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情報リテラシーと天狗の跋扈

【コラム】 東京支部 織部好み

 昔、「知っていても人生の役に立たない、でも知っていたら楽しい」情報提供を主題とする人気TV番組「トリビアの泉」がありました。 視聴者は提供されるトリビアを半ばくだらないと認識しつつも、それを友人らと共有して楽しむ事を「ある種の余裕」と態度表明していた様です。(番組側にリードされて、ではありますが。)

 番組終了から十余年、我々の人生・状況と関わりの薄い情報への希求は強まっていると感じます。 敢えてその様な情報を選択する姿勢は、「ある種の余裕」と言うより「暇つぶし≒現実逃避」を志向している様です。 併せて、スマホ普及により日常的に多種多様で莫大な量の情報に触れる事が可能となりました。 中でも顕著と感じるのは、エンタメ系でも卑近なジャンル(芸能・ドラマ・アニメなど)からの、取るに足らないまとめ・考察の圧倒的な量です。 とても本業とは思えないライターがサブカルチャーから更にカルチャーを薄めて、日夜大量生産されています。

 総じてこの国に流通されている情報の質と我々の情報リテラシーの劣化は明らかです。


 と、ここまで考えて、仏教で語られる「天狗(道)」を思い起こしました。


 仏教では、人は生前の行いを清算しながら五道(天・人・畜生・餓鬼・地獄 ※阿修羅が追加され六道とも)の範囲で生まれ変わり死に変わりしているとされ、これを輪廻と呼んで、つらく苦しい状態と解釈しています。 その輪廻から外れて涅槃に至るには、修行により煩悩を無くし、悟りの境地を得る必要があるとの事。 私自身、歳を重ねて欲求・執着の発生プロセスに多少自覚的になり一定程度の穏やかな心象も得られた気分ですが、圧倒的な未熟の為か涅槃も悟りも具体的に想像できません。 より自覚的に自らの心象と向き合い、その働きをつまびらかに理解する事が悟りへ至るには肝要との事で、出家する覚悟が問われます。

 そんな勉強の中で特に興味深く感じたのが、上記の仏教観に属さない魔境「天狗道」でした。


 天狗の由来は諸説ありますが、『源平盛衰記』では、天狗とは道心の無い智者が死ぬとなるモノで、過去や未来を悟り、虚空を飛ぶ事が出来る。 もともと仏法者なので地獄に落ちる事は無いが、無道心なので往生もしないと言われています。

 鎌倉時代に活躍した「明恵上人」と交友のあった「解脱上人貞慶」は、こんな夢を見ています。 「上人の草庵の戸を叩く者あり。 外に出ると異形の魔物の群れが居るが、よく見ると元は高僧・学匠達。 彼らは仏教の本義だけを極める事に専心し、戒行を怠った為に魔道に落ちて天狗となり、苦行を強いられている。 同じ轍を踏まない様に警告に来た。」とあり、弟子達に「くれぐれも学を誇り、菩提心(悟りを求める心)を疎かにせぬよう。」と戒めたとの事。

 私はこのエピソードで天狗に惹かれ親近感を持ちました。 苦行は御免ですが、自我を保った状態で永遠に知識欲を満たせるなんて、結構魅力的ではないでしょうか。 一方、目的の喪失や実践の欠如・・・ これこそが危惧すべき情報リテラシーの劣化なのだと感じました。


 自身の状況と直接関係の無い(またはその様に扱われる)情報は、その後の対応・実践も求められず、単なる刺激・快楽として処理されるだけで非常にお手軽ですが、摂取量や配分を考慮しないと後々痛い目を見そうです。 更には認知段階で発生する複雑な理解の忌避や各種バイアス(心理的抵抗を減らしたい欲求)、「身勝手な解釈による情報の変質」にも警戒が必要でしょう。

 適切な情報選択と処理はなかなかに至難の業ですが、可能な範囲で自身の状況と照らし合わせ、よく練り込んで、「知恵」と言える形で人生に発揮・反映したいものです。

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