特徴をなす世界観とされてきたということを次回著したい。科学的な知見を確認することが、改めて古来からの伝統的な自然観・生命観、さらには霊性へと立ち還る契機になることを願っている。
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