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教員志望者の減少の背景にあるもの

【コラム】 東京支部 清水一雄

 「2023年度採用の教員試験で、公立小学校の採用倍率が前年度比0・2ポイント減の2・3倍となり、過去最低となった。」というニュースを目にした。県によっては1.3倍という数字も発表されている。

 この危機的状況に対して文部科学省は、教員採用試験の日程を約1か月前倒して6月16日を標準日とすることや、働き方改革の一環として、1900人を増員して教科担任制を進めるほか、教員や管理職の業務支援員の配置を強化で対応するという。


 『デジタル教育の幻想』の著者、物江潤(ものえじゅん)氏は学校の現状を以下のように述べている。

『官邸→文科省→教育委員会と川を下っていくことで、ようやく姿を現す学校現場では、年々と所与性が崩壊していくという現象が起きています。所与生とは与えられた前提のことです。言い換えれば、問答無用で正しいとされる事実であり、そこに疑いを挟むことは許されません。仮にそんなことをすれば、その所与性が支配する共同体(学校)から村八分にされたり、退場を余儀なくされたりするでしょう。「それってあなたの感想ですよね」とか「なんかそういうデータあるんですか?」といった言葉を先生に投げかける小中学生が、どうやらあちこちに出現しているようです。』


 「所与性」などというと、「古臭いもの」とか「改革し捨て去るもの」というイメージが先行するかもしれないが、教員志望者の減少の背景には、この崩壊が深くかかわっているように思える。

生徒は決められた時間に登校し、決められた時間に、決められた教科を教師から学ぶ。この当たり前すぎるほど当たり前の前提が壊れかかっているのが今の学校である。

教師は「未熟な児童生徒」を前提に様々な指導をし、成長を促すのが仕事である。その仕事にやりがいを感じた若者が、教師を目指すのである。そのためには「教える者」と「教えられる者」の関係を学校の中で成立させることが大前提となる。教師も不完全な人間である。不完全な人間が、不完全な人間を教えるという、極めて困難な行為を成立させるために、一見理不尽とも思える様々な仕組みが埋め込まれているのが学校という場なのだ。

実は、学校の持つ「所与性」はすでに30年ほど前から徐々に壊れてきたのである。


 1990年に出版された諏訪哲二氏は『反動的 学校この民主主義パラダイス』のなかで以下のように述べていた。

『例えば、学校での生活の仕方について、教師が「ああしろ」「こうしろ」あるいは「これをしてはいけない」「あれをしてはいけない」と生徒に言うとする。生徒たちはそれに対して、素直に従ったり、従うふりをして逃げてしまったり、完全に従わなかったりする。こういうことは学校の許容範囲である。だが、教師が生活の指示をする行為そのものを拒否することは、許されない。生徒が教師に対して「オメエは何でそんなことをいう資格があるんだよ」といえば、両者は直ちに戦争状態に入ることになる。つまり教師は生徒からその「権威」「資格」を疑われてはいけない存在なのである。・・・そういうことを生徒がし始めたら学校そのものが崩れ始めるのである。』


 30年前の諏訪氏の警告にもかかわらず、「個性重視の教育」のもと、国の政策はその「所与性」を積極的に破壊する方向に舵を切ってしまったように見える。

 そしてさらに新型コロナ感染拡大のもと、一人一台端末を配布する「GIGAスクール構想」と、それに伴う「ICT教育」が加速した。児童生徒は一人前の学習者として端末を使いこなし「個別最適な学習」を進め、教師はその学習の「援助者(ファシリテーター)」となることが理想とされており、これまでの「教える」「教えられる」関係はかなり弱くなってしまっている。

 ここでもう一度学校の「所与性」に目を向けて、学校という場を教える喜びを実感できる環境にいち早く戻すことが教員志望者の増加にもつながるのではないか。


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