映画「能登デモクラシー」にみるオールドメディアの意義
- mapi10170907
- 9月16日
- 読了時間: 3分
【コラム】 東京支部 清水一雄(教師)
先日、雨が降ったり止んだりの蒸し暑い日に、映画「能登デモクラシー」を見てきた。新宿にある「ポレポレ東中野」というドキュメンタリー映画を中心に上映する映画館だ。5月からのロングランで、東京支部のイベント情報にも紹介があったことからぜひ一度見たいと思っていた。
この作品は、もともとは石川テレビのドキュメント番組として作成されたテレビ版「能登デモクラシー」を映画化したものである。その日はたまたま、この映画の監督である五百旗頭幸男監督の舞台挨拶が映画終了後にあり、この映画に込めた思いを直接聞くことができたことはラッキーだった。この映画をつくったきっかけは、兵庫県斉藤知事のパワハラ疑惑があり、辞職後の知事選はSNSの多大な影響を目の当たりにしたことだ、と語っていた。丹念に取材を続け事実を積み上げながら真実に迫る、いわゆるオールドメディアが果たすべき本来のかたちを伝えたいという強い思いがあったという。
過疎化が進み、若者と高齢者がともに減少する穴水町でコンパクトシティー化が推進されようとしている。その一方で、町長の定例会見は行われず、町民の声も町議会になかなか届かないまま、町長の利益誘導の計画が粛々と実行されていく。町民も「おかしい」と、うすうす感じてはいるが声を上げられない。忍耐強いのは町民性であるようだが、その中で「何もしなければ何も変わらない」と声を上げているのが元中学教師の滝井さんだ。
彼は究極のオールドメディアともいえる手書きの壁新聞を月2回、500部で発行し町民に配っている。既存のメディアでは伝えられない事実や励ましの言葉などが、徐々にではあるが町民に共有されていく様子が描かれる。ボランティアだからこそ、誰にも忖度せずに情報発信ができる。その執念とこだわりはどこからくるのだろうか。
新聞、テレビなどのいわゆるオールドメディアはもう存在意義を失った、とも言われる。その一方SNSなどで代表されるソーシャルメディアはそれに代わることができているのかは疑問だ。ゆがめられた情報が急速に拡散する危険を目の当たりにしている。選挙戦を見てもネット空間では誹謗中傷が渦巻き、自分以外の意見を受け入れる余裕を人々からが失わせてしまった。
オールドメディアかソーシャルメディアの優劣を論じてもしようがない。多くの人は今日も明日も平穏に幸せに暮らしたいといと思っている。当たり前だが、どのメディアだろうが発信する側は信念と勇気を持ち、受け取る側はつねに理性的、多面的に状況を理解しようと努める姿勢をもう一度作り直すしかない。そして壊れかけている「民主主義」を再生させるしか当面の手立てはない。
能登で起きていることは、どこでも起こりうるし、現に起きている。「能登デモクラシー」という映画そのものが、ドキュメンタリーというオールドメディアの手法を用いることによって、あらためて我々に「民主主義とは何か」「メディアの果たすべき役割は何か」について訴えかけている。
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