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国民として生きるか客になるか

【コラム】 関西支部 N


3年に渡って続いたコロナ禍と言われるものがようやくの区切りを迎えた。

新型コロナウイルスの脅威が騒がれ始めた当初こそ怖さを感じたが、例年のインフルエンザや肺炎での死者数を聞くと「今年の風邪はたちが悪そうだから気をつけよう」で十分なように思えたし、親をはじめ周りの年寄りの長寿を願う点から考えても自粛は心身両面に悪影響ではないかと気を揉む3年だった。


中でも聞き捨てならなかったのは「徹底自粛」すべしという声。そこまで恐れるウイルスなのかから始まり数々の疑問が湧いたし、徹底自粛に対する批判は頷けるものばかりだった。そして徹底自粛論者を見ているうちに生まれた不信感は拭えないものとなった。


徹底などという激しい言葉を使っていたが彼らのいう徹底とは甘く曖昧なものではなかったか。

徹底的に自粛すると医療もできない。コロナの治療もワクチン接種もできないし病人を見殺しにすることになってしまう。医療は省いて考えてみても、徹底とはどの程度を言うのかがやはり解せない。徹底を言うからには水道ガス電気のインフラを止めて食料も備蓄のみで生活するのか。ゴミ収集車もこない。被災生活が想起されるがそれを皆に強いるのか。不衛生な環境から別の感染症が起こるのではないか。徹底自粛下では蔓延の心配はないのかもしれないが、人々が衰弱していくことは容易に想像できる。それ以前に自分自身が徹底自粛に耐えられるのか。「コロナ軽視はけしからん」と言いながらその多くは好き勝手出歩いていたじゃないか。


彼らに言わせるとこれは難癖にすぎないんだろう。どうやらエッセンシャルワーカーは除くのが彼らのいう徹底自粛らしいのだ。随分都合の良い徹底だ。生きる限り徹底自粛などできはしない。土台無理で不誠実なスローガンを掲げる様は「大阪都構想」を彷彿とさせる。言論人の先生はその言葉遣いを是とするのか。


少々くだを巻いてしまったが、何を言いたいかというと、政府の補償、つまり金があれば自粛できるという話が気に入らないのだ。我々の生活を支えてくれているのは人々の働きだ。


仮に政府が補償をしてくれたとしても「よし、自粛しよう」とは思えない。自粛生活を支えてくれるのはそこまでするほどの危険性を孕んだウイルスが漂う中を自粛せずに働いてくれる人だ。ところが徹底自粛を述べる人、それに与する人からは自粛できない役目を負う人への言葉を聞くことはなかった。同胞を危険なウイルスの中働かせ、その働きに守られながら政府から与えられた金でぬくぬくと過ごすことに躊躇いはないのか。雇用の流動性などと言って労働者を人格を持った人間とは見ずシステム的にしか考えない新自由主義者と同じではないのか。

金さえあれば自粛できるとシステマチックに語る彼らを見ていると、彼らを国民と言っていいのか、この国のお客さんでしかないじゃないかという不信感が生まれた。

世間一般の大衆がそうなるのはまだしも、自分は大衆とは違うという顔をしてきた人たちが蓋を開ければただの客でしかなかったというのは残念なことだった。


やれ徹底自粛だ、補償だと日がな一日騒ぐ彼らを見ていると「ふざけるな」と煮えたぎるものがあり、自衛隊に国を護ることを期待すること自体お門違いという小幡敏先生の著書の言葉が思い出された。


思えばこの不信感は勇ましく国防を唱える「保守」や「右派」と言われる人たちに抱いてきたそれと似通っている。そりゃ私だって憲法や国防がこのままで良いはずがないと思っている。でも彼らの多くはやはりシステムと金の話ばかりで国防を担うのは人だという点が欠けているように思う。最近では自衛隊の待遇の話なども耳にするが、待遇さえ改善したらあとはヨロシクと、やはり客でしかないように思えて仕方ないのだ。

軍を持つということは命を国に捧げてくれと言っているに等しい。人様にそんなことを言えるのは、自らもその覚悟がある人だけじゃないのか。我々に軍を持つ資格はあるのか。覚悟を持つには、怠惰、軟弱さを克服するにはどうすれば良いか、国防について私が1番聞きたいのは、話したいのはそこだ。


お花畑で生きてきたから一朝一夕に覚悟を持つことは難しいかもしれないが、国防を自分事として考えるなら底を抜けてなお落ち続ける国内の諸問題を放っておけるわけがない。

技術力を回復すべく研究者や技術者の流出を防ぐ必要があるし、産業、それを支える中小零細も守らなければいけない。エネルギーや食料自給率の問題も全てが繋がっていることは私のような無学な者でもわかる。国防の最前線に立つ人が不必要な危険に晒されることがないよう外交や政治に目を光らせる責任もあるはずだ。けれども長年繰り返されてきたのはまったく逆の事ばかり。

己の利益と憂さ晴らしを求めるがあまり甘い言葉に騙され、騙す者が下心を明け透けにし始めても面白い、新しいなどとふざけ、前線に立つ気概もないくせに自ら危機を招き続けてきてしまった。こんな我々に軍を持つ資格はあるのだろうか。


「日本を護る人のことは日本国民が護ります」

以前知人がある場所に書いた言葉が蘇る。私は大石久和先生と藤井聡先生の「国土学」にある循環の話が大好きなのだが、自衛隊をはじめ国防の任務にあたる人と国民との間にもお互いを護り合う循環が生まれた時に軍を持つことができるのだと思う。


あらゆる場所で必要なはずの循環がこの3年間でたくさん壊されてしまったが建て直すしかない。泣き言も言っていられない。

私はこの国のお客さんでなどいたくない。骨の髄まで染み込んでいる弱さを叩き直したい。


何一つ賛同できない徹底自粛論だったが、人生も折り返し地点を過ぎてこの先どう生きるのかを考える機会となった。

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