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愛についての小考察

  • hikanore
  • 2023年12月23日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年12月24日

【コラム】 東京支部 日高 光


私たち表現者塾生が毎月一度集まって受けている講義は、それ単体も重要なものですが、本当に重要なのはその後の飲み会であったりします。


その日受けた講義の内容、それと我が国の歴史や最近の出来事との関連性、その先に予測される未来の事など、様々な事をそこでみんなと語り合うわけです。そんな表現者塾後の飲み会にて、何時の事だったか、愛について話した事がありました。


コロナ禍にしろウクライナ問題にしろ、死生観の問題は色々と問われていましたが、愛情についての問題もまた重要であり、真の愛情とは異なる安っぽい偽物が跋扈しております。


「愛」という薄甘いイメージをまとった下らないポリコレと本当の愛とを正しく区別する為の考察は非常に重要であり、そうした事を考える時間が無く、また愛についての経験に乏しいが故に、見た事も無いロシアやウクライナの人々を手前勝手に愛したり憎んだり、或いは天寿を迎えつつある高齢者達の余生における本当の幸せに対する真剣な考察が無かったりするのではないでしょうか。


恐らくあの日もそんな経緯から愛についての話が始まったと思うのですが、お酒が入り過ぎていた所為か、細かい経緯についてはどうにも思い出す事が出来ずに居ます。


ただ重要な論点については覚えていて、私が「人間には、誰かから受けた以上の愛情を他人に与える事は難しい」と主張したのに対し、相手の方は「いい年の大人であれば、我々自身を生かしてくれた社会に感謝し、その構成員たる人々を愛し労われて当然であり、あなたの主張は古典派経済学者の貨幣プール論と同じだ。」と主張した事です。


西部先生の少年時代の話や、私個人の人生経験など色々な事を挙げて議論しましたが、結局お互い譲らないまま終わってしまいました。


確かに、いい年の大人であれば、我々自身を生かしてくれたこの社会、それを構成する人々に対する少なからぬ愛情があるべきだろう。


しかし待て…「我々自身を生かしてくれた社会」?


我々が社会やその構成員を愛する理由が「自分を生かしてくれたから」なのだとしたら、それ自体が我々が受けた愛情の分量…という事になるまいか?


それにその理屈であれば、真っ当な大人というものは、喫茶店で大体一杯400円くらいのコーヒーに付き、1円以下の分け前しかもらっていないアフリカやら南米やらの貧しい人々の顔を浮かべて一々感謝している筈だが、そんな事を本当にしているだろうか?


マクドナルドのハンバーガーに使われてる魚を取ってる人々とか、チョコレートのカカオ豆を作っている人々とか、感謝の対象は挙げていけばキリが無い。


理想的には彼らに常に感謝すべきかもしれないが、私はそういう夢みたいな話をどうしても信じられず、もっと身体性のある確かな場所からしか現実の愛は生まれないように思うのです。


恐らく感謝というのは、既にある愛の育て方(或いは鍛え方だろうか?)に関わるものであって、愛が生まれてくる理由にはならない。


…この問題についてずっと考えていた時、ふと過去に藤井先生から聞いた話を2点、思い出しました。


1つ目は最近、2023年9月末に関西支部の勉強会で聞いた「1byte分の情報は、1byte分の質量と等価である」とかいう、ごく最近の物理学会での大発見の話。

2つ目はチェスタトンの言葉の引用だったと思いますが「あらゆる物事は、そのままにしておけばゆっくりと悪くなっていく自然な傾向を持つ。」という指摘です。

どちらも正確な文言かは自信が無いのですが、概ねこのような内容だったと思います。


もし1つ目の指摘通り「愛」という情報が質量を持って我々の中に存在しているとしたら、誰に与えられる事も無く自然に発生した愛というものは、そもそも遺伝子に刻み込まれているでもなければ、質量保存の法則を無視している事になる。


また2の指摘が正しければ「愛」は不滅のものなどではなく、何かしらの努力か、他者からの新たな愛の供給がなければ、自然に悪くなっていき、何時か朽ちてしまうものに違いない。


1つ目の話については少々ニヒリスティックというか科学偏重的で無粋な感もありますが、私自身が感じていた愛情についての理解を言葉にするに当たって、前述飲み会の時からずっとモヤモヤとしていた部分を明確にしてくれたように思うので、これを是としてみました。

恐らく我々の愛は、親子の愛や同族故の仲間意識など遺伝子レベルで組み込まれたものから生まれ、長い時間をかけてお互いを正しく愛し合う事によって大きく強く育っていくものです。


ただ相手を甘やかすだけの行為は、ある種の執着に過ぎない偽物の愛であり「真の愛情とは何か」についての理解に基づく適切な厳しさを含んだ強固なものだけが、僅かな質量であっても人の心に焼き付いて残り、強力に作用し続ける。


その「真の愛情とは何か」という情報を仕入れる重要な要素が「社交」であり、その価値を認めない人ほどコロナ禍のような間違った思いやりを重視したのではないでしょうか?


先日、仁平先生のメールマガジンにて「愛は多くの場合時間を要する」と書かれていましたが、その時間とは絶え間なく注がれる愛情という情報の量であるように私には思われます。

そしてその考え方は必ずしも市場原理的ではない。


ここで恐縮ですが、私の個人的な思い出の話をします。それは前述藤井先生の2つ目の言葉、「あらゆる物事は、そのままにしておけばゆっくりと悪くなっていく自然な傾向を持つ。」と人間の愛についての話につながるものです。


私の母は、私の「市場原理的な公平性」に則った愛情のお返しを頑なに拒否します。


15年程前にその理由をしつこく尋ねた事があって、その時母は「私は貴方に、何かお世話をして貰う為に愛したのではない。貴方には貴方が愛さねばならない人が必ずいる筈、その人の事を愛をもって世話をしなさい。」…といった旨の解答が返ってきました。


一方、私の父親は幼い頃の病気が原因で、両親の愛情を実感する時間に乏しく、また与えられる事を当然の事と思い違いをしてしまう環境にありました。結局父は、本当に誰かを愛するという事が下手なままで、その愛の乏しさ故の非人間性を常にその全身に帯びていました。


そして私も父もお互いの母親に愛想をつかされそうになった時期があり、私と母はお互いの想いをぶつけ、その言葉に誠実に従う事でどうにか正常な関係を取り戻せましたが、祖母は父を見限ったまま亡くなりました。


こどもに対する母の愛ほど確実な愛は無いと個人的には思っているのですが、そんな愛でさえ時には朽ちてしまうのですから、いわんや世間や身も知らぬ他人の恩に対する愛情など幻にすら感じられるほど儚い。(実際幻かもしれませんが…)


不滅の愛情などという物は存在せず、その輝きは脆く儚いものです。「等価」なんてけち臭い事は言わないにしても、何らの愛情も返ってこないような相手に注ぐ愛情は必ず尽きる。

少なくともそういう前提に立たないままの人間が言う「危機と対峙する保守思想」など、説得力に欠くでしょう。


福田恆存は私の幸福論にて、結婚した夫婦の愛情など薄氷の上の存在であり、その関係は何時破綻してもおかしくない…といった事を述べておりましたが、夫婦関係に限らず全ての人間の間にある愛情が、そうした性質を持つと思います。

そうでないとしたら、我々には「感謝」という発想自体がありえないでしょう。

どうしようもなくエゴイスティックな側面を持つ我々人類が、真に人を愛する幸せを手にする為に、我々は何を成さねばならぬのか。

問題は色々あるでしょうが、一先ずは資本主義的な効率性の呪縛から抜け出し、家族・親子・地域の人々と過ごす時間を増やす、その意義を信じて貰う為の活動が最初の一手になるでしょう。


ただ、それだけでは我々の愛情は我々の行動範囲や五感で感じうる僅かな空間の壁を超える事はなく、我々が遺伝子レベルで持っている筈の、原始的で自然な愛に留まるでしょう。


人間の愛情をそれより大きく広げるには、宗教・思想の力が求められる。愛情という情報を己の限界まで複製し人々に与える力としての宗教・思想について、確固たるものを手にした時に初めて、我々は単なる裸のサルや、福沢諭吉が言う所の「半開人」に留まる事のない霊なる者の長たる存在になりうると思うのですが、現代社会は日本に限らず、これを強化するどころか自ら破壊する方向に舵を切っております。


そんな事を考えていた矢先、クライテリオンにて宗教の特集が組まれた事は個人的に非常にうれしい事なのですが、もし可能であれば愛についての特集も読んでみたい。それは恐らく我々にとって最も重要な問題でしょう。

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