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信州支部便り 6月号

【コラム】 信州支部 前田 一樹  ※信州支部メルマガより転載

 信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp


▼06月01日配信 仕事と思想の関連づけー信州支部クライテリオン座談会より

先日(4月25日)、信州支部の「5月定例会」が行われました。今回の内容は「クライテリオン2024年5月号」の座談会でした。


現在、信州支部の定例会の基本内容は「クライテリオン最新号の座談会」となっています。


「座談会」と呼んでいる理由は、「勉強会」という名前ではいいかにも堅苦しく、クライテリオンの記事の内容について突き詰めていくというより、肩ひじを張らずに、記事の内容を出発点とし、本人の学び、発見、感想などを語っていく場にしたいとの考えからです。


やり方としては、参加者全員が「クライテリオン最新号」を持参し、順番に自身が最も注目した記事を一つ取り上げ、その記事について具体的にページや該当の文章を示しながら感想等を語っていきます。


それを受けて、他の参加者は、紹介者の感想について反応を返すか、その記事についての自分の考えを述べます。ある程度やり取りが収束したところで、次の発表者に移っていきます。


今回も参加者それぞれが最新号の中から自分が注目した記事について発表し、様々な意見が交わされましたが、その中から一つだけ私が最も影響も受けた部分をご紹介します。


それは、遠路はるばる「岐阜県」からご参加いただいた、中学校教師の「高江啓祐氏」の発表でした。


高江氏は、現役の中学校の国語教師として、日々で生徒の教育に当たりつつ、「クライテリオン」に教育問題について寄稿したり、教育特集では特集原稿も執筆されている方です。


普段は「岐阜同好会(林代表)」に参加されていますが、この度は旅行を兼ねて信州支部の5月定例会にご参加いただきました。


その高江氏が紹介されたのが、クライテリオン最新号の、160-161頁に掲載されている、


「教員志望者の減少の背景にあるもの」清水一雄(東京支部、59歳、教員)


でした。


私は恥ずかしながらこの記事に注目していなかったのですが、高江氏にこの記事の、学校の教師と生徒の「縦(タテ)の関係」―教える者と教えられる者という当たり前の前提―が崩壊したことで、教師としての「教える喜びの実感」が奪われているのはないか、という主張の妥当性をご紹介いただいたことで、この記事の真価に気づくことができました。


そしてそれは、私自身の教師経験においても少なからず実感してきた問題意識でもありました。


また、高江氏が、「クライテリオン」を読みながら、そこに書かれた「思想」を自身の職業に引き付けて捉える姿勢にもよい刺激を受けました。


なぜなら、私は「仕事は仕事。思想は思想」と分けて考えることが習慣になっていたからです。


「思想」と「仕事」を分けずに、自分が関心を持っている「思想の視点」を、もっと仕事と関連付けて捉え考えを巡らせていきたいとの思いを持ちました。


私の仕事は「知的障害児教育」です。


日々の仕事に追われ、こなしていくだけになっている自分がいましたが、「知的障害そのもの」や「知的障害児の教育」について、思想的な知見も取り入れながら、学び直していくという視野が開かれました。


岐阜からご参加いただいた、高江氏に感謝すると同時に、「クライテリオン」を一人で読んでいるだけでは、このような気づきや新しい発想を得ることができなかったことを考えると、このような読者同士の語り合いの場の意義について実感しました。


「表現者塾」の各支部では同様に、クライテリオンの座談会(もしくは勉強会)を行っております。もしお近くに支部ありましたら、一度参加してみることをお勧めいたします。


どこの支部でも歓迎いたします。以下に各支部の活動等が掲載されたページのURLを貼っておきます。



▼06月08日配信 当たり前と思われる言葉が使われている「現場」を地味に地道にじっくり見ること

本日(6月9日)、今年度はじめて「第6期 表現者塾」に参加してきました。


4月から、通称「陸の孤島」、長野県飯田市住まいとなり、以前住んでいた「木曽」よりもさらに、東京との距離が開いたことで、さすがに、頻繁に東京に通うのは困難になりました(年に3、4回は足を運びたいと思っていますが…)。


重ねて、当たり前のことではあるのですが、自分の足元「長野県」における、人や土地との関係性に根を張り、できること、やるべきことをやっていくのが自分の「務め」であり、そこにしっかりと「ウェイト」を置くという意味もあります。


とはいえ、久ぶりに塾に参加すると、直接名前の声を聴こうという向学心のある「クライテリオン読者」が、50人~60人ほど集まり、熱心に講義を聞く、その空気から刺激を受けることは多いにありました。


今回、6月の講義は、昨年度から表現者塾の講師を務めていらっしゃる、「哲学者 古田徹也先生(東京大学)」の講義でした。


テーマは昨年(2023年)に、出版された著書『謝罪論』をベースとした、


「謝罪の言葉を哲学する」


で、「すみません」という、我々にとってごくごく当たり前の言葉について考えてみるという内容でした。


そんな当たり前の言葉を巡る思索から、どんな発見がるだろうと疑問に思うかもしれませんが、私がポイントと受け止めたのは、


①「すみません」は、生活場面によって意味(使用方法)が異なるということ。その場に応じた「意味」について考てることは、ウィトゲンシュタインの「語の意味とは、その使用方法である」というテーゼの具体的考察の実践となっている。


②その考察通じて、「すみません」が、軽く「儀礼的」に使用される場面から、人の生き死に関わる重大な「謝罪」の場面まで、グラデーションを持って「場面」に応じて使い分けられていること。


「すみません」は大和言葉として、語源的(「澄む」「済む」「住む」など)、文献的(世阿弥の謡曲)にさかのぼれるほど、日本語史において語の使い分けがなされてきたといこと。


また、英語における「I’m Sorry」の用法について、責任を含む場合と、責任を含まない場合の意味の違いがあるということなど。


③そして、2部の浜崎先生とのトークでは、「すみません」の核にある、「すむ」は、「澄む」であり、日本人のコアにある「清浄であることを善しとする倫理観、価値観」と繋がっているのではないか。


といった点が印象に残りました(むろん、議論はこれにつきるものではありませんが)。


しかし、何より総合的に態度として感銘を付けたのは、古田先生の「当たり前のことを地味に地道に考える態度」でした。


「すみません」の意味を、当たり前の説明や一般的定義で済ませてしまうのではなく、具体的に実際の生活の場でどのように使われているのかじっくり見ていくこと。


そうした「粘り強く、誠実に思考する姿勢、営み」こそ、ウィトゲンシュタインの哲学の「要」であり、それを実直に実践されていらっしゃいました。


その態度に触れたことで、私にとっては仕事で関係を持っている「知的障害」について、当たり前としていことを問い返す、よく見つめることで、新しい側面が見えてくるのではないかと考えました。


たとえば、合理知性にこそ価値を置く、近代社会においては「知能」がもっとも尊ばれていることは間違いありません。その社会における、「知的障害」という言葉はどのような文脈に置かれているか。


また、そもそも「知能」とは何であるか、という間口の広い問いとの繋がりも考えられます。


そのような問いは「知的障害」を巡る、現状や認識について、自分なりに思想的な光を当てることでもあります。


問題は自分それを考え抜けるだけの、思考力と粘り強さがあるか、はなはだ心もとないところではありますが、地味に地道に実践していこうと思っています。


皆様にとっても、身近な当たり前となっている「言葉」について、じっくりそれ使用される現場を見ていくことが、新たな発見に繋がっているかもしれません。



▼06月15日配信 関係性を前提とした個人についてー登山を一例として

本日は午前3時に起き、支度をして自宅を出発。友人と合流して登山口まで移動。5時に登りはじめ、7時間ほどかけて、南アルプス南部にある「奥茶臼山(2474m)」に登ってきました。


まるで日本庭園のような、苔むした手つかずの原生林の景色を眺めながら登山道を歩いていると、どこからか「キューキュー」という鳴き声。


木々の間に目をこらすと、そこにいたのは生まれた手の小鹿。まったく人間におびえることなく、プルプルとおぼつかない足取りでこちらに近づいてきました。


その後、アップダウンを繰り返しながら、樹林帯を通り抜けていくと、「奥茶臼山」の山頂に到着。山頂から見渡すと、周囲には「3000m級の南アルプス名峰郡」がそびえていました。


「奥茶臼山」も山奥にある大きな山ではあるのですが、「南アルプス」の広大なスケールからすると、ほんの片隅の小さなピークに過ぎなかったのです。快晴の空の下、南アルプスの広大さを目の当たりにしました。


次は、それら「聖岳(ひじりだけ、3013m)、上河内岳(かみこうちだけ、2803m)、光岳(てかりだけ、2591m)」など、「南アルプス南部」を代表する山々の頂を目指したいと思っています。


さて、今回の「山行」は友人と一緒でした。以前のメルマガで、登山において「一人でもやることの意義」について書きましたが、同時に「関係性のなかで」という言葉も念頭に置いています。


登山は本にあたる「独学」もできますが、やはり、ベテランの経験者の同行してもらい実地に山に登りながら、知識・技術を教えてもらい、山の世界を知っていきます。


同時に自分も少し先を行く経験者として、登山を始めたい方と山行を共にして、自分が共有できる知識・技術をできるだけ伝えています。


山に登るという行為を共にしながら、ある時は知識・技術の学ぶ側であり、ある時は教える側にもなる。


そうした「関係性」のなかで、知識・技術を伝達し合いながら、お互いに「登山」の世界を深めて豊かにしていく。そんな、ループをじっくりと回していくものです。


また、一回一回の登山それ自体が、同行した友人との「思い出」「記憶」として共有できる財産ともなります。


ときに一人の「登山」も当然ありますが、そのベースには「関係性」があります。最近関心をもって読んでいる、心理学者アドラーの言葉に関連付けると、


「個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ個人となる」(岸見一郎『アドラー心理学入門』、44頁)


となります。この「関係性を前提とした個人」という考え方は、趣味、仕事、家族、教育、師弟関係などといったどの領域にも通じるものなのではないかと思っています。


自分はどちらかというと、登山に限らず、「個人」を主体に行動することが多かったために、一人で空回りする、きらいがあったのですが、「関係性」をベースに置くことで、そういった行き過ぎを抑制しやすくなると考えています。


これは取り立てて言うほどのこともない、「至極当然」のことでもありますが、ともすると、自明であるだけに、空気のように意識し難いものなのではないでしょか?


皆さんにとって必然性のある領域、営みに引き寄せて、そこにおける「関係性」について考えていただければ幸いです。



▼06月23日配信 子供の自立を阻む「愛」についてー人間の支配と服従の願望

愛する能力がない人は、相手を支配しようとする。支配するためには、相手が無力でなければならない。少なくとも、そう見なすことで、支配を正当化しようとする。


親が愛の名で子どもを支配するように。このような仕方で他者を支配しようとする人は、相手が自由になって自立し、自分の支配から脱しようとすれば全力で阻止しようとする。


岸見一郎『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』、講談社現代新書、103-104頁)


子供を愛しているはずの親が、なぜ子供を自立を阻むのだろう。子供が健康で健全に育っていくことを援助する難しさはどこにあるのか。


それは一人の人間が、家族や周囲の環境から刺激を受けながら育っていく過程が複雑であり、各人各様の資質を持った子供とって、よい働きかけや適切な環境を用意することの困難さにあると考えていました。


もちろんそれはあります。しかし、一つの視点として、


「知的にも身体的にも力をつけてやりたい、自立させたいと思いつつも、親の隠れた願望として、『圧倒的に親を頼るしかない子供』という存在を前にして、いつまでも自分自身が有力な存在であることを確かめ続けたい。そのために、子供が親に依存し続ける存在に留まっていてほしい。」


という欲望から逃れがたい、といった側面もあるのではないかとも考えていました。


最近、「フロムの思想」が気になり類書を読むなかで、『嫌われる勇気』(岸見2013)の著者である岸見氏がフロムを紹介した著書を見つけ、「愛」について解説した箇所にあった冒頭引用した言葉に行き当たり、そこに自分と近しい考えを見出しました。


フロムによると、「強い者に庇護されたい服従の願望(マゾヒズム)」と、「弱い者を取り込みたい支配の願望(サディズム)」が結託した関係は、相互に相手に依存した「共生的結びつき」であり、傾向により人間は根深いところに、そのような願望を持っていると言います。


それはもともと、養育する者とされる者という「親子関係」において、「親の支配したい願望(サディズム)」と「子供の支配されたい願望(マゾヒズム)」の結託という原初的な関係から来ており、親子関係が「支配と服従の関係」に固定化されるのはむしろ当然とも思われました。


であるならば、親が子供の自立を無意識に妨げてしまうのは、「愛していないかれではなく、未熟ではあっても愛するがゆえに」ということになります。


その関係を双方が自立した「愛の関係」に転換していための歩みは、人間には「支配と服従への願望」があることを理性的に認識することから始める他ありません。


フロムは以後の「愛」を学び実践していく長いプロセスについても『愛するということ』(鈴木訳2020)で詳しく書いていますが、ひとまず今回はここまでにさせていただきます。


引用した岸見氏の著書は、フロムの主だった著書を全て、自身で適宜訳して引用しており、フロムの思想の概要を知りたい方にお勧めできる良書です。関心をお持ちのかたにお読みいただければ幸いです。



▼06月30日配信 登山ガイドを目指して

突然ですが、今週末は「登山ガイド」を目指して「日本山岳ガイド協会」が提供するガイド講習を受講しています。


受講後のロープワークの復習や、明日の計画立案があるため、メルマガを書く時間がなくこの報告を今週のメルマガに代えさせていただきます。


自分にどこまでできるかまったく分かりませんが、やるだけのことはやる覚悟ではいます。


青臭いかもしれませんが、自分が本当に情熱を感じる分野で仕事をするのが生き甲斐なのだと思っています。


皆様の「ライフワーク」は充実していおりますでしょうか?

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