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早朝のスケッチ

【コラム】 関西支部 小町




自然のリズムと少しでも一緒に過ごしたいと思い、最近、私は朝早く起きるようにしています。以前よりも朝の時間が長くなったのですが、頭はまだぼんやりしていて、空を見たり、本に目をやったりして過ごし始めていました。ある朝、武者小路実篤の全集を開いて、氏が絵を描く喜びを、どの随筆にもしきりに綴っているのを見ました。その喜びを読んでいるうちに、私も絵が描きたくなり、母に貰って、まだ使いあぐねていた小さなスケッチブックを徐に手に取りました。それから、まだ一週間足らずですが、毎朝小さなスケッチブックを開いて絵を描いています。


絵を描いている、と言っても、お絵描き程度の絵しか描いたことがなく、またさらさらと上手な絵が描けるわけでなく、さらには別に人から絵が上手いと言われたこともないので、小さな箱や、コップなどを見たままにスケッチするのに時間を費やしています。

有名な絵画を想像すると、どれも作者の独創性や個性が生きていて素晴らしいものばかりですが、その独創的な絵よりも、まず目の前に物があって、それをそのままに描くと言うことが、実はとても難しいということに毎朝驚かされています。


例えば、コップにプリントされた文字の、正面からみた形。本当はコップのカーブに沿って、文字は曲がって見えているのにも関わらず、その文字のもとの形を知っているだけに、そのもとの形、つまり平面で見た文字の形を描いてしまうことがあったり、飲み口を丸く書くのに遠近感がおかしかったり、自分の目に見た通りに書いているつもりが、全然描けていないことに、スケッチブックを見て気がつき、はっとします。相手は、何の変哲もないガラスのコップで、取手さえついていない、すっきりした形の小さなビールグラスです。


一体、私はもの、モチーフをそのままに見ることができているのでしょうか。よし、ものをそのままに見れていたとしても、それを見たままに表現することはとても難しく、私にそれができているとは到底思えません。事実、そのままには見えていないのです。目か、頭か、手か...景色はどこかで屈折を起こし、そこにあるはずの物の形は変わってしまっているのです。

実際に物をじっくり見て、そしてそれをそのまま絵に描こうとした時、「物を見る」ことの難しさを改めて、今までよりも新鮮に感じました。



少し前に、私は「余白に耳を傾けて」と言う随筆をしたため、そこへ、



余白や間を味わうこと抜きに、目に見えてわかりやすいものにしか辿り着いていない私たち現代人には、わかりにくいものを時間をかけて観察し、表現することは耐え難い苦痛なのかもしれません。



と書きました。が、しかし、実は私たちは目に見えてわかりやすいものほどわかっているつもり、知っているつもりでいるだけに、実はほとんど何も見ていないことの方が多いのではないでしょうか。

子供のお絵かきに、顔から手や足が生えているものをよく見ます。彼らにとって、胴はそこまで印象深くなく、意識されず、少し粗雑な言い方ですが、実は見えてはいない、とも言っても間違いではないと思います。あるいは、顔と一つの印象なのかもしれません。「目に見えてわかりやすい」だけでなく、さらに、本当に強く訴えてくる部分だけが見えるのです。ですから、私たちには、当たり前に目に見えているものさえ見えていないことがあるのかもしれないのです。いえ、むしろ、難しくてわからないものは、何か勉強したり人に聞いたりしてよく見ようとするのですが、すぐそばにあるごく簡単なものをじっくり見ようと言う気がとんとないことが多々あります。



子供の目は素直です。また、優れた画家の目も同じように素直であると思います。そうでなければ、見た物を描くことはできないのです。さらに、画家はそこに温度や肌触りまで表現してしまうのです。それは、実際絵を描く技術が高いことは確かでしょうけれど、やはり全ては、物の姿をこの目でよく見る、と言うことにおいて始まるのではないでしょうか。



物の心は、物を見て、見て、見尽くしてから初めてわかるはずです。私たちはその、心にたどり着く以前に、まだその心を表す姿にも辿り着けていない、とも言えます。

本当にまっさらな気持ちで、物を見つめることができれば、そのものの姿が丸ごと見えるのかもしれません。けれど、私たちの頭にはすでに色々な知識が入っていて、それゆえに、目の前の景色はあらゆる屈折を起こしてしまい、ありのままに物を見ることが難しくなっているのだと思います。

それは、絵を描くことだけに限りません。実際に、私は文章を書く時に、思いのままを、思いのままに書くことができず、いつも困ってしまい、原稿用紙を何枚も無駄にしています。



見たままの姿を、見たそのままに捉えることができるほど、私たちは素直でないのかもしれません。もっとこう言う形のはずだとか、こうなっているだろうと、良くも悪くも自分の知識や経験に、目の前のものを当て込んで見る癖がついているのではないかと思います。


絵はまだ始めて数日ですが、私は長く書をしており、「余白」と言う時、必ず筆で書いた文字や、線の周りにある「白」を思い浮かべます。半紙の上に余白を生むのは、墨の玄です。余白を作るためには、必ず余白を作るものがなくてはなりません。「余白に耳を傾ける」ことは、すなわち、余白を生む玄をよく書くことでもあり、よく見ることでもあります。



目に見える、見えないなどと話し始めると、私は言葉の綾に絡まって抜け出せなくなるに違いありません。また、実はまだ深くは考えきれてもいないのです。しかし、これは言葉でうまく言い表せることではないかもしれません。それゆえ、私はこの発見を面白く思います。


スケッチを始めて、現実をありのままに受け止めること、それがほとんど不可能かもしれないという難しさに気付かされたのでした。


私はいま、明日の朝何を描こうか考えています。今日買って来た本か、はたまた今度はたっぷり丸い形のコップを描いてみようか、万年筆のインク壺に挑んでみようか...


いずれにせよ、これからも早朝に身の回りのものをスケッチしながら新鮮な発見に出会うに違いありません。毎朝一枚ずつ、スケッチブックに拙い絵が増えていくことを、私はとても楽しみに思っています。

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