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信州支部便り 7月版

【コラム】 信州支部 前田 一樹  ※信州支部メルマガより転載

 信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp


▼07月07日配信 自分の経験に引き付けてフロムの「能動性」について考える

「登山ガイド」の資格を得るための、3日間の講習を受講してきました。


ここ数年、「山」の存在が自分にとって非常にかけがえのないものとなり、それを仕事にするといった野心ではなく、これまでの登山経験を踏まえて、自然な次のステップとして、「ガイド」の研修を受けました。


その研修内容の細かな内容はさておき、その後、頭に浮かんで離れれかったのは、フロムの


「能動性」


という概念でした。その内容について、


「能動的であるとういことは、自分の能力や才能を、そしてすべての人間にー程度はさまざまだがー与えられている豊富な人間的天賦を、表現することを意味する」(『生きるということ』、126頁)。


自分に天賦があるとは思っていませんが、生まれ育った「信州」にある山と出会い、それを人に紹介するということが、自分に与えられた、能力や才能を発揮する仕事(表現)になりえるものだと分かりました。


「登山ガイド」というと、山の全てを知り尽くした、プロフェッショナルでないと務まらないというイメージですが、「山と人との橋渡し」、という役割のなかに自分ができる可能性を見出せたように思っています。


今後も、資格取得はもちろん、引き続きその延長線上で、自分にできることを探りつつ行動していきたいと考えています。


これは私の一つの経験でしかありませんが、誰にとっても、生きるうえで、どの局面でも「能動性」という概念は非常に重要になるものですので、試行錯誤する人間の一例として受け取っていただければ幸いです。



▼07月16日配信 南アルプス南部を歩くー「無為の世界」に浸ることの意味

この3日間(7月13日、14日、15日)、「南アルプス南部」の山々を縦走(主だった山の頂を繋いで歩く登山)するため、山に入っていました。


主な山は、「光岳(てかりだけ、2591m)、茶臼岳(2604m)、上河内岳(かみこうちだけ、2803m、聖岳(ひじりだけ、3013m)」で、これからの山の頂を、山中に宿泊しながら3日間で繋いで歩いたわけです。


また、今回は「ツェルト」という、「1枚のシートを2本のポールの間に張っただけ」という非常に簡素なテントを使い、山小屋は利用せず原始的なスタイルにこだわりました。食料も3日分背負っての移動です。


その中で思いを巡らせたのは、


「人為を交えない環境(無為の世界)に身を浸すことの意味」


でした。


「山」は人間のスケールで考えると、悠久の時間そのままの姿でそこにあり続けます。また、奥深い「森」になると、ほぼ手つかずのままの生態を見せてくれます。


つまり、人間が手を加えなくても、そこにあり続ける「無為の世界」と言えます。


一方、私達が暮らす社会では、すべの物や制度は、全て人の手が加えられ、維持されている「人為の世界」です。


この「人為の世界」のことを、「脳化社会」(養老孟司)ともいい、その世界だけになじみ過ぎると、全てが「人為」によって成っている、コントロールできる、「ああすれば、こうなる」という思い込みが生まれます、それが「バカの壁」です。


ほぼ完全に「無為の世界」である山に入ることは、その思い込みを修正する効果があるように思いました。


そういった意味で、現在でも人の手が入っていない、「南アルプス南部」は特にお勧めです。


しかし、南アルプスと言わず、身近な自然に触れることで、そこにある一本の木、一輪の花からも、「無為の世界」が感じられるものだと思っています。


皆さまにとって、身近な「無為の世界」とは何でしょうか?



▼07月29日配信 大成功に終わった、浜崎先生特別講義「教育」における2つの道ーバイオフィリアとネクロフィリアーについて

先日、7月27日(土)に「第6回信州支部学習会」が開催されました。長野県内外から足をお運びいただいた、参加者の方々、誠にありがとうございました。


今回は、クライテリオン編集委員、文芸批評の浜崎洋介先生に、


「教育」における2つの道―バイオフィリアとネクロフィリア―


と題して、主にフロムの「精神分析」の概念を用ながら、個人と社会のどちらにも見られる、人間精神の根源的な傾向を確認し、そこから、教師はもちろん、家庭をはじめとした、様々な共同体の親・リーダー・指導者が、真に人間の自立と成長を促進する」ために知っておくべき、「教育の原理」について存分に語っていただきました。


全体は2部構成でした。


第1部では、フロムの「バイオフィリア(生命への愛)とネクロフィリア(死への愛)」という、人間が成長の過程において形成していく、両極端の「性格傾向の概念」が確認され、どうしたら、人間は暴力やあらゆる悲劇を生む「ネクロフィリア(死への愛)」への傾きから、「バイオフィリア(生命への愛)」へと開かれ近づいていくことができるか、その大筋のプロセスが浮き彫りになりました。


第2部は、フロムが「ネクロフィリアからバイオフィリアへの転換」について解説している、『悪について』の第6章を、丸ごと参加者と読み進めていくテキスト読解を行いました。


それは、三重の意味で「実践の場」となっていました。


①フロムが、両極端の人間精神の傾向を踏まえて、どうしたら真に人間に幸福をもたらす「バイオフィリア(生命への愛)」への傾向を増大できるのか実践的に語っているという意味で。


②浜崎先生にとって、学生と共にする「テキスト読解」は、文章の意味の読み取りを共有しつつも、それを通じて学生に「躍動する精神・生命」を伝達する実践の場となっているという意味で。


③今回の学習会に参加した方々にとって、浜崎先生のテキスト読解を通じて、「意味や概念を超えた生命のリズム」を感受する場になっていたという意味で。


最後に、前回の施光恒先生をお招きした際にも、対談の相手役を務めていただいた、「粕谷先生」に登壇いただき、導入となる質問をしつつ、参加者からの質問を上手に拾っていただき、参加者と浜崎先生の議論が成立する場を作っていただきました。


以上のように非常に意義深い学びの機会が持てましたこと、講義をいただいた浜崎先生、ご参加いただいた皆様、質疑応答の司会をしていただいた粕谷先生に感謝申し上げます。


今後も信州支部では、様々な切り口から、人々が自立して思考ができ、「バイオフィリア」への近づいていける学びの機会を提供していきたいと思っております。


関心を持っていただける、企画がありましたら是非足をお運びいただければ幸いです。



▼07月31日配信 黒部川源流にて「沢登り」を体験し、北アルプスの新しい魅力を発見してきました

少し前のことになりますが、「7月20日、21日」と1泊2日で、北アルプスの「黒部川源流」にて「沢登り(渓流を登りあがっていく登山の一つのジャンル)」をやってきました。


今回は、富山県側の「折立(おりたて)」という登山口から、北アルプスに入りました。これは丁度、長野県側の松本市からすると、北アルプスを挟んで反対側の登山口になります。今回はじめてこちら側の登山口から入山することとなりました。


1日目は、「折立」からなだらかな尾根道を、景色を見ながらじっくりと登り、中間地点の「太郎平小屋」に向かいました。この方面の山々の穏やかな山容が印象的でした。


そこで大休憩した後に、1日目の宿泊場所である「薬師沢小屋」まで、下りの登山道や木道を歩いて向かいました。3時間ほど歩くと、渓流のほとりに建つ山小屋に着きました。


チャックインをして部屋に荷物を降ろし、小屋の前のテラスで、ビールを飲むのは最高の一時でした。その後、落ち着いたあと、一人、源流の淵に腰を下ろしました。


そこで、深い感銘を受けたのは、「源流」の持つなんとも心の深いところに沁み込んでくるような静けさに包まれる経験でした。


人間の「原始的な記憶」に訴えるようなものが、渓流の原初にはあるよう気がしてならず、暗くなるまで、場所を変えつつ、一人渓流のほとりに座り、存分にその感覚に身を浸しました。


あくる日の早朝、小屋のほとりを流れている、「黒部川」に入りました。そこから、登り上げ、目的である「赤木沢」へと入り、いくつもの滝や、渓流の深く流れの速い箇所を乗り越え、渓流の全ての始まりである、「源頭」にまでたどり着きました。


そこには、小さな円形の「雪渓(夏でも雪がたまっている場所)」がありました。ここから日本海まで注ぐ、急流の黒部川の最初の一滴が始まるのだと感動を覚えました。


その後は、稜線上の登山道まで出て、赤木岳や北ノ俣岳だけを越えて、前日に通った太郎平小屋に寄り、最初の「折立」まで戻ってきました。


以上簡単ではりますが、今月行った「赤木沢」での沢登りの模様になります。今回、沢登りは初めだったのですが、山や岩を登っていくのとは違った、渓流の魅力を発見し体験できました。


私にとっては、まだ自分の知らない山の新しい魅力を発見していきたいと思わせてくれる山行となりました。


皆様におかれましても、登山に「沢登り」とういジャンルがあることを知っていただければ幸いです(どこで役に立つかは分かりませんが…)。

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