信州支部便り 6月版
- mapi10170907
- 2023年7月4日
- 読了時間: 13分
【コラム】 信州支部 前田 一樹 ※信州支部メルマガ配信より転載
信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp
▼6月7日配信 知的障害児教育と保守思想の繋がり
前回の日曜日(6月4日)にメルマガを配信する予定でしたが、急な予定が入ったのと、今回は自分の「本業」について書いたところ、意外と文章にまとめることが難しく、本日になってしまいました。誠に申し訳ありません。
仕事に関しては日々思うところがあり、まとめ難いとことに変わりませんが、すこし気楽な気持ちで、日々接している子供たちとの関わりから、学んだとこと気づいたことを今後のメルマガでお伝えできればと考えております。
一先ず短いですが、今回はその導入に至る文章をお送りいたします。
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今まで書いてこなかったのですが、今回は自分の本業の「仕事」について考えていることを少しお伝えしたと思います。
私(前田)は、「特別支援学校(以前は「養護学校」という名称)」という、障害も持つ子供が学ぶ学校に勤めています。
今年度で勤続「8年目」になります。2つの学校を経験しましたが、どちらも「知的障害」を持つ児童生徒のための学校でした。
つまり、本業であり専門は「知的障害児教育」ということになります。今後もその専門領域の延長線上で仕事をしていく予定でいます。
そして、その仕事においていつも気になっているのは、近代社会は高度な「知能」を持つことに価値を置く「知能優先社会」であり、その社会において知的な障害を持って生きていくということは「存在自体」に価値があるのかという根本的な不安をつねに抱えているということです。
もちろん、例えば「 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない(憲法14条)」という条文を持ち出して存在を肯定することはできます。
しかし、それも作られた1つの制度であり、近代社会が「知的能力偏重」の社会である以上、より踏み込んだ次元から、その子供の存在を「肯定する視点」を見出さなければ、その肯定は「建前」にとどまり、どこまでも知的障害者は「ケアしなければならない存在」としてしか理解されないと考えています。
つまり、「知的障害児教育」の根底には、
「知的能力の優秀さが価値とされる近代社会において、それが先天的に障害されている人間存在の価値の問い直し」
という人間観の転換に迫る課題があるわけです。
それは極めて「思想的課題」であり、その点(近代社会が当たり前とする価値観を問い直し)において【障害児教育】と【保守思想】は繋がっていると私は捉えています。
その「思想的課題」に答えるというのは荷が重すぎますので、私が子供たちと接し関わる中で学んできたこと、知性とは異なった次元でその「存在価値」を感じてきた部分について断片的ではありますが今後お伝えしていきたいと思います。
一先ず、今回は「障害児教育と保守思想」が繋がる所以について、ご理解いただければ幸いです。
▼6月11日配信 知的障害児の在り方に学ぶー人間の本来性と教育ー
今回は前回の続きとして、私が日々の仕事(知的障害児学校教師)における「知的障害児」との関わりから、直観的に感じてきた「知的障害児の存在を肯定する視点」について書いていきます。
まずそれは、
【人間が持っている「ありのまま」の性質を体現している存在】
であるということです。
たしかに、現在の複雑な近代社会において「知的障害」が大きなハンデキャップであることは間違いありません。
しかし、
・人を笑わせることが大好きで、可笑しな顔や物真似ばかりしている子供。
・水道から出る水流に手をあて、水しぶき見続けている子供。
・毎日、天真爛漫な笑顔で登校してくる子供。
・音楽が鳴ったら全力でダンスする子供。
・どんな車の写真を見ても全ての車種と型番まで言える子供。
といった、子どもたちの姿は、あくまで自分の「欲求」「関心」にまっすぐで、それを隠すことなく前面に出しており、人間存在の「ありのまま」の姿を表現しています。
これには内側から湧き出る「生命力」といったものを感じますし、ひいては「人間の原点」を示しているようにも見えます。
この特徴はそのまま、「素直さ」という心情に繋がっており、知的障害児たちは、この「素直に生きる」という天与の情そのままに生きざるを得ない存在であると言えます。
そのことを逆に考えてみると、人間が持つ「知能」というのは良い面だけではなく、「悪知恵」、「損得勘定」「優越願望」「見得」「嫉妬」などなど、どこか人間の性根を外側から捻じ曲げてしまう作用をもたらす場合があります(むろんそればかりではありませんが…)。
「逆転の発想」で捉えると、「知能優先主義」といえる近代社会のなかで、「ありのまま」や「素直さ」を保持している存在の仕方は一種の「美徳」であり、特殊な才能といえなくもありません。
そして、「知的障害児」が、「ありのまま」や「素直さ」と言った美徳を体現しつつ、周囲の人々の関係のなかで生存いくことができるのであれば、「知能」という後天的に獲得していくものより、前者の資質の方が人間にとって、より「本質的に重要」であることを告げてくれているとも考えられます。
しかし、それは、「知的障害者」がピュアな存在であり、その「ありのまま」の表出を全面的に肯定すればよい、ということにはなりません。
その子供が共同体の一員として生きていくに当たり、周囲の人々との折り合いのつけ方を学ばなければ、「我がまま」な振る舞いだけを繰り返し、不適応を起こすことになります。
そこで、やはり後天的に「知能」を可能な限り養い、場面に応じた適切な振る舞いを学ぶことを通じて、「ありのまま」な生き方とバランスさせていく必要があります。
それが、子供が持っている本来の性質をサポートする「知的障害児教育」の役割ということになります。
知的障害のため知的な面から、子供の本来の性質にないものを押し付けることできないため、「知的障害児教育」は、「ありのまま」や「素直さ」という子供本来の在り方をベースに置きつつ、それに上乗せさせる形で、「知能」を引き出す教育を進めていくというアプローチをとならざるを得ません。
考えてみるに、その「教育スタイル」は健常児の教育にも通じるものです。「知能」の開発・発展をベースにおいた教育を行っていくと、「知能」の肥大化によって、合理的な視点にのみ思考が固定され、融通の効かず、柔軟性の無い性根がねじ曲がった人間になることがあります。
先の「知的障害児教育」の「あるがまま」や「素直さ」ベースの教育は、知的障害児だけでなく、健常児でも健全なアプローチだと言えるのではないでしょうか。
以上のように、知的障害児の存在を、本来的な次元から肯定的に捉えることで、「人間の健全な在り方」や、またそれに根差した「教育モデル」についても考えを新たにすることができるのです。
このような気づきは数年間、この仕事に携わるなかで少しずつ形成されてきたものですが、現在の学校教育システムのなかでは、上記の考え方や気づきを日々の教育実践のなかに十分に生かせないことに歯がゆさを感じることが多々あります(細述はしませんが…)。
ただこの仕事より他に「本業」として自分を生かしていく道はないと思い定めてはいますので、なんとかこの閉塞感を打開し、関わる子供にとってよりよい教育実践を提供できるように今後、探求を継続していきたいと思っております。
この度は私の本業である「知的障害児」に関するお話でした。普段関わることがない、知的障害児について少しでも知っていただき、また、内容からもそれぞにお考えいただけることがありましたら幸いです。
▼6月21日配信 素直な一歩を踏み出すことの価値ー浜崎先生に信州支部メルマガを取り上げていただいてー
この度、今年の元旦から記事の配信を続けてきました、「表現者塾信州支部メールマガジン(信州支部メルマガ)」を、クライテリオン編集委員の浜崎洋介先生がご自身ブログにて取り上げて下さいました。
https://daily-ekoda.hatenablog.com/entry/2023/06/14/095817
浜崎先生には、2021年に実施した「信州松本シンポジウム」と、これまで開催してきた「信州学習会(第1回上田、第2回長野、第3回塩尻、第4回須坂)」を合わせると、合計5回を長野県に足を運んでいただき、信州の地でクライテリオンが訴える「保守思想」に関心を持つ方々に直接語りかけていただいました。
その関係から、「信州支部メルマガ」にも登録させていただき、毎週のメールも送らせていただいていたのですが、今回のような過分なお言葉をいただき非常に感謝しております。
というのも、浜崎先生の記事に、
「そう簡単に仲間も見つからないだろう長野の山奥(木曽)で一人手探りしながら思考している姿」
と書かれているように、表現者塾に参加する前は、仲間はおらず「まったくの孤独」で、『表現者』(『クライテリオン』の前身)を読み、西部先生が司会をつとめていた「西部ゼミナール」を視聴し、雑誌執筆者の先生方の著書を読み続けていましたが、それらの感想を誰とも語り合えない時期が【8年間】ありました。
いま振り返ってみると「孤独」ではありましたが、こんなにも世界を新しい目で見て、考えることができる「保守思想」の魅力に学ぶ楽しさをただただ実感していました。
しかし、その感動や学びを誰ともそれを語り合うことが出来ないのは確かに「辛く」、少しでも思想的な部分で共有できる機会を作るために、松本のカフェを借りて「読書会」を細々と開催していました。
『「まず、素直に踏み出してみる。すると何かが動き出す」、それをこの5年間で実感した人間のメルマガです。』
と書かれていることも、まさにその通りで、その孤独状態を打開するべく、クライテリオン体制になって2019年から開かれた、「表現者塾」に参加したことが切掛けとなり、「信州松本シンポジウム」を実現させ、信州支部を立ち上げ活動を継続してくることで、信州の地にいる仲間に会い繋がりを持つことができ、そこから協力して学習会企画を実施するといった活動ができるようになりました。
いままでたった一人で孤独に「読書」を続けてきた無名の人間が、「表現者塾」を通じて先生方とのご縁をいただき、雑誌と連携して地方にて支部を立ち上げ、活動を継続できているというのは、本当に奇跡としか言いようがないと思っています。
その「信州支部」の活動を少しでも認知してもらい、盛り上げることができないかと「自分にできることをやろう」と、身の丈に応じつつも「お読みいただくに値する文章」をお届けすることを心がけながら、素直に一歩を踏み出しメルマガを続けてきました。
その結果として、信州支部の活動と私の考えを知っていただくとともに、幾人の方からはご感想も頂戴しています。
さらに、浜崎先生から、ブログを通じて応援のメッセージまでいただけたことは、例えていえば、「草野球の選手が、イチロー(またはいまだったら、大谷でしょうか)から励ましの言葉をもらった」ようもので、心強く大いに励まされる思いがしています。これからも信州の山の中でたゆまず思考錯誤を続けていきます。
ただしいまは一人ではなく頼れる仲間がいます。それぞれが仕事や生活で忙しくしている身ではありますが、同じ長野県に住む仲間と連携しつながら活動を盛り上げて行く所存です。今後ともそんな「信州支部」を何卒よろしくお願いいたします。
▼6月25日配信 交通政策の必要性と困難ー早稲田大学教授 佐々木邦明先生講義に学ぶー
先週6月17日(土)に行われた「信州支部定例会」にて、早稲田大学教授の佐々木邦明先生の「交通政策」をテーマとした講義が行われました。
今回はその模様をお伝えいたします(とても内容を網羅することはできませんので、私が把握した範囲での要約になります)。
「佐々木邦明先生」は長野県須坂市のご出身で、クライテリオン編集長の藤井先生の1年先輩で同じ京都大学の「土木工学科」を卒業されています(その時の名残で、たまに「藤井」と呼びかけると周囲の人に驚かれることがあるそうです)。その後、山梨大学教授となり、現在は早稲田大学教授としてご勤務されています。
http://sasakik-lab-waseda.com/member/profile/
佐々木先生には、2021年の「信州松本シンポ」、今年4月に企画した「第4回信州学習会」にご参加いただき、それがご縁でこの度、「信州支部定例会」にお招きし講義をしていただく運びとなりました。
普段、長野県内のクライテリオン読者が集まり、最新号の読み合わせなどを行っている小規模の「定例会」に、早稲田大学教授である佐々木先生にお越しいただき、専門である「交通政策」についてお話がお聞きできたことは、信州支部にとって画期的な一歩となりました。
さて、講義の内容ですが、今回のタイトルは、
【交通政策の地域における必要性と政策はなぜうまくいかないのか?】
でした。以下、セクションごとに箇条書きで、私が読み取ったポイントをご紹介していきます。
===以下、講義内容===
1、交通政策の必要性
・「公共交通」は「公共財」であり、自分が支出しなくても、誰からが支出した分で「ただ乗り」できてしまう性質がある【非排除性】。よって、支出してよい額より低い額しか支払う意思が働かないため、「市場メカニズム」に任せてしまっては、必要な整備が進まない。
・逆に、「私的交通(車利用)」では、「排ガスや騒音などの環境問題、交通困難者の発生、予防医療サービスの低下による医療費の増大」など、思わぬところにマイナスの影響が出る可能性がある(負の外部性)。しかし、この「負の外部性」が市場では意識されないため、発生するマイナスの影響以上の需要が生まれてしまう。
・このような、【市場の失敗】を防ぐために、「交通政策」によって市場への介入が必要となる(規制などにより強制的に消費や供給を変更する。税金などによって消費や共有を変更する。外部性を取引する市場を作るなど)。
2、山梨県(地方の一例として)の公共交通の現状認識
・「公共交通」の利用者は減少してきた。自動車交通においては道路渋滞が起きている。公共交通の存続は難しい一方、道路は共有不足という現状。
・その現象には、「地域の構造が変化」が関わっている。自動車利用を前提として「住む・働く・買う」場所が薄く広がったことで、移動自体は増加しているが、バスや鉄道などの路線と移動の出発地、目的地が一致しなくなった。
・しかし、公共交通には「福祉的や役割(医療サービスへのアクセス保障、社会生活へ平等な参加保障)」もあるため、「私的交通手段(車)」を持たない人にも提供する必要がある。
・また、公共交通は、地域の活性化【賑わいのある街づくり】にも影響を与えている。私的交通手段(車)の利用が全面化すると、人々はバラバラに移動するため、街から賑わいがなくなってしまう。
・さらに、「公共交通」は観光客の足としても重要。周遊行動が広がると観光の満足度が上がる。逆に、観光地での渋滞は満足度を下げる。渋滞が緩和されれば観光地での滞在時間が延長され、支出額も上がるという経済効果もある。
3、解決のために、公共交通の利用者の増加にむけて
・「自動車利用」の増加によって、現状のままでは「公共交通」はどうあっても衰退する運命にある(①利便性低下、②公共交通が生かされない都市構造、③校外型商業の発展など)。
・よって、交通政策は市場に任せる「需要追従型」ではなく、需要そのものを調整する「需要マネジメント型」で計画を立てることが「鍵」となる。
・しかし、そもそも「交通」とは、「今いる場所とは違う場所で、何かをしたいために移動する」ものであり(派生需要)。それ自体が目的ではないため予測・調整することの困難がある。
4、解決のための方法
・「公共交通の利用を増やす=行動を変える」ために、心理的方策を一連の手続きとして体系化した、「モビリティマネジメント」という手法がある。個人の行動をフィードバックし、無意識的に行ってきた行動を振り返ることで、行動変化の可能性が生まれる、など。
・また、環境に働きかける行動変化もある(公共交通の情報を流通させる。行先を分かりやすく表示。駅のデザインをオシャレにする、など)。
・相乗効果を持つ他の主体や活動(買い物、医療、通勤など)、環境政策との連携も考えられる。
5、長期的な戦略
・「公共交通」と「自動車(私的交通)」の特性を見極めた交通利用を促す。
・福祉サービスなどの「公共サービス」を公平に提供するためには、「交通」を連携させる必要がある。地域の将来をどう描き、その中で交通をどう位置づけるかが問われる。社会保障を含む「都市計画」を推進する。
・公共交通の利用促進のためには、需要をまとめること。つまり、「時間・空間が異なる行動を同一の時空間に変化させること」が課題となる。そのために、必要な需要を見極めて、的確なターゲットに、適切な戦略を用いて働きかけていく。
===講義内容、以上===
私が要約した講義のポイントは以上になります。これで佐々木先生の講義の内容が尽きるわけではなりませんが、幾分なりとも講義の内容を汲み取っていただければ幸いです。
その後、佐々木先生からは、引き続き「信州支部」の活動にご協力いただける旨のお言葉をいただきましたので、さらに先生をお招きし講義から学ぶとともに、その情報や考え方を長野県内に広げていく機会を連携して作っていきたいと考えています。
今後も「信州支部」は、
①定例会(偶数月第3土曜日に行う、県内の「クライテリオン読者」の勉強会)
②学習会(不定期で行う「クライテリオン執筆者」の講師を招いた講演会)
③情報発信(いまのところ「信州支部メルマガ」のみ。今後、拡充予定)
の【3本柱】を回しつつ充実させていきますので、活動へのご参加ご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。
先月某食品関係の会社に転職しました。その会社では自社製品の製造を社会福祉法人の運営する就労継続支援B型施設(知的障害者メイン)に委託しております。単純に工賃が安いから(コスト削減のために)そこに委託しているわけではなく、継続した仕事、生産性の高い仕事(単価の高い仕事)を依頼することで健常者に近い労働力として扱い、彼らの所得を上げることを意図しているとのことでした。
この施設を利用している利用者の親が言った言葉で印象的だったのは『まさかうちの子がこんなに稼いでくることができるなんて思わなかった』だそうです。
私はこの話を聞いたときに頭を殴られた感じでした。”知的能力の優秀さが価値とされる近代社会において、それが先天的に障害されている人間”は果たして養護されるだけの存在かと。
採用された私のミッションのひとつとして、施設利用者だけでなく職員も含めていかに負担少なく生産の質や量を維持するかを考えるというのがあります。ちょうど前田さんのような観点で考え方を再構築しているところでした。いわゆる健常者においてもその能力は様々であり、それらを上手く適材適所で使おうとして試行錯誤するのは健常者だろうが障害者だろうがおなじだなと考えを改めました。ある意味手加減せずに仕事せよ、と。
初めてこのような施設の方々と関わることになったので話を聞いてみると、同じB型といっても、運営法人によって、その運営方針が大きく変わるというのが興味深かったです。所得向上を掲げて自立した生活を目指すタイプ、労働というよりは作業を通じて人と関わることに重きを置くタイプなど、様々あるそうです。世の中まだまだ知らないことがありますね笑
あと木村敏の『時間と自己』をもう一度読みたくなりました。
機会がありましたら仕事の話をまた聞かせてください!
市井のキムラ