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常識の再生について

【コラム】東京支部 日髙 光


常識の再生などと言うと、私ごときの手には余るようで言い出しづらくもあるのだが、日本にとっても表現者にとっても重要な事なので、恥ずかしながらその話をしてみようかと思う。


今更な話ではあるが、現代の日本社会は常識が機能していない。


浮ついた改革にかまけて二十年以上も経済を停滞させるだけでは飽き足らず、芸人上がりの弁護士が立てた衆愚政党を十年以上ものさばらせ地域にも国政にも混乱を招いたり、果ては大した事の無い病気の為に三年近く馬鹿げた規制や活動自粛を続ける始末。


今や日本の常識などという物は、その全てが音を立てて崩れ去ろうとしているかのようである。


常識とは何かと問われて、そんな簡単にこうだと答える事は出来ないのだが、一つ一つの具体的な問題について語り続ける事で、その輪郭を浮き上がらせようというのが、藤井先生率いる表現者クライテリオンがこの時代にて果たすべき大きな目的の一つだ。


崩れてしまっている常識を取り戻そうにも、元の形が解らぬことには始まらない。幾らかでもその姿を覚えている者、導き出せる者がそれを表現して見せる事には大きな意味がある。


しかし大抵の人間はそんなものでは納得しない。


これを読んでいる皆様も経験したと思うが、大抵の日本人は政治や社会についての話をしても、シラケた反応をするか、マスコミの受け売りを話すくらいが精々で、過去の歴史や学術的知識、海外の報道等を参考にした見解などを述べても、まず同意は得られないし、まして理解される事は殆どない。


啓蒙的な活動で常識を取り戻そうなどと思っても、すぐに限界にぶつかる。

結局、人は自分自身の五感で確かめたものしか信用しない。


では、我々現代日本人が常識とは何かを五感で確認する為には、一体どうすればよいだろうか?


常識を失った愚民としての大衆は、よく砂粒に例えられる。


小さくて、バラバラで、その上に何か立派なものを打ち立てようとしても、まさに砂上の楼閣にしかならない故だと思われるが、我々日本人に限らず、現代人は概ねこの砂粒の様なものであるが故、常識を取り戻せずにいる。


人々が小さくばらばらになってしまった理由は色々あるが、最も大きいのはやはり、地域コミュニティの崩壊だろう。


若者たちが大都市に吸われて地方都市や農山漁村は、それ自体が砂粒の様に小さくなっていき、一方で多くの人が集まった筈の大都市においては、大都市なりの新しいコミュニティ作りが上手くいかず、アパートやマンションの隣に住んでいる人の顔も知らないという様な、嘗ての日本ではおよそ信じられない様な孤独な世界がある。


仕事上の付き合いはむしろ増えて、交際する人間の数も同じ様に増えていると抗弁する人もあるかもしれないが、ビジネスの場で出会う人と話す事は、大抵ビジネスの枠の外には出ない。何なら政治・宗教・スポーツの3Sなどと言われ、話題にしない事がセオリーになっていたりする。


もっと言えば「人間トラブルは起こさない」という意識が共有されている都合、トラブルから生まれる知識・経験を得る機会は、その多くが失われているのだ。


こんな人間交際の薄っぺらな世界に、政治や文化・社会に関する何の常識が期待できようか?


良い人間とも悪い人間とも、兎に角何らかの形で交際するその過程において、人は様々な経験をし、様々な物事について話し、その共通の体験が常識を作り上げていく。これが恐らく、人間が常識とは何かを五感で理解するもっとも自然な道になる。


しかし、仕事で関係のない人とは殆ど交わらない様な都市においても、そもそも交わりうる人間それ自体が少なくなっている地方においても、常識を育む場所は失われつつある。


これを取り戻すにはどうすればよいだろうか?


…と、こんな事を考えた時、表現者を西部先生の時代から見ている人なら、彼が晩年に藤井先生と交わした議論を思い出すのではないだろうか?


西部ゼミナールの最終回付近、インフラとスープラについての議論…などと言うと抽象的すぎるようにも思うが、要するに人々の成熟した心がそれ相応の社会を築き上げるのか、また逆に優れた生活・社会環境が整備される事で人々の精神が成熟する土台が出来上がるのか?という議論だ。


これは実際どちらだと決めつけるのは難しいように思うが、西部ゼミナールの番組内においては、その前提を踏まえた上で、西部先生はスープラ(人間の精神)が先だという立場、藤井先生がインフラ(優れた環境)が先にあるという立場であった。


西部先生が国土について語ったものを、私はまだ見聞きした事が無いのだが、藤井先生に関しては、やはりご自身の得意分野とあってか、幾らかの事を覚えている。


というか、藤井先生の本には必ず、どこかに国土強靭化計画につながる様な話が書いてあるのだが、その中に興味深い一冊がある。


「なぜ正直者は得をするのか?」という本なのだが、この中で藤井先生はジャレド=ダイヤモンド氏の「文明崩壊」という本の一部を取り上げ、モアイで有名なあのイースター島の歴史の話をした。


イースター島は本当に絶海の孤島で、最も近い有人島まで2000km近くある場所なのだが、それ故に土地がやせがちで海風も強く、人が文明を築き上げるには厳しい環境であった。


この圧倒的に厳しい環境で、人々は生産力の限界に達し、ゆっくりと自然を食いつぶしていき、その解決策に気が付けないまま内部崩壊を起こし、西洋人に蹂躙される事で滅ぶことになった。


ジャレド・ダイヤモンドの文明崩壊の方を読むと、先の議論で言えばインフラの方が圧倒的に重要なように思えるのだが、ジャレド本人は「私は環境決定論を取らない」と下巻の冒頭で断言しているし、藤井先生もまた「文明崩壊の真の原因は利己主義である」としている。


つまり環境としてのインフラは人間社会に対して強烈な影響力があるが、それは人間の精神で克服できないものではない。少なくとも藤井先生は「なぜ正直者は得をするのか?」ではそう主張していたのだ。


この態度は、藤井先生の国土強靭化計画の方針と一致していると私は思う。


彼はよく東京一極集中の解消を口にするが、それはつまり東京の様な大都市から過疎化した地方都市へと人を移り住ませることを意味する。


すると、物凄く単純な数字上においては、地方都市や農山漁村に満足な社交が期待出来うる人が戻るわけだが(大分雑な計算だが、今はそういう事にしておく)この核にあるのが新幹線や高速道路などの交通インフラの整備なのだ。


細かい話は先生の本を読んでもらうとして、簡単な話、皆さんが家や職場を選ぶとき、必ず生活に支障が出ない距離を意識する筈だ。


通勤に2時間も3時間もかかる職場を選ぶ人はそういないし、逆に職場がもう決まっているなら態々通勤や買い物などに苦労する様な遠方に家を構えようとも思わないだろう。


地方への移住にしたって、同じ事が言えるのだ。


近くの都市へあまり時間をかけずに行き来する事が出来て、買い物(…というか物流の問題だろうか)にしても極力時間をかけずに済むような、そんな場所を好むだろう。


そうしたインフラを整備する事で、ようやっと地方へ人が戻っていく足掛かりができるわけだ。


そうして人口が増えた自治体に期待できるものは、古い時代から今も残る地方都市や農山漁村の常識とは少なからず違うものにはなろうが、兎も角も人は戻ってきて、地域は徐々に活性化するのだ。


(一方、都市に関しては問題がもっと複雑で、それを語ろうとすると随分長くなってしまう故、ここでは地域の人々が行政のサービスなどではなく、地元自治会に参加し共同で仕事する必要性とその為の余暇が必要な事、歴史的に非常識な人間の群れは大抵都市部に現れるという大雑把な事実に触れるにとどめる。)


実際に人が地方に戻ってきて地域が活性化し、良質な地域コミュニティが末端の農山漁村に至るまで完全に復活するには、かなり長い時間がかかるだろう。一世紀以上かかる事もありうる。


だがそれはさておき、最初の切っ掛けとしてのインフラ整備が、先ずは必要だろうというのが藤井先生の考えと思われる。


嘗ての日本の姿を正確に呼び戻すための計画自体を、もっと綿密に組み上げる事は出来るだろうが、恐らくそう上手くはいかない。


そんな上から押し付けられたようなものだけで人が常識を取り戻すなら、クライテリオンが売れて読まれれば話は終わりの筈なのだ。


あくまでも地域で人々が様々な人々と交際し経験を積むことで、彼らの内側から常識が再び立ち上がってくるのを期待する事が、正しい方針のように私は思う。


クライテリオンが果たす役目があるとすれば、そのコミュニティの何処か重要な部分にその読者がいて、しかるべき場所と時期にて、過去からやって来た常識とは何かを態度や行動で示せる、そのヒントを与える事だと思う。


西部先生が言う所のスープラの役割は、都市部の近視眼的利己主義を気概と才能のある人物が押し切って地方のインフラ整備を行い、その間に、もっとずっと先の話を過去に学びながら表現していく…という事になるだろう。要するにクライテリオンに関わったり読んだりするような種の人々が、先駆者または指導者としてスープラの役目を果たすのだ。


現代日本に住んでいると、屡々人々の物わかりの悪さや頑固さに辟易する人があるかと思う。


しかし、彼等とて同じ人間、そんなに冷たくしてはいけないし、その知性理性を過剰に疑ってはいけない。


悪名高き通販サイト「アマゾン」の経営者、ジェフ=ベゾスがとある講演で自身の体験談を参考に興味深い発言をしている。


曰く「賢さは才能だが、優しさは選択である。既に与えられている才能を使うのは簡単だが、それを何に使うかの選択は難しい。」


この選択を正しくするための常識の再生でもある訳だが、何かしらの古典名著に啓蒙された皆々様が、所謂「大衆」に向ける視線は、あまりに高圧的で配慮に欠けるのではないだろうか?


精神の視野が狭く、己の五感で感じたものしか信じられない人があるなら、それをどのようにして感じさせれば良いかを考えるのも、本当に才能ある人間の役目なのではなかろうか?


福田恆存は、知識を持つことは責任であり、その責任を果たす覚悟の無いままに学ぶ事は自他にとって危険である…といった趣旨の事を述べていた。我々が果たすべき責任とは、大衆の愚かさを嘆き「もはやこれまで」と開き直って酒を飲む事だろうか?


私達にはきっと、もっとずっと素晴らしい、意義のある仕事があるはずだ。

それは華やかさに欠け、地味で、面倒くさく、時間のかかる事だろうけども、私たちはそれと向き合わなければならない。我々が様々な事を学び、語るのは、その時の発言や行為の裏付けに過ぎない。お酒を飲むのは、その仕事の合間…という事になるだろう。

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