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塹壕の中に無神論者はいない


【コラム】東京支部 田尻潤子(翻訳業)



タイトルは、敵兵の攻撃から身を潜めるような状況にいれば人は誰しも神を求めるだろう――これまでそうしてこなかった者でさえも――という意味の、英語圏でしばしば使われる格言だ(※1)。「人間とは神を必要とする生き物である」ということが「神は存在する」根拠になるわけではないが(※2)、この言葉は人間の本質をよく捉えていると私は思う。


神を信じて迫害される者は過去にも現在にもいるが、2015年にリビアでキリスト教の一派の集団がISに首を刎ねられるとき、「天国に行ける」と思っていたからなのか、あまり怯えていなかったそうだ(斬首場面は撮影・公開されていた)。人間の視点から見れば悲劇としか思えないこの出来事は、「神の視点」を(畏れ多くも)想像してみると必ずしもそうではなくなる。もしかすると神は殉教者たちの魂に「ようこそ。君たちは既に地上での使命を果たしてしまったから、わたしがこっちに招いたのだよ」なんて語っていたかもしれない。


故・西部邁氏は神の存在や宗教全般に否定的な見解を示していたが、父君は臨終のさい身体に酷い痛みがあったものの念仏を唱えることで耐えられたらしい。西部氏は「宗教の効果というものは、認めなければならない」と著述していた(※3)


「絶対者」なるものが実際に存在するかどうかは今のところ証明はされていない。しかし、多くの人にとって、それはさほど重要ではない。


生きていると様々な問題に直面するが、「神さまは必ず自分を助けてくれる」と信じるだけで、例えば行動や決断に勇気の要る場面で一歩を踏み出せることがある。その結果が自分の希望していた通りにならないことがあっても、そんなときは後にもっと良いものと出会えたりする。それは信心のある者には「神さまが用意しておいてくれた」ものと感じられ、感謝の念や大きな喜びにつながるだろう。また、「人間目線」の例えば10年は長いが、おそらく「神目線」だとそれは一瞬ではないだろうか。そう考えれば「待ち続ける」という苦行も苦行ではなくなるかもしれない。さらに、神が自分のことを見ていると思えば言動の一つ一つに気を遣うようになる。周囲の人がどう思っていようが、自分の心が納得できるならそれでよい。


自分はまだまだ無知で、この歳になっても未熟なところも沢山あるが、それでも私なりの結論を述べさせていただくと、「目に見えない大いなる存在」を日頃から――塹壕の中でなくても――意識して生きることは良いことだと思う。「見えざる絶対者を信頼する心」が、より良い人生をつくっていくものと私は信じている。




<注釈>

※1 "There are no atheists in foxholes." 誰が言ったのかははっきりしていないが(諸説あり)、アイゼンハワー大統領に1954年の所信表明演説で引用されたこともある。勿論これに対し無神論者らの反論も多数ある。言うまでもないが「塹壕」は、極度のストレス・不安・恐怖を感じる状況、死と隣り合わせになっている状況(加護や助けを求めて祈りたくなるであろうことから)のたとえ。

※2 人間の脳が神を求めるよう長い年月をかけて進化した、という説があってなかなか面白い。「神は、脳がつくった」E.フラー・トリー著(ダイヤモンド社)。神経科学や認知科学の専門家にこうした説を唱える人が多い。

※3 「死生論」(日本文芸社)89頁。





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