教育のデジタル化で思うこと
- mapi10170907
- 2024年12月11日
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【コラム】 東京支部 清水 一雄
日本の教育、特に初等中等教育は世界の中でもトップクラスにあると言われている。その理由の一つが文部科学省を頂点とする上位下達の仕組みである。国から教育の方向性がひとたび示されれば、形式的に末端の組織まで極めてスピーディーに浸透させることができる。
ところがその仕組みの中で、高邁な理想をもった施策は、現場の実践レベルまで下りてくると、その求める理想と、現実との乖離が徐々に目立ち始めてくる。
「正しい施策」なのだから、実現できないのは現場の努力不足とする空気は、さらに強まっている。「働き方改革」と言われながら、我が国で最も過酷な働き方を強いられている「政策立案者」から示される「施策実行計画」は、時間と人をいくらでもつぎ込めることを前提としたものになってしまう。「だれが、いつやるの?」というという疑問符がついて回る。
いま猛烈な勢いで進められている「正しい施策」の一つに「教育のデジタル化」がある。国の施策で始まった「GIGAスクール構想」で生徒一人一台タブレットが配られたが、そこにさまざまな「デジタル情報」を流し込み、それを活用すれば、「だれ一人取り残すことなく」学力が向上し、さらに他人と協力して何かを成し遂げる態度「協働性」が身に着くという。
以前は授業のプリント、お知らせ、課題などは「紙」を通して伝えられたが、今では生徒各自が所有するタブレットへ配信されることが多くなった。教員は「紙」の印刷の手間が省け、一瞬で全生徒へ伝えられるので、その点では便利になった。
ところが実際やってみると、タブレットに流し込まれた情報は、心に残らないことが多い。情報と一口に言っても、緊急性があるものとそうでないもの、返信をしなければならないものそうでないもの、一部の者が見ればよいものそうでないものなどと多様である。情報にはそれを伝える人の思いが伴う。デジタルで送られた情報は、質的なニュアンスが排除され無機質に「フラット化」された状態で蓄積されていく。情報は「クラウド」という見えない場所に格納され、必要なとき必要な情報を探しにゆくことになる。ファイル名やフォルダーを適切に設定されていなければ、無造作に蓄積された情報の山に分け入り、目的の情報を探しにいかねばならない。これが面倒なのだ。少し前の情報は新しい情報のはるか下に隠れている。
また、「対話的で深い学び」をデジタル化で促進しようとする動きがある。
日本の学生は「知識」はあるが「思考力、表現力」が不足しており、それは学生時代に先生の言うことを黙って紙のノートにとるという昔ながら授業の在り方に原因であるというのだ。口頭で意見を表明できなくても、タブレットに電子ペンで意見を書き込み、それをスクリーンに映し出して見せ合う授業にすれば、生徒が主体的に活動する良い授業と評価される。
さらに最近では「教科書のデジタル化」が加速している。動画などのコンテンツも盛り込めば、教員がいなくても1人で学習が進められ、自分の理解のペースに合わせて「個別最適な学び」が実現するらしい。教員志望者の減少をさらに加速させたいのだろうか。
国の膨大な予算をつぎ込んだ一人一台のタブレットを、とにかく使うことが目的となっている。「買ったのだから、使わねばならない」の発想を「必要があれば、適切に使う」に切り替えることが必要だ。
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