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水脈を太く

  • meg5838
  • 2024年11月24日
  • 読了時間: 5分

【コラム】 関西支部 N


同人サイトに投稿を始めて1年が過ぎた。

投稿の送信ボタンをクリックした瞬間、ビュンッという音と共に心の扉が開く。初回は恐ろしいことをしたんじゃないかと後悔にも似た気持ちで落ち着かなかったが、2回目以降は相変わらず恐怖も感じるものの確かな喜びを感じている。


投稿を恐れたのは主に3つの理由があった。私は頓珍漢な事を言っているかもしれない。これは恥ずかしいことに違いはないが続く2つに比べればまだいい。私の理解や言っていることが間違っているなら、それを指摘されれば改めて考えてみればいいのだ。


自分でも気づいていない偽醜悪を晒すことになるかもしれない。討論番組などを見ていると論者が話す内容の下に透けて見えてくるものがある。

誠実さ、礼儀、人間味、貫禄等、佇まいや表情、声色、会話の作法からも学ぶことが多い一方、マウント取り、エリートへのコンプレックス等、その卑しさに見ているこちらが恥ずかしくなることも少なくない。彼らは自分の醜態に気づいていないのだろう。気づいていないものが露呈している様はとても怖い。私にも自分で気づいていない醜悪さはあるだろう。投稿などせずにいれば、公衆の面前に晒さずにすむ。


もし真っ当な事を言っていたとすれば、自分の言論を裏切ることなく生きられるか。一番怖かったのはこれである。

「言ってることとやってることが違う」「口先だけ」これほど恥ずかしいことがあろうか。若い頃先輩に嗜められたことがあり、その時のことは今振り返っても消え入りたいほどに恥ずかしい。初回の投稿はコロナ徹底自粛論者や「お客さん」でしかない人に向けた批判であったが、自分自身に対する問いでもあった。有事の際、私は自分の投稿に恥じない自分でいることができるか。「蓋をあければお前もこのザマか」と笑い者になるかもしれない。特にコロナ騒動で露呈した言論人の振る舞いは自分の醜態の可能性をリアルに想像させた。けれども言葉が人を作る側面もある。こちらの道を選ぼうと決めた。

それ以降の投稿も、世間への批判を書いているようで「私自身はどう生きるんだ」と自分に向けて書いている。


途轍もない恥の種を蒔いているのかもしれない。そんな恐れを断ち切るように送信ボタンをクリックすると心の中に爽やかな風が吹く。恐怖を乗り越えた瞬間。生きるってこういうこと?気持ちがいい。


投稿してみると周りの人が反応してくれた。誌面に掲載いただいたこと、これ以上に光栄なことはないし、友人や支部仲間の反応も励みになった。

でも1番興奮したのは、自分自身との循環活動が生まれたことだ。投稿に向かう時は予め書きたいことがあるのだが、書いているうちに、強い実感が湧き起こったり、違う道筋が見えてくるというような動きを感じる。


例えば『藤井先生の講義「死生観・人生論と生の哲学について」に参加して』という投稿では陛下への想いが湧きあがった。今までも陛下を有難いとごく当たり前に感じていたが、いてくださることの有り難みが内側からこみ上げた。ここまで堕落しきった国民の安寧を祈ってくださっている、その有り難みで体中が満たされるような幸福を覚えた。

また『見捨てられた発狂に耳を』という投稿では、高齢者が暮らしやすい街づくりについて考えるつもりだったのが、書いているうちに戦前戦中と戦後の分断に思いが向かい、がんとして譲らないのだ。


自分の地下に流れている水脈を掘り当てたような興奮があった。


我々が或る理由より働いた時即ち自己の内面的性質より働いた時、かえって自由であると感ぜられるのである。つまり動機の原因が自己の最深なる内面的性質より出でた時、最も自由と感ずるのである。(西田幾多郎「善の研究」第三編第三章 意志の自由)


投稿の際に感じる喜びはこの自由ではないだろうか。


表現者クライテリオンの諸先生方の話を面白いと感じるのは、先生方が自己の最深部と太い水脈で繋がっているからではないかと思う。先生方の話を聴くようになって10年以上経つが、先生方の話が明るいものだったことは皆無と言っても過言ではない。国土強靭化やインフラの話には輝かしい未来が目に浮かぶが、決まって緊縮政策の影がつきまとう。それでも先生方の話を聞くと活力が湧くのは、最深部から放出されている水に渇きを癒され、時にはその水を思いきりかけられて目が覚めるからだ。


その水脈を辿ると源は1つ。昨年の関西支部の講義で藤井先生が「神様の切れ端」とおっしゃったが、水脈の源は神の本体ということなのだと思う。神の本体である源から勢いよく水が放出されるそこでは、自我というものはなくなるのではないだろうか。目を閉じて地下から噴き出す水に自我が吹き飛ばされる様子を想像すると呼吸が深くなる。深い呼吸とともに意識がここに集まりつつ、全体の一片であることへの安心感のようなものに包まれる。

大きなタペストリーの一刺しとして、その絵の中に居場所を与えられたような「ここ」という感覚だ。


この世で人間として生きている限り、自我というものから逃れることはできないのかもしれないが、自分の地下に流れている水の流れに耳を澄ます。自分と循環する時間を持ち水脈を太くしていくことが生きるということではないだろうか。

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