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半ば無意識のもの ~第五回 信州学習会感想~

【コラム】 関西支部 小町



信州学習会感想

 

 旅鞄とお弁当を手に、新幹線に乗り込んだのは朝の八時ごろでした。大阪から豊橋まで、新幹線であっという間に到着し、それから私は伊那路をゆく鈍行列車に乗り込みました。

 列車は前方に連なる緑の山々に向かって出発し、やがて窓の外には田畑が流れてゆきます。稲穂がこうべを垂れて黄金色にかがやき、農夫が田で働いているのが見えました。列車は徐々に街から遠ざかってゆき、さっきまで、はっきりと前方に聳えていた山々の、その中へ中へと分け入っていきます。


 十月のはじめ、信州学習会「自前の国家構想を考える 柳田國男を手がかりに」が開かれました。講師は「英語化は愚民化」や「新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る」などを著されている政治学者、施光恒先生でした。


 施先生の連載やそのお人柄からもうかがえるように、学習会は柔らかみのあるもので、私たち自身がともに考えながら拝聴できる、その様な時間でした。予定されていた時間めいいっぱい、先生の興味深いお話に、私たちは聞き入りました。


 日本民俗学の創始者と言われている柳田國男は旧飯田藩士の養子で、学習会が開かれた飯田の地とは深い繋がりがあり、東京で使っていた書屋が現在は飯田に移築され、「柳田國男館」として市民に開かれています。


 学習会は、柳田國男の幼少期の神秘体験、また『妖怪談義』を記したことなど、氏が不可思議な体験について、それらを切り捨てることなく、軽視することなく、資料として著書に記し、のこしている、というところから始まりました。

 施先生は、これらの不可思議な体験、さらには慣習や、伝統、文化、道徳感覚などについて、つまり、言語化されたり意識化されたりするより前に私たちが身を浸しているもの、それらを「半ば無意識のもの」とおっしゃいます。そして、これら半ば無意識のものの上に「意識的なもの」すなわち明瞭に説明されるもの、理念、などが成り立つ、ということを話されました。


 この学習会で話された「国家構想」とは、そのような最も初歩的なところを中心に展開されました。初歩、それは同時に最も重要なところでもあります。我々が何者であるかを考え直す、見つめ直すということ。柳田國男が、日本の里々に残る古い慣わしを拾い集めたように、私たちはまず、自分たちがどのような流れの中に生まれてきたのかを知ることが必要なのです。

 楼閣といえども、砂上に築けば、突風や雷雨や、楼閣の中で巻き起こる混乱に、耐えうることができません。その楼閣ではなく、それを支える土穣から見直してみる、それが自前の国家構想を考える初歩、つまり第一歩なのだと思います。


 施先生は、「半ば無意識のもの」について、

 「日本人は自国の文化や感覚を言葉にすることはなかった。けれども、その価値を日本人自身が認識していなければ、柳田國男が言うところの「筆まめの口達者(西洋の文化を指す)」に、文化が巻き込まれてしまうのは当然のこと。」

とおっしゃいます。


 この言葉を聞き、今や「筆まめの口達者」とは、なにも西洋人だけを指すのではなく、私たち日本人のことをも言い表すようになってしまったのではないか、そう思いました。


 日本の近代は西洋製の「新たなる概念」を早急に取り込むために尽力した時代であったはずです。新たなる概念を取り入れるためには、新たなる言語が自ずと必要になります。そこで作られた言葉の数々。例として幾つかあげてみますと、自由、個人、権利、社会、文化、絶対、義務、恋愛、理性、などなど。どれもこれも、明治の知識人たちの国際的な知性や教養が感じられる、素晴らしい翻訳ではあることは言うまでもありません。しかし、これら、近代に生まれた「翻訳語」が現代社会において生じる、さまざまな問題の背景に潜んでいるのではないかと思います。

 私たちが日本語と思っている言葉、例えば、「社会」という言葉一つとってみても、それは一見何の疑いようもない日本語ですが、実は、漢字で「社会」と表されようと、カタカナで「ソサイエティ」と表されようと、さして変わらないものなのです。そもそもの概念が外来のものであると言う点において。

 カタカナで記されていると、すぐに外来語と気付くことができますが、それらが漢字で記されたとたん、その言葉が明治の時代に翻訳された外来語、つまり、新たに取り入れられた概念であることに、気が付かなくなるのです。


 今の日本では、翻訳語がなければ存在できないような制度や仕組みが構築され、私たちはその中にしっかりと組み込まれています。私たちは、翻訳語によって、確かに、西洋文明に負けず劣らずの社会を作り上げることができたのかもしれません。が、果たしてそれらを、私たちは「自前の」国家と呼べるのでしょうか。


 ある親日家の外国人が、

「世界と比べて、日本人が、特に、英語ができないということは、世界中誰だって知っている。だが、それを恥じることはない。英語が大変に苦手であるが故に、日本人は自分たちの言葉や文化を蝕まれず、守ることができたのだから。」

と言いました。


 この言葉を聞いて、私は驚きました。私たちの文化が言語に守られてきたということ、その様な重大なことに、どうして気がつかなかったのか。英語ができないことに劣等感を抱く、この国の中にいると、なかなか気がつけない、その優れた点を外からの目によって気付かされました。日本語と英語の橋渡しがそう容易く出来なかったということが、かえって、私たちの国を守ること、国防にまで繋がっていたのです。


 西洋では、理論や理念が高々と掲げられ、宣言され、作り上げられてゆきますが、古来、日本では、あらゆる物事が自然と「なる(成る)」ことで発展してきました。言葉を構築したり、理論を打ち立てる様なことよりも、巡り巡る自然に身を任せて、なるものがなり、ならぬものがならぬことを受け入れ、自ずと社会は成り立ってきたように思います。古事記では、この「なる(成る)」という言葉が最も頻繁に使われていると聞きます。

 そういったことを考えてみると、近代以降にできた言語が「自前」のものであるかどうかは甚だ疑わしいものです。私たちが、「自前」のものを考える際に確かな手がかりになるのは古典なのではないでしょうか。

 鉢植えの木と、その国の大地に根ざした木とではまるで違います。鉢植えの木は、どれだけ大きな鉢に入っていようと大地に根ざしていない限りは「自前」と呼べるものではなく、根無草とさして変わらない、不安定なものであると思います。


 柳田國男は、膨大な資料を残しています。しかし、その膨大な著作の中で何かを言い得たかどうか、また、言い得ようとしたのかどうか。集められた昔話は、一体何を、私たちに伝えているのでしょう。私たちはそれらの昔話に育てられてきました。けれども、それらは私たちにはっきりと、何か一つの結論を与えているでしょうか。

 氏は、学者として結論のある論説を書くことよりも、現地の人の話に含まれる「半ば無意識のもの」を信頼し、また、そこにこそ民俗学の真価を見出していたのではないかと思います。


 「はじめに言葉ありき」に始まる聖書の教えと、日本の禅で見出された「不立文字」という教え。相対する両者の教えをみて、言語に対する価値の捉え方が大きく異なっていることに気が付きます。


 西洋化が進んだ近代以降、私たちは言語活動を発展させてきました。必然、感じることよりも考えることが先に立つようになりました。私たちは感じたことを、何か言葉に当てはめて、その存在を確かにし、安心を得ようとしています。が、しかし、言葉では輪郭を縁取ってみたり、言い表したりできない、そのような感覚があることは確かです。言葉にならないものは、言葉にできません。言葉にできない故に、ないものと思い込んでしまうのです。それが不安で、最後はやはり、言語に縋ってしまわざるを得なくなってしまいます。


 遡れば、日本には、言葉では説明し難い、言葉で説明されずとも確固として感じることのできる何かがそこにはあったのではないかと思います。

 「あはれ」や「をかし」以上の言葉で目の前の風景を説明してしまったならば、王朝美は王朝美たりえなかった、私はそう感じます。古代人の心を震わせたのは、「をかし」という言葉でしょうか。それとも、「をかし」という感覚でしょうか。


 学習会の翌日、支部の皆さんや先生方と、飯田美術館にて、飯田出身の日本画家、菱田春草の画を鑑賞しました。春草は、『茶の本』を記した岡倉天心のもとで絵を学んだ一人で、同志の横山大観らと共に「朦朧体」という画風を確立しています。朦朧体の画は、輪郭線が曖昧で、全体的に朧げな印象です。


 春草らを指導した岡倉天心は、弟子たちに「笛声」という画題を与えたうえで、「貴公子が野原で笛を吹いているといった当たり前の図柄ではいけない、笛を吹いていないで笛の感じを出せ」と禅問答さながらの課題を与えたといいます。

 画では描き出せない笛の感じ、笛の音を表現しなさいということは、つまり、言葉では言い表せないものを表現するということです。笛の声と言って、単に笛吹きの絵を描くのでなく、描かずして笛声を描く。朦朧体を描いた画家たちは、そのようなことに取り組んだのです。


 「言葉にできない何か」、施先生のおっしゃる「半ば無意識もの」は、実はその言葉自体が複雑で曖昧に感じられるものです。が、「朦朧体」の絵は、まさに「半ば無意識もの」を描いて見せようとしており、一日目の学習は二日目の画によってより実感を持って理解できるような気がしました。

 隣で一緒に絵を見ていた方が「自分たちが見ていたのは、実はこの絵のように輪郭や境界が曖昧とした風景だったのかもしれない、そんな気がしてくる」とおっしゃり、このことが私は大変心に残り、帰りの列車でつとにそのことを思い出していました。


 重畳たる山の連なり。遠く聞こえる鳥の声。車窓をかすめる秋の草。まだ青い柿の実。曇天に舞う小さな蝶。岩々の間をとうとうと流れゆく翠の川。・・・


 やがてそれぞれの輪郭線は消え、山と空とが滲み合い、蝶が風になり、川は海へと姿を変える。行きの列車ではあれだけ細々と鮮やかに目に留まっていた車窓の景色が、帰りの列車では朦朧体さながら、ぼんやりとした一つの景色に見えてきます。


 思うに、柳田國男も春草も、「半ば無意識」に感じたもの、感じていた何かを表そうとしたのではないか。そして、半ば無意識の、朦朧としたものの中に、この国の「自前の」ものを見つける手掛かりがあるのではないでしょうか。

 

 施先生は、日本の文化が英語化やグローバル化によって失われることに長年警鐘を鳴らしてこられました。私はいつも、「英語」ばかりに気を取られていましたが、今回先生のお話を聞いて、もう一度日本語とは何かを見つめ直してみた時、漢字で表された言葉(翻訳語)でさえ、日本の感性に馴染めぬものがあることに気付かされました。自国の文化、とくに言語、その感覚の不思議な曖昧さの中で、私たちははっきりと生きてきたのだということ。

 

 これから六十余の駅を経て豊橋へ向かう鈍行列車の窓の外。過ぎゆく朧げな景色を背に、お土産でいただいた林檎だけがくっきりと、その紅い肌を輝かせています。私は束の間の眠りにつくのでした。

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