大学について
- meg5838
- 1月6日
- 読了時間: 6分
【コラム】 関西支部 中尾 恵
大学とは何ぞやと、考える機会がありました。
私自身は短大卒業。特に学びたいことがあるわけでもなく、考えもなく、周りに合わせて選んだ進路でした。卒業式の日、母に「短大で得たものは何や」と尋ねられたものの返す言葉がなく、いたたまれない気持ちになったことを覚えています。
幼い頃に父親を亡くして吉野の山奥で貧しい暮らしを強いられた父は中学を出るとすぐに修行に出て板金工になりました。父方の親戚の多くは建築関係の職人や林業を営む者、母方の実家は家族経営の割り箸工場。伐木作業や土木工事で死んだ者もおり、父方母方双方とも大学とは無縁の、吉野という土地に塗れて生計を立ててきた家系ですから、私自身は大学進学以外の選択を是とする思いを強く持っています。
そんじょそこらのインテリよりも余程賢くて深みがある、敬愛してやまない女の先輩は高卒です。料理が得意で、みなが先輩の料理のもとに集まり、次の日には頬が筋肉痛になるほど笑いっぱなしの1日を過ごします。バカ話の中でポロッと芯を食ったことを言う、そんな先輩です。
さて、大学をはじめとした教育現場の現状を耳にして驚かされることもありますが、先生方の話を聴きに行くようになって、その中で出会う学生を見ていると、大学そのものやシステムの問題はあれども、その場で育まれている教育や営みは得難いものではないかと思うようになりました。私が出会った学生の多くは爽やかで気持ちのいい若者です。
研究という真善美を追求する行為自体とても尊いものというのが第一。きっと神は正解を持っていて、神の声に耳を澄ます行為が研究なのではないかと思います。どんな研究をするのか、最初の第一歩目、自分の意思を向ける方向を決めたら道中は自分の思惑は排して見えるもの聞こえるものに誠実に向き合う、とても神聖な行為のように見えます。
また、研究は一人でできるものではなく、同じ研究室のメンバーはもちろんのこと、他の研究室や市井の人々の協力が必要な場合もあることは論文を見ればわかります。過去の文献にしろ、現在の生身の人間にしろ、まずは誰かからのギブがないと研究は始まらない。そして今度は自分が誰かのギブとなる。1つの研究の下には連綿と受け継がれてきたギブアンドテイクが無数にあり、ギブアンドテイクが行われる元では、人との関わりを覚え、人間も磨かれていくことでしょう。
縦横無尽に網を張り巡らすように関係を結びながら周りと一緒に研究という神聖な行為を進めるその活動そのものが自分を作ってくれる。大学は単に知を得るための場所ではなく、知を求める営みそのものに大きな価値があるのではないかと思います。
外部に開かれた講座ーーただの客では得られない、その共同体の中に身を沈めるからこそ得られる無形の、体が吸収するものがあるはずです。
これまで参加してきた勉強会の中では、藤井先生の大学時代のご友人とお目にかかる機会もありました。大学時代の友人と公の為に働いてらっしゃるご様子や、ご友人方から聞く藤井先生との関係性のお話には大学という場の厚みを感じずにはいられません。
ある研究室に仕事の納品で伺った際、先生2人と学生1人と私の4人で食事をしたのですが、口下手な青年に就職活動のアドバイスをされていた先生の姿が印象に残っています。自分のことをしっかり見てくれて、親身に考えてくれる大人の存在はどれほど心強いものでしょう。違う機会に会った女子学生はその研究室に入ることができて良かったと話していました。
伺った研究室がまるで家のような雰囲気だったのもあって、それ以来、大学の研究室というのは第二の実家みたいなものかもしれないと思うようになりました。
核家族が増え、家族の形が変わってしまった現代こそ大学の研究室のような第二の実家は貴重なものではないでしょうか。核家族では家庭内の関係パターンが少ないため、コミュニケーションや関係の形が固定されてしまい、ともすれば家庭ごと閉塞してしまうこともあるように思います。
私は一人っ子で父母と3人の核家族でしたので、関係パターンは父と母、父と私、母と私、一家3人の4パターンしかありません。加えて父は自営業の職人ですから企業勤めされている方に比べると生きている世界が狭く、外で働いたことがない母の世界もやはり狭く、狭い世界で生きている者同士が少ない関係パターンで固まってしまっていた閉塞的な環境に窒息しそうだったこともあります。また、私自身は狭い世界で甘やかされた勘違い甚だしい小娘でもありました。
第二の実家があれば、親以外の大人との濃密な関わりがあれば、あの息苦しさをもう少し上手くいなすことができていたかもしれませんし、勘違いの小娘は気立てを叩き直してから社会に出られたかもしれません。引いては別れた夫との関係も違ったものとなっていたのかもしれません。
(念の為加えておきますと、専業主婦という母の人生を否定する気持ちは毛頭ありません。いつも家にいてくれた事を有り難く思っていますし、父にも感謝しています。嬉々として仕事に向かう父の姿が好きでした。ついでに、時間はかかりましたが離婚も消化できています 笑)
研究という行為が自己を滅してあるがままに物事を見る尊い行為なのだとすれば、研究室という場所が第二の実家となるのも自然なことという気がします。その行為はそのまま母というものーー愛と通じるように思えてなりません。
大学の是非とともに受験勉強は無駄だという話もよく耳にします。
芸人のふかわりょう氏が夜中のラジオで繰り返し述べていたコメントを紹介したいと思います。「受験は本気を出す練習。大人になっていざ本気を出そうと思っても出せない。受験という機会に一度本気を出しておけば、いざという時に効いてくる」
これは本当にその通りだと思います。迸る若い生命力を強い意志で制し、苦しい勉強に向かった経験は、これもやはり経験そのものが財産になるのではないでしょうか。厳しい受験勉強を経てきた方と話すと、知の体力差、精神力の差を感じることがよくあります。
知性や経験、関係は大学でなくても培うことはできると言われれば、それはその通りです。
けれど、大学や受験勉強が持つ底力はやっぱり凄いものだと思います。
そして、地域や地場産業を守るためにこそ、そこに根ざす者(サムウェアーズ)の中に大学でしっかり学んだ者がいた方がいいだろうということも、郷里の一族の興廃を肌で感じてきた者として最後に付け加えておきたいと思います。
コメント