信州支部便り 7月版
- mapi10170907
- 2023年8月6日
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【コラム】 信州支部 前田 一樹 ※信州支部メルマガ配信より転載
信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp
▼7月2日配信 「表現者クライテリオン5周年記念東京シンポジウム」最速レポートと今後の信州支部の方向性
昨日7月1日(土)、「表現者クライテリオン5周年記念シンポジウム」が東京にて行われました。今週のメルマガでは、その中で私が印象に残ったことを「最速」でお伝えいたします。
本記事は、私の印象に残ったことの「覚書(おぼえがき)」ですので、講演内容はこれに尽きるものではありません。また、メモを取っていなかったため、思い出しながら書いており、発言の言い回しや順序もそのままではありません。
当日の模様はカメラで収録されていましたので、後日何らかの形で配信があると思われます。正確な内容をお知りになりたい方はそちらをご視聴ください。
その点ご了解いただき、話された内容を若干でも皆様と共有できれば幸いです。ではどうぞ。
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〇第1部:日本人の故郷喪失について
・日本人は「故郷」を喪失している。その「故郷」とは「軸」または「基準(クライテリオン)」と言い換えることもできる。それがない故に、日本及び日本人は迷い続け、「グローバルスタンダード」に合わせて、自分達の首を絞めるような「改革」を社会の全面において続けていると思われる。しかも、それは今に始まったことではなく、近代に入り明治このかた、その「轍(わだち)」の上を走り続けきた。
・その「故郷」というのは、目に見える「田園風景的な田舎風景そのもの」では必ずしもない。目に見えない「心象風景としての故郷」だと考えたい。そのように「意識の問題」として捉えることで、実際の「田園風景を取り戻す」ことに比べて「故郷」を取り戻すことに希望が持てるのではないか。
・その「故郷」は失われそうになったり、実際に失われることで初めてその大切さに気付くものである。日本に生まれ、日本に生きている日本人は「国家」があることが空気のように当たり前になっており、それをあえて「守ろう」とする意識が薄い。それと同様に、目に見えない、日本人としての「常識感覚」「言葉」「文化」「伝統」といった、日本人を日本人たらしめている、「目に見えない故郷の喪失」にも気づくことが出来ていない。それに気づかせること、気づく人が増えることが重要である。
・そのために繰り返し「故郷」なり、日本人の原点について振り返り、それを語り続ける必要がある。その一例として、ロシアには国民共通の「故郷」というイメージ(心象風景)を持っていない。しかし、日本人の場合、たとえ都会育ちであったとしても、日本人の原風景と言った共通のイメージを持っている。これは、民俗学者の柳田國男を始めとした、先人が繰り返し日本人の暮らしや習慣について調査し語ってきた成果だと言える。
・日本人の「9割」は「世間」というものの中で、それが失われることを意識せずに生涯を生きている。ただ、残り「1割」の人々がその「世間」というものの危うさを自覚し、それを守ってきたのではないか。近代以前はそれを「武士」が担ってきたと考えられる。現代において、身分制度を復活させる必要はないが、それに代わる、少数でもオルテガの言った「精神の貴族」が復活することが切望される。そして、そのような精神を持つ人が、日本に失われることないよう、新たに生まれるよう「精神のリレー」を雑誌の継続を通じて未来に繋いでいきたい。
〇第2部:雑誌のこれまでとこれから
・現在の左右の雑誌を概観すると、それぞれが自分の意見に固執して、左右の立場の違いを超えて対話が生まれる媒体としての機能を失っているのではないか。昔の雑誌には他の意見も認める余裕があり、そのような対話の場があった。それと同様に、『クライテリオン』は各特集テーマに応じて、左右の意見が違うと思われる論壇人の人々の対談や座談の場を作っている点が特徴的である。
・「雑誌は生もの」である。2018年から発行を続けてきた、『クライテリオン』の特集テーマを振り返ると、当初は「保守思想」「クライテリオン」「ナショナリズム」など基礎的な概念を確認し、その後、「コロナ論」「財政論」「政治論」といった社会現象として応用問題を取り上げてきた。また、その途上において、「日本人の強み弱み」など、日本人の特殊性についても特集を組んできた。その、根源には「保守思想」という考えがあるが、それは様々に展開可能なものである。ゆえに、関心のある「特集号」だけでなく、是非、「定期購読」することを通じて、クライテリオンが伝えている「保守思想全体」を受け取っていただきたい。
・日本は確実に「滅びに向かっている」。その兆候は、「政治、経済、社会、文化」といった全体に見られる現象である。いや見方によって、その「コア」にある「日本人らしさ」は、既に滅んでいるという見解もある。しかし、そんな中でも、雑誌は少数の人々の「シェルター」の役割として継続していきたい。と同時に、少しでも政治的な影響力を獲得することを目標に、「血みどろの言論戦」も同時に継続していくものである。
・いま若者は「何をやっても変化しない社会」を前にして、政治や社会対する関心を失っている。また、「保守思想」は、いまある秩序を守っていこうという主張でしかないと思われている。しかし、必ずしも積極的にカオスを求めるわけではないが、「思想の中で『国家』を潰し、そこから『秩序』を構想する」といったラディカルな側面も併せ持っている。『クライテリオン』は、そういった「ラディカルな保守思想」を、今を生きる若者に届けていきたい。そして、そこから思想を始めて欲しい。
・大学教授などの知識人は間違うことを恐れてなかなか価値判断を表にだした言論をすることを避ける。しかし、雑誌は「前方展開」すること大事だと、西部先生が言っていた。積極的に未来の不確実な問題対して、予測を含めた対処法を訴えていくことが大事である。『クライテリオン』はそのような言論を行ってきた。そして、5年間、雑誌が継続しているのは、訴えてきた言論が大筋「間違って」いなかったことの証左ではいかと考えている。積極的な言論をともに行う「書き手」となる仲間は少ないが、これからもその路線を継続していく。
・今後、雑誌を継続していくに当たっては、次の世代に精神のリレーを続けていくためにも、『クライテリオン』として、新たな書き手を発掘し育成していくことを続けていきたい。
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「覚書」は以上になります。
今回のシンポの内容を聞いて、改めて「雑誌」を継続していくことの大変さと尊さを感じるとともに、これからも信州支部として、『クライテリオン』が展開する「思想運動」に関わり側面からサポートしていくにあたっての覚悟を新たにしました。
それは必ずしも世間の「多数派」となることを目標にするものであなく、自分の意思で現状に危機感を感じ、「故郷=基準(クライテリオン)」を探し求め、それに基づいて生きる人々が一人でも生まれることが、『クライテリオン』の目指す思想運動なのだと捉えました。
また、その「思想運動」を地方において下支えしていく、「信州支部」の方向性も再確認することができました。
しかし、そのためには少数でも問題意識を共有し、語り合える仲間との交流がどうしても必要になります。当たり前ですが、「孤独」では運動を続けていくエネルギーが枯渇してしまうからです。
今回の「東京シンポ」の後に行われた懇親会にて、「編集委員」や「執筆者」の先生をはじめ、関東や関西から集まった「表現者塾生」や「クライテリオン読者」の方々とも交流し対話することができたことで、活動を続けていくエネルギーを充填することができました。
それと同様に「信州支部」の活動においても、現在の社会に問題意識を持ち、語り合いの場を求めている人々がいることを信じ、潜在的にそのような問題意識を持つ人の掘り起こしつつ、集い語り合うことによって、参加する方も支部としてもエネルギーを充填できる場所を「保ち守り」続けていきたいと思っております。
本メルマガをお読みの方々におかれましても、ご自身のできる一歩一歩を積み重ねっていっていただければと思いますし、それが「信州支部」との関係を通じて実現されればこれに勝る喜びはありません。
そんな意味も込めつつ、「信州支部」の今後を見守っていっていただきますよう、よろしくお願いいたします。
▼7月12日配信 「一汁一菜」と「読み書き計算」の価値について考える
学校関係の仕事で、「特別支援教育(以下、障害児教育)」を学ぶ教師にむけた研修のなかで、日頃行っている「教育実践」について発表してほしいという依頼をいただきました。
その内容が「障害児教育」に携わっていらっしゃらない方にとっても意味のあるものだと思われましたので、今回のメルマガではその概要を紹介させていただきます。
今回の実践発表のテーマは最終的に、
「読み書き計算を『基本』とした個別学習の取組―児童の生活を豊かにする『教育の原点』」
というタイトルをつけました。しかし、当初なんとなく考えていたタイトルは、
「『読み書き計算』でよいという提案」
でした。
この「タイトル」ご存じの方もいると思いますが、2021年に文庫化された料理研究家「土井善晴先生」の著書『一汁一菜でよいという提案』にならったものです。
この著書で土井氏は長年の「料理研究・実践」の結果たどり着いた結論として、「食事の原点」は家庭料理にあり、それはごくシンプルな「一汁一菜」であると言っています。
そして、その当たり前の食事を自前で料理し、毎日の生活において続けることで、「生活」の基本が定まり、「精神」の自立も養われると、食事と精神の自立を結び付けて語ってもいます。
その「食事の原点」としての「一汁一菜」の考えを、「教育の原点」に応用してみると、
「食事の原点」=「一汁一菜」=「ご飯と味噌汁」
「教育の原点」=「読み書き計算」=「漢字と計算」
になると考えました。誠に単純な連想で恐縮なのですが、これは私が日頃「教育」において感じていることとピッタリと一致したのです。
「読み書き計算」なんて、改めて確認するまでもなく、当たり前の「教育の基本じゃないか」と思うかもしれませんが、これがまったく当たり前ではないです。
というのも、現在の「教育」では、PCが全員に配布され、それを使わなければ「教育にあらず」という風潮が支配的です。くわえて、「英語」や「プログラミング」が必修化となり、果ては「金融教育」も取り入れるべきだとも言われており、「読み書き計算」などの重要性などは省みられる機運はありません。
同様に「障害児教育」においても、「タブレット」が全員に1台ずつ配布され、それを活用した教育を行うことが推奨され、全力を挙げて予算や人員も投入されています。もちろん、使える場面でタブレットは使えばよいのですが、その熱の入れ方に異常なものを感じています。
そんななか、「読み書き計算でよいという提案」は滑稽なほど「反時代的」であり、むしろ勇気のいる提案となっているのです。
表立って反対してはいませんが、「読み書き計算」の学習を「障害児教育」においても、積極的に取り入れることが必要なのではないかと考えてきました。
そう考える至った理由として、まず「漢字」については、「石井式漢字教育」として、幼少期からの漢字教育を推進してこられた、「教育学博士 石井勲(1919~2004)」という方からの影響がありました。
特に『0歳から始める脳内開発―石井式漢字教育(石井1997)』の中にある、知的障害児への漢字教育についての話に示唆を受けました。
脳障害児や精神薄弱児の場合、言葉に対する反応が鈍いのが一般的な傾向です。言葉を教えても脳に蓄積されません。ところが、漢字を与えると、びっくりするほど吸収します。(…)今の日本では、脳に障害があるという理由で「かな」しか教えませんが、この子たちにとって、つかみどころない抽象的な「かな」は非常に難しいのです。(…)ところが、漢字は〔具体的なイメージが伴っているため〕その場で覚えてしまいます。(同上35-37、〔〕内補足)
一方の「計算」の方は、簡単な計算が、前頭葉を活性化させることが検証されているとを知り、学習に取り入れることを考えました。それは「作動記憶のトレーニング」として介護施設での学習療法に取り入れられています。
そのような考えのもと、毎日の日課に位置付けられた、児童の必要性に応じた、机上の学習をする「個別学習」において、この仕事についてから一貫して「読み書き計算」の学習を扱ってきました。
その結果、「知的障害児」においても、確かに「読める漢字」が増え、その子のペースで「計算」もできるようになることが分かりました。
「漢字」や「計算」ができるようになることが成果ではあるのですが、「自分の力で、意味のあることを達成した」という実感が、児童にとっては一番の宝になるではないかと、これまで担当した児童の反応に教えられてきました。
そしてまた、「障害児教育」においてだからこそ、根源的に必要な学習内容に焦点を当てて考えることになり、「読み書き計算」のおろそかにできぬ重要性に深く気づくことができました。
以上に述べたことを、当日の実践発表では、実際の学習風景や、使用したプリント教材を交えて発表することになっています。
ともあれ、今回のメルマガが「一汁一菜」や「読み書き計算」の当たり前のなかにある奥深さについて、改めて考える切掛けとなりましたら幸いです。
▼7月19日配信 登山がもたらす認識の逆転ー自然を「主」とした本来的認識の経験
先日の3連休は、2泊3日で「北アルプス(飛騨山脈)」にて縦走登山(頂上と頂上をつなぐ登山)してきました。今回の目的は「北アルプス」の核心とも言える、「槍ヶ岳(3179)」でした。
今回のメルマガでは、簡単な行程レポとそこでの気づきについてお伝えいたします。
===行程レポ===
金曜日(15日)に仕事を終えて帰宅。登山の支度をして一路、登山口のある「岐阜県高山市」にある、「新穂高温泉」を目指しました。現在の住まい「木曽」からだと、2時間ほどで到着。北アルプスの玄関口と言えば、「上高地」ですが、こちらの新穂高温泉は「裏玄関」にあたります。
1日目(15日:土曜)は、「新穂高温泉登山口」から、「双六(すごろく)岳(2860)」の手前にある「双六小屋」を目指しました。
樹林帯や沢沿いを登りながら、だんだんと高度が上がっていく気持ちのよいルートでした。しかし、天気は曇り。本来、槍ヶ岳をはじめとした「穂高連峰」と言われる、「北アルプスの名峰」をルート各所から眺めながらの登山コースではありましたが、あいにくその眺望をえることは出来ませんでした。
さらに、思っていたよりも急登で膝上の筋肉が痙攣しだし、途中で「膝」に痛みがでてきました。何とかストレッチをしながら痛みをやり過ごし、双六小屋に到着。テント場は経験したことがないほどの強風で四苦八苦しながらのテント設営でした。
2日目(16日:日曜)は、早朝5時ごろから行動を開始。テントに荷物を残し、早朝に「双六岳」を登頂。この日も曇りだったため、本来は絶景の眺望が得られるはずの山頂は雲の中でした。
テントに戻り、フリーズドライのチキンライスにお湯をかけて戻した簡単な朝食を取りテントを畳み、メインである「槍ヶ岳」を目指し、双六小屋と槍ヶ岳を結ぶ「西鎌尾根」を歩きました。
尾根の途中には、「樅沢岳(2755))」「左俣岳(2674)」と高度のある山があり、そこを乗り越えるアップダウンを繰り返し、切り立った尾根筋を歩くこと、約4時間、霧の中に、鋭く尖った巨大な岩の塊、「槍ヶ岳(3179)」が姿を現しました。
まずは、テントを立てるために、槍ヶ岳の傍らにある、「槍ヶ岳山荘」のテント場を申し込みに行きましたが、流石の3連休のため「満席」。少し下った場所にある、「殺石(さっしょう)ヒュッテ」にテントを張りました。
休憩して、メインの槍ヶ岳に登りました。本来であれば、30分ほどで頂上まで登ることができますが、この日は行列ができおり、順番待ちをしながら2時間ほどかけての登頂でした。
3日目(17日:月曜)は、朝テントから出ると、雲一つない抜群の快晴。槍ヶ岳の麓から、遥か遠くにある「富士山」がはっきりと見え、「八ヶ岳」、「南アルプス」など遠方の山々も雲海の上に顔を出していました。
快晴のコンディションのなか、間近で槍ヶ岳の姿、そして周囲にある脈々と続く北アルプスの山々の山容をじっくりと眺めてから下山しました。
===行程レポ以上===
単独登山をすると、ことに縦走のように長時間、自然のなかに身をおき行動していると、いろいろなことが想起されます。
今回、自分のなかに印象深く残ったのが、【認識の逆転】というアイディアでした。
普段の生活圏から見ていると、遠くに「山があるな…」という感じですし、まして、東京などの大都市にいると、山自体を目にすることも少ないと思います。
となるとそこは、
【人間が「主」で自然が「従」】
の世界と言えます。
しかし、北アルプスに入ると、こちらから大自然の懐に入っていくわけですから、人間は「客人」となり、また環境の厳しさが加わり、
【自然が「主」で人間が「従」】
の関係となります。
またそこには、「人間の意図」を超えて、悠久の時間をかけて自然が生み出した造形美が広がっています。一度、北アルプスに入った経験があれば、その自然の造形美に、「人知を超えたもの」の存在を感じない人はまずいないでしょう。
人によって受け止め方は様々だと思いますが、登山を通じて「人知を超えたもの」の働き、顕現を見るという宗教的なものに近い経験が、登山の魅力に取りつかれた人々に共通した心境だと思っています(実際、「槍ヶ岳」への登山は僧侶によって開かれています)。
さらに言えば、「人間」ですら「自然」が生み出したものなのですから、【自然が「主」で人間が「従」】という認識こそ「本来的な認識」であると言えます。登山をすると、そのような「認識の修正」が図られます。
もちろん、「里」に戻れば、【人間が「主」である「かのような」】、普段の暮らしに戻っていくわけですが、この登山で得た、自然こそ「主」であるという、「認識の逆転」を忘れずにいたいところです。
【人間が「主」の世界】のことを、養老孟司氏は「都市化」と呼び、現代人は普段「ああすればこうなる」という認識のもと生きているが、本来【自然が「主」】であれば、コントロールしきれない「ギャップ」が生まれ、そこに現代社会のひずみを指摘してきました。
処方箋として、養老氏は「都会人は定期的に田舎に行け!!」と冗談半分にアドバイスをしているのですが、私としては、より深いインパクトを伴いつつ、同様の認識転換が図られる「登山」をお勧めしたいところです。
意外に長野県にお住まいの方でも、登山に親しみのない方が多くいることを知っています。県外の方も含めてですが、登山に行く機会がない方は、是非一度、信州の山に登っていただければ幸いです。山はいつでも待っています。
ということで、今回は登山の勧めに落ち着きましたね!
▼7月25日配信 「喜び」を基準とした生き方の倫理ースピノザ『エチカ』の私的紹介
青臭いかもしれませんが、これまで「如何に生くべきか『だけ』」を問いかけつつ読書をしてきました。実用的なハウツー本は別とも考えられますが、やはり、それも人生の一部である以上、「生き方」の一部と考えられます。
そんな堅苦しい了見ではなくもっと気楽に…とも思われるかもしれませんが、「如何に生くべきか」という問いは人類の歴史を通じて問われてきた「大問題」。
それを愚直に問うことは、個人の問題を超えて、過去に生きた多くの「思想家」が残した考えを参照することを経て、「歴史」との対話に繋がっていく実感があります。
ゆえに、そのような「問いかけ」を通じて、重みある歴史との対話を失った「生」は、緊張感のないふやけたものになってしまうのではないかと考えています。
ともかく、そんなモチベーションで読書に取り組んできたのですが、3年前(2020年)に出会った「ある哲学者」が、自分が心から知りたかったことの「核心」を、既に17世紀にこれ以上ないほど明瞭に書き残していることに衝撃を受けました。
その哲学者は「スピノザ」です。
特に主著である『エチカ』は、「神から個物へ、個物から人間の精神へ、人間の精神から感情へ、感情のメカニズムから感情との向き合い方へ」」と至る過程を扱った5部からなる著作で、この体系を理解することで、「如何にいくべきか」という点に関して、「生き方の基準」という意味では迷うことがない筋道が示されています。
ということで、今回は私が感じているスピノザの魅力を、『エチカ』に絞っていくつかのポイントからお伝えいたします。
〇「文化的特殊性」に囚われない「生の基準」
スピノザは、オランダのユダヤ人コミュニティに生まれた人物ではありますが、ユダヤ教の教義に反する説を主張したかどで、コミュニティから排除され、その後、キリスト教一派の人々と交流を持ちましたが終生どこにも属すことがない生涯を送りました。
だからこそ、スピノザ自身まずもって文化的特殊性に囚われない、普遍的な生き方の基準を真剣に探し求めた人物であり、その集大成としての「倫理(エチカ)」も、文化的特殊性を超えた「生き方」の論理が展開されています。
このような背景を持っている人物と著作なだけに、そこに盛られた思想は時代や文化を超えて、現在の私たちの「生」に直結するものとなっているのです。
もちろん、その「基準」を引き受けた上で、自己が置かれた「特殊性」を生きなければなりません。しかし、これ以上ないほどに根源的なレベルで示された、「物の見方、考え方」を参照することで、自己の特殊性に対する距離を取ることができ、それを再考、調節する視点を持つことができます。
〇一切の無駄なく「真の喜び」へと向かう論理展開
エチカの「論理」に無駄な寄り道はありません。その簡潔さ、いまの言葉で言えば、一切の無駄を排した「ミニマリズム」によって成立している言説の体系にある、清らかさと言ってもいい清潔感には魅かれるものがあります。
その抽象的でありかつ、極限まで切り詰められた論理には、一見確かに関心を持つものの理解を拒むような敷居の高さ難解さがありはしますが、それは、論証の簡素さと普遍性にゆるがせにしない態度から来ているものです。
なぜなら、スピノザの目指しているのは、「真の喜びのみ」であるからです。スピノザの目的はそこにしかありません。だから、その全体系や論証を深く理解できなくとも、出会いを求めてきた人物に「喜びある生」への感化を与えずにはいません。
『エチカ』を開けば、そのような刺激を受ける文章が沢山見つかります。
〇人間を動かす「感情」の分析と示される自由への道
『エチカ』は整然とした、「定義、公理、定理」が連続する理論に貫かれています。しかし、「エチカ」の「4、5部」では、意外なほど人間的な「感情との付き合い方」が証明によって明らかにされています。
そこでは外部からの刺激によって必然的に「感情に囚われてしまう人間」において、上手な感情との付き合い方こそが、「生き方の要」として位置づけられています。
「情念」とも言える強い感情がどうやって人間に生まれ、それに駆り立てられ、引きずられて行動してしまう人間のどうしようもなさから目を背けることなく、その「感情メカニズム」に真っ向からから迫っていきます。
そして、そこから自由になるための可能性を、その感情は発生する過程と、それそのものを認識する「理性」の働きに求め、認識によって感情を静め、より自己にとって理にかなった方向へと進んでいける可能性を提示しています。
〇理性の働きから「直観」「神への愛」へ至る道
そのように、感情を認識し静める「理性」の働きを重視しつつも、そこで終わらないのが、スピノザ思想のさらに徹底した奥深さです。
『エチカ』の最後の最後には、人間精神の働きの究極のモードとして「直観」が現れます。それは理性の一機能である思考の働きが止み、ただあるがままに、スピノザの言葉で、世界そのものである「神」の存在が受容される精神のモードです。
さらに、神は世界そのものであり、人間存在は全面的に世界そのものである神に依存している。その世界そのものを人間精神が深く直観することで、全てを存在させている神の存在が洞察され、そこに自己も抱き取られていることを認識し、揺らぐことのない神への愛が生じるとも言っています。
以上は私の要約であり、その領域に関して、私が表現できる範囲を超えていますが、このような「直観」「世界そのものである神への愛」と言ったものは、とても、アカデミックなものに収まらないものを含んでいること、そして、こういった「精神の自由」をこそ「倫理(生き方)」のもっとも重要な基準としてスピノザが論証していることは分かっていただけるかと思います。
以上が、私が感じている『エチカ』の魅力を簡単な紹介です。今回は、『エチカ』に限定しました。今回は取り上げませんが、「宗教」の存在に関して考えることの多かった私に大きなヒントをくれた、『神学・政治論』という著作も非常におススメです。
そして最後にお伝えしたいのが、「いまが最もスピノザを読むのに適した時期」だということです。というのも、昨年より岩波書店から海外の最新のスピノザ研究を取り入れた信頼のおける、新しいスピノザ全集から順次、刊行されているからです。
或る作家の全集を読むのは非常にいい事だ。研究でもしようというのでなければ、そんな事は全く無駄事だと思われ勝ちだが、決してそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早い而も確実な方法なのである。(小林秀雄「読書について」)
という言葉からも分かるよに、全集を読むことで「スピノザという人物」そのものに近づける機会が到来しているのです。
私もまだまだ3年ほどの付き合いですが、「スピノザ」の魅力は尽きることがありません。一生かけて深めていく果てしない道のりではありますが、逆にそれだけ追究するに値する人物に出会えたことは、最高の幸せと思っています。
いきなり『エチカ』にトライするのは、大変ですので、いくつかでている入門書の中で、今回の全集の責任編集されている上野氏の、『スピノザの世界』をお勧めしておきます。
この機会にお手に取ってスピノザに触れていただければ、これ以上の喜びはありません。
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