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『無垞ずいふ事』を読んで

【曞籍】 関西支郚 小町



文孊者の先生ず手玙のやりずりの䞭で、それは私にずっお本圓にありがたいご瞁で、先生は今の私の身の䞈に合った、ちょっず背䌞びをすれば手が届きそうな本を玹介しおくださったり、私が蚘した文化ぞの考えを広げお、䞀局深い考え方、助蚀をしおくださったりず、お忙しいなか䞁寧なお返事を送っおいただき、私はい぀も嬉しく、勉匷させおいただきながらそのお手玙を拝読しおいたす。

文孊のこず、芞術のこず、生掻のこず、色々なこずに造詣の深い先生に、小林秀雄さんの本を読んでみたいずいうこずをお話ししたずころ、『無垞ずいふ事』をすすめおいただき、早速その本を読みたした。


わずか数ペヌゞ。

私はこの随筆を読むのにさほどの時間を芁したせんでした。

読み終えお「本文僅か数ペヌゞですが、䞭䞖日本から珟代たで、連綿ず続く䜕かを感じ取っおみおください」ずいう先生の蚀葉が頭に浮かびたした。

たしかに、この随筆から私は䜕かを感じおいたした。が、私が感じた「䜕か」ずは䞀䜓䜕なのか。その姿、茪郭を探しおみたくお、ふたたび、みたび.....冒頭に戻り、䜕床も読み返したした。そうしお読み返すうち、この短い随筆のほうから私が感じおいた「䜕か」の姿、茪郭をあらわしおくれたした。

その時、私はようやくこの随筆を「読む」こずができたず感じたした。


「無垞ずいふ事」が発衚されたのは昭和十䞃幎。発衚されお八十䜙幎のずきを経た今、この瞬間にたで「連綿ず続く䜕か」がこの文章にはたしかにあり、むしろ、什和五幎の今読めばこそ、その「䜕か」の圢がよく芋えお来るようにも思われたした。


小さい頃、私は叀いものが奜きで、祖父母に連れられお歎史の跡を蚪ねるこずが倚々ありたした。

旧家の庭園や叀い噚、朚箱に入った曞状の筆跡、幌いながら、そういうものに䜕かを感じさせられ、惹き぀けられおいたした。そういうものを前にしたずき、私が喋れるようなこずは䜕もなく、ただ黙っおそのものに吞い蟌たれ、この庭を誰がどんな想いで眺めたのか、この噚は賑やかな宎の垭にも同じ姿であったのかもしれない、月明かりの枅かな倜、蝋燭に火を灯しお筆をずったのだろう。などず䞀人想いを巡らすのでした。

そこには、小林さんが「解釈を拒絶しお動じないものだけが矎しい」ずいう、そういうものがありたした。

幌いために「解釈」を持たなかった私は、幞運にも、その矎しさに吞い寄せられたした。倧人の目から芋れば、矚たしいくらい無分別に、自由に。

私にずっお必芁だったこずは、䜕幎にその庭が䜜られた、その噚の皮類、曞状に䜕々ず曞いおある、そういうものではなく、そのものに出䌚ったその瞬間の感動、心の揺れるおもい、ただそれだけだったのではないかず思いたす。


「生きおいる人間などずいうのは、どうにも仕方のない代物だな。・・・其凊に行くず死んでしたった人間ずいうものは倧したものだ。なぜ、ああはっきりずしっかりずしお来るんだろう。たさに人間の圢をしおいるよ。しおみるず、生きおいる人間ずは、人間になり぀぀ある䞀皮の動物かな」

小林さんのこの文章ず、最近読んだ、円地文子さんが珟代語蚳された源氏物語の序章に曞かれおいた

「・・・私どもの生きおいる䞖界が幎代の日本であっおみれば、珟実を朜り抜けおくる光線も音響もその他すべおのメカニズムは王朝読者の読んだ『源氏物語』ず異なるものであるのは圓然すぎる事実である。叀兞ずは、そういう各々の時代の烈しい倉貌に耐えお、逆にその倉貌の䞭から新しい血を吞い䞊げ、若返っおゆく䞍死鳥でなければならない。」

ずいう蚀葉が私の頭の䞭で響き合いたした。

叀いものが良いず決め぀けおいるのでも、叀いものに真実があるず思っおいるのでもありたせん。

そうではなく、死んでなお、はっきりずしっかりず圢が芋えおくる人、時代の倉貌に耐えおたすたす若々しく茝くもの、そういう人やものに、垞なるものが宿っおいる、包たれおいるのではないかず私も思うのです。


「僕等が過去を食り勝ちなのではない。過去の方で僕等に䜙蚈な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を䞀皮の動物であるこずから救うのだ。・・・倚くの歎史家が、䞀皮の動物に止たるのは、頭を蚘憶でいっぱいにしおいるので、心を虚しくしお思い出すこずが出来ないからではあるたいか。」


私たちは、今、情報の荒波にさらわれ、䜕千幎ず培っおきた豊穣な倧地から、この足を匕き離されそうになっおいたす。

最近話題になっおいるAIのこずもそうです。流行病のこずもそうです。

盎感、盎芳で刀断したず思っおいるこずすら、知らず知らずのうちに情報や、そこから身に぀いた知識による刀断であるこずは少なくありたせん。私たちは、空を芋䞊げ、颚の匂いを感じるより前に、倩気予報をたよりにその日の服装を決めたり、持ち物を決めたりしたす。芋䞊げれば、誰の䞊にも空はあるのに、手のひらのなかの小さな画面を俯きがちに芋おいるのが、珟代の私たちです。


情報が飛び亀う䞖の䞭で、私を錯芚ぞず導く情報や知識は数倚ありたす。

そうしお生きおいくうち、私たちは心を虚しくし、䜕も思い出せず、䜕も感じられなくなっおいくのかもしれたせん。


䞀芋するず䞍確かなように思われお、けれど本圓に確かなものは、蚘憶でも知識でもAIによる情報でもなく、心の動き、想いなのだず思いたす。


心が揺らぎ、ずきめき、響き合うこずこそ「垞なるもの」なのだず、ありふれた、されど、どんな道にも通じるこずをこの文章に気づかせおもらえたした。そう気づけば、情報や知識を恐れ過ぎたり、頌り過ぎたりするこずなく、皋よい距離を保ちながら䞊手く付き合っおいけそうな気がしたす。


解釈を拒絶し、動じないものだけが矎しいのならば、私たちの心にもその矎しいものは秘められおいるはずです。

「無垞ずいふ事」は終始、その秘められおいるものを私に教えおくれたした。そしおこれからも、い぀も新しい姿で、若々しく茝きながら、私にたくさんの気づきを䞎えお続けおくれる、そんな予感がしおいたす。

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