信州支部便り 4月版
- mapi10170907
- 2023年4月30日
- 読了時間: 25分
【コラム】 信州支部 前田 一樹 ※信州支部メルマガ配信より転載
信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp
▼4月2日配信 地方自治は民主主義の学校―青木崇候補の総決起集会に参加して考えたこと―
保守思想の文脈でたびたび参照される、19世紀のフランスの政治思想家、法律家、政治家であった「アレクシ・ド・トクヴィル」に、【地方自治は民主主義の学校である】という言葉があります。
先月、3月24日(金)、元松本市議で今回の統一地方選挙に、自民党の公認受けて長野県議立候補している「青木崇(あおき たかし)候補」から、総決起集会へのお誘いがあったため参加してきました。今回はその「地方自治」における熾烈な戦いの場である選挙戦の現場に出向き、まさに「学校」の授業に参加したかのように、そこから感じ学んだことを共有したいと思います。
総決起集会は応援演説からはじまり、まずは「臥雲松本市長」のスピーチがありました。青木候補が若くこれからの成長が期待できる若手政治家であり、これからの新しい挑戦が求められる社会において高い「将来性」があることが語られました。
この度、県議を引退し、青木候補に後任を託されている「本郷和彦県議」からは、東京一極集中の問題を解消し、長野県が発展するためには、長野県が抱える「1兆4500億円」の財政の「約6割」を財務省が握っているという実態のなか、それをより多く引き出し有効に活用できる政治家を輩出することが重要であり、それができるのが青木候補である、との推薦の言葉がありました。
長野県看護連盟「三輪百合子会長」からは、いままで東郷県議と連携しながら、看護師の働きやすい環境づくり、非正規からの転換などを進めてきた、これからも青木候補にはそのために力を尽くしてほしいとの激励の言葉がありました。
衆議院議員「務台俊介議員」からは、現在、日本の国際的ポジションは安定しているが、今後もアメリカとの連携することで、強国化する中国に対峙していねばならない、岸田総理も昨今ウクライナを訪問することで、そのように努めているという現状認識を語り、今後の難しい政治状況に対応できる政治家は、「選ぶだけのものではなく、有権者が育てるものである」ことが重要であると話され、青木候補にしても「若いからダメだ」ではなく、育てる意識をもって叱咤激励していくことで、時間をかけて頼りになる政治家として成長していくものだという言葉ありました。
そして、最後に青木候補から、「松本平」の発展ために全力を尽くすという決意が語られ、奥様からも支援を求める言葉がありました。
以上が、私が理解した範囲での現場の模様です。
そして、その現場に参加してまず感じたのは、政治が持つ「人を巻き込む運動」としての激しいエネルギーでした。日頃、もの静かな「言論」というものになじんでいる私からすると、非常に泥臭い生(なま)のエネルギーが渦巻く世界を垣間見た思いがしました。
それは、「悪い意味」ではなく、政治の「力と数のパワーゲーム」としての側面として、それこそが政治というものの偽らざる姿なのであり、当然、数多くの人間や集団の利害得失がぶつかり合う政治の現場では、単に「客観的に正しいか間違っているか」という倫理的、知的な判断だけでは回っていかない部分が多分にあるということです。
そうしたことは、当たり前のことかもしれませんが、私にとってはこのような現場に行ってみなければ、なかなか感じられない実感ではありした。そしてまた、ベテランの議員の演説には、多くの人々を引き付け、聞いている者を思わず納得させ誘導する、落ち着いた「すごみ」のような語り口がありました。
しかし、その反面、「長野県の現状の課題点」、「日本と長野県の情勢分析」、「具体的な今後の方針」など理性的な「政策論」が語られる割合が、全体の演説を通じて少なかったという印象を持ちました。
もちろん、「すでにパンプレットに書いてあるから、あえて繰り返さない」ということであったと思いますが、それでも、やはり「一番の目玉となる政策」を演説で訴え、指示を獲得する、応援を得るというのが主であるとすると、演説の場面で最重要の1点だけでも、強調されていてもよかったはずです。
そこで、私なりに「現状分析」や「政策論」が少なかった原因を考えるに、日本人の平均的な感性は、理屈ではなく、情緒的な側面に動かされる行動すると特性があるため、知的な議論を尽くしても「有権者が動かないからではないか」と考えました。
分かりやすいところで、その日本人の特性が直近で激しくでたのが、「コロナ問題」であり、いくら、コロナの毒性について冷静に分析している専門家が「弱毒」であると訴えても、一度生じた「恐怖心」が優先され、自粛状況がダラダラと継続されてきました。自国通貨建てでは政府は破綻しないといくら専門家が説いても、「借金が怖い」から緊縮財政に賛成し、積極財政に反対するというのも同様の心理で、自ら閉塞状況を招き続けています。
そこから推測するに、選挙戦においても、「この人は頑張っているから、将来性があるから、現職議員が推薦しているから、演説の語り口がよい」といった、情緒的な部分に訴え、巻き込んでいくことが前面に出ざるをいないと言えます。
日本人が情緒的で感情に訴えられて動くものだということは、染みついた民族の特性として仕方がない部分ではありますが、やはり、国内外の困難な政治課題を解決していくためには、理性的かつ客観的に考え対処しなければ長期的に有効な解決を図ることがことはできません。
そうした状況を幾分でも改善するためには、
【人を巻き込む「運動としての政治の側面」と、理性的に議論を展開する「言論としての政治の側面」のバランス】
が重要だと考えました。どちらか一方だけでは不十分で両輪のようなイメージです。
情緒的な判断に流れがちな日本においては、国民・有権者が、より「言論としての政治の側面」にも関心を持ち、見識を高めることで、そのようなバランス感覚を持った政治家を選択することができ、政治家の側も政策的な議論を積極的に国民・有権者に訴え支持を得ることができるようになると言えます。
それは簡単なことではありませんが、「千里の道も一歩から」。「信州支部」として「言論としての政治の側面」を軸足に、この「政治における運動と言論のバランス」を、幾分なりとも生み出すことに貢献していきたいと考えています。
そうした意味で、総決起集会に参加し「力強い政治の現場」を体験したことで、「運動としての政治」のカウンターパートである「言論としての政治」にも同じ熱量で取り組まなければ、バランスをとることはできないのだと感じ、大いに刺激されるところがありました。
今回の統一地方選挙期間中も、「運動としての政治」の動向を注視し、どの党や候補者を推すかについて考えると同時に、この機会に長野県の「地方自治の現状と課題」について調べる機会にしたいと思っています。
同様に、今回の統一地方選挙を切掛けに、皆さまのお住まいの地域においても、「言論として政治」の視点から、地方自治の現状と課題についてお考えいただければ幸いです。
▼4月9日配信 タバコをやめた話
小林秀雄に「タバコをやめた話」という味わい深い講演があります。YouTubeに転がっていましたので聞いてみてください。
講演のなかに、健康を害した小林が医者に禁煙をすすめられ、それならばとタバコを置いて病院を出ていったときに、後から追いかけてきた医者が小林に置いていったタバコを手渡しながら、
「いつでもタバコが吸える状態にしたうえでなければ、禁煙はできないぞ」
と言葉をかけると、小林はその一言で「悟る」ものがあり、その後、1本目もタバコを吸わなくなったという件があります。
最初に聞いたときは、「持っていたタバコを手放すからこそ禁煙ができるのでは?」と考え、その意味するところが分からなかったのですが、近ごろ分かってきました。というのも、私も最近、「タバコをやめた」からです。
私自身30代からはじめた、「社会復帰」するための勉強(大学卒業、教育免許取得、教員採用試験)があまりに辛すぎたためにタバコを吸うようになり、試験に合格した後も習慣的にタバコ吸い続けていました。
しかも、小林と同じで吸う度に腹が痛くなっていましたので、心のどこかで止めないといかなと思っていました。
しかし、最近すっぱりと止めてしまいました。それは、もちろん、「辛かった勉強がひと段落したから」ではあるのですが、それより根本的な「態度の変容」と関係していという実感があります。
それを、平たく言ってしまえば、
【「頭」(思考)から「心」(感覚)に重心を移す】
ということです。
ああしようこうしよう、あれもやらねばと逐一考えて、頭でっかちで生きるのを止めて、身体感覚、内的な「感覚」に依拠して、仕事、人付き合い、趣味、などなど毎日の行動のひとつひとつを選択するというシンプルなものです。
そして、その心=内的感覚による判断基準は「喜び」と「悲しみ」です。
「スピノザは『エチカ』で根本的な人間感情は突き詰めていくとこの2つしかなく、人間は物事と出会い「自己がより大きな存在」になるときに「喜び」を感じ、「自己がより小さい存在」になるときに、「悲しみ」を感じるのだ」
と言っています。ほかにも、文芸批評家の浜崎洋介は、
「人間は、1階が「心=無意識=感情」であり、2階が「頭=意識=理性」からなる、2階建ての家に例えられる。そして、近代人は2階に立てこもっていて1階と2階をつなぐ梯子がない。だから不安であり分裂症になっている。1階から「梯子」をかけて、2階とつなぐことで、両方が機能し自信を持って円満に生きることができる」
と言っていたり、明治に生まれた日本発の精神療法である「森田療法」では、
「神経症を直すために根本的に大切なことは、「あるがまま」の自分の感情を受け入れることである」
としています。
それられから学ぶことによって、先ほどの「頭から心へ」という根本的な態度の変容を経験することになりました。その結果、「円満」とまではいきませんが、ストレスがなくなり、「喜び」を感じる瞬間が増え、ストレスがなくなりタバコを必要としなくなったという訳です。
ここまでの話を、先の小林の禁煙の体験に照らして考えてみると、
①タバコを置いていくことで禁煙しようとするのは、タバコはよくないと「頭」で決めて、自分の行動を操作しようとしているのであり、これには「心=内的感覚」が伴っていない。
②タバコを吸うことによる腹痛を「悲しみ」として引き受けたときにこそ、常にタバコを持っていても吸うことがない、タバコを欲しない「心=内的感覚」が生まれる。
という解釈ができます。
小林の「悟り」が、私の解釈と一致しているかどうか定かではありませんが、以前分からなかったときよりも、小林がこの話で伝えようとしていることに近づけていると思っています。
この「頭から心へという話」は、とても「ミクロな話」ですが、そのような人間がより集まって構成される、「家族、職場、地域、国家」というサイズの違った共同体においても適応できると考えれば、意外に「マクロな広がりを持った考え」であると言えます。
共同体がこの変容を取り入れることで、その共同体全体が「喜び」に満ちたものに変わることは間違いないからです。
「タバコをやめた話」からだいぶ広がりましたが、この内容は禁煙以外の様々なことと根本的に通じることだと思いますので、なにがしか皆様の「考えるヒント」になれば幸いです。
▼4月16日配信 生命の樹を旺盛に成長させるものー「音楽」の存在を巡ってー
先日(4月15日)、松本市の岡田にある、「ヤマト牧場」で開かれた「ソマイチ&ヤマトの日」というイベントの一環で行われた、ライブコンサートに2人組ユニット「マツキチ」のボーカル&ギターとして出演してきました。
というのも、たまに一人で飲み行く松本の焼鳥屋「松吉(しょうきち)」で隣あった、以前アカペラグループでライブ活動をしていた女性と意気投合し、その足で音響がよいと評判のスナック「ブルドック」に行き、2人で数曲歌っていたところ、そこにいた男性のお客様が上記イベントのライブステージ担当者で、是非出演しないかと声をかけていただいたからでした。
「そんなことってあるか!」って展開ではありますが、実際その日から1ヵ月の間に、その女性と2人で自分たちがやれる曲を相談し、お互いの仕事の合間を縫って数回カラオケに楽器を持ち込んで練習をおこない、無事本番を迎えることができました。
ライブ会場は「牧場広場」の予定でしたが、当日は雨だったため、近くの牛舎を改装した広々とした倉庫で、シンプルかつ広々とした開放感のある気持ちのよい会場でした。
マツキチとしては、
【①コブクロ:桜、②HY:AM11:00、③ZARD:DAN DAN 心魅かれてく】
の3曲を演奏しました。
会場に着くと慌ただしくリハもないままに演奏をすることとなり、音響面などで多少のやりづらさはあったものの、なんとか練習通り3曲を通して演奏できました。
演奏が終わって何人かの方に、「よかったよ」と声をかけていただき、安堵感と音楽を通じて生まれる自然な人との繋がりを実感しました。また、他のライブ出演者との交流もでき、今後の音楽活動の展開に繋がる出会いにも恵まれました。
今回の出来事を通じて、改めて自分にとって「音楽」という領域について振り返ることになりました。誠に個人的な「音楽史」で大変恐縮なのですが、人生一般における「趣味」の位置づけの一例としてご参考になればと考えご紹介させていただきます(最後は保守思想に繋がりますのでご安心ください)。
自分が最初に音楽に痺れたのは、90年代後半、「中学校」の友人の家で聞いた、「Hi-STANDARD(ハイスタ)」の曲でした(最近ドラムの方が急逝され話題になりました)。そのリズム、疾走感、グルーブに奮い立つような刺激を受けて、「よっしゃ!!ギターをやるぞー!!」と手に取ったものの、まったく歯が立たず数日であえなく挫折。
その後、高校に入学した2000年頃は、「ハイスタ」からの流れで「インディーズバンド」全盛期。その代表格が「モンゴル800(モンパチ)」でした。このモンパチの2ndアルバム「Massage」はもう頭がおかしいくなるほど聞きまくっており、そらで歌える曲が何曲もあります(現在30代後半の同世代には多いはずです)。
他にも流行に任せて、「ケツメイシ、ゆず、KICK THE CAN CREW、コブクロ、175R、リップスライム」などゼロ年代王道Jポップを聞きき漁っていました。洋楽のレッチリ(Red Hot Chili Peppers)にも少しいきかけましたが、ついぞ洋楽にはハマりませんでした…
なかでも、「ゆず」の影響で再度ギターを手にすることとなり、手が痛いのに耐えながらなんとか「Fの壁」(人差し指で6本の弦を押さえるのが難しいため)を乗り越え、たどたどしくも「ゆず」の曲を演奏できるようになりました。
しかし、その後、高校3年生の時に、文化祭に音響機材を設置してきたPAのお兄さんから、ジャズのテープをもらって聞き、そのクールさに衝撃を受け、「流行Jポップ」を打ち捨てて、ひたすらモダンジャズの道にズブズブと入っていき、ジャズの名盤を聞きまくりました。後で分かったのですが、この時もらったテープは、「バイバイブラックバード」というマイルスの名曲が入ったアルバムでした。
その影響で大学に入学してからは、「サックス」に挑戦したくなり吹奏楽に入部。ドレミファや4分音符から、手取り足取り音楽の基礎を教えてもらい、千葉県の大学団体部門のコンクールや、サックス4重奏でアンサンブルコンクールにも出させていただきました。
その後、大学を中退し、東京でのフリーター生活の中断を経て、松本に戻ってきてから改めてギターを手にするようになると、吹奏楽で培った音楽の基礎のお蔭で、やってみようと思った弾き語り曲を弾き通すことができるようになっていました。
そこからギターはいつも自分の傍らにあり、ギター単独で奏でる「ソロギター曲」もコツコツ練習するようになりました。といっても、一人で弾いているだけで積極的にライブをやるわけでもなく、2018年頃、当時仲良くしていた友人のライブに数回参加させてもらう機会があったぐらいでした。
そこから早5年が経った、2023年ふとした出会いから「音楽活動」を始めることができるようになったのも、振り返って音楽がいつも自分の人生の一部に息づき、支えてくれたからであり感慨深いものがありました。
その話を最後に「保守思想」に接続すると、以前、表現者塾で藤井聡先生が保守思想について講演されていた、
「保守思想の要諦は、自分のなかの『コグニティブツリー』を旺盛に育てることなんです」
という説明に繋がります。
藤井先生によると、「コグニティブツリー」は認知心理学の概念で、太い幹から枝葉が生えている「樹木」のイメージと同様に、人間心理の構造を、人生上の様々な経験が、人格という「幹」で連結しながらも、人生の各領域において枝葉のように生い茂っている形態を用いて説明するとうい概念とのことでした。
そして、「枝葉」にあたる各領域を旺盛に茂らせることで、それぞれが人格という「幹」を通じて、それぞれが関連し合い、全体としてさらに大きな「大木」へと成長していくことが、認知的自己存在を、「保ち守る」ことに繋がり、また次世代にその「果実」を渡していくことができるのだという内容でした。
私にとってはその枝葉の一つが「音楽」であり、ところどころに断絶が合ったり、中途半端に枝が伸びたりしながらも、「大きな樹」の一部として、他の各分野に影響を与えながら、自己存在を大きく成長させてきた領域なのだと理解できるわけです。
さて、今回は地方統一選挙のさなか、こんな私的でミクロな話を書いてきてしまいましたが、もっとも基礎的なレベルでは、どんな大政治家がでてこようとも、「一身独立して一国独立す(福沢諭吉)」の通り、一人ひとりの人間が各自のペースで人格を旺盛に発展させて生きていなければ、地域も国もよい方向には向かわないのではないかと考えます。
この記事が皆様それぞれに、自分の中にある「大きな樹」を育てていただく一助となれば幸いです。
▼4月23日配信 インバウンド推進とコロナ自粛並立の矛盾―思想を持たない日本人に寄せて―
「買い叩かれる日本」という言葉が、住んでいる「木曽」やふるさと「松本」の街を歩いていると、どうしても頭から離れることがありません。
なぜなら、4月の観光シーズンを迎えたタイミングで、至る所に外国人観光客を見かけるようになり、しかも、明かに団体のパック旅行が多く、列を作って周りを見回しがら足早に歩く姿から、
「安くてお買い得の割によいサービスもついているから、興味本位でちょっと来てみました」
といった印象をどうしようもなく受けてしまうからです。
もしも、1人ないし少人数の旅行者の方がゆっくりとした足どりで、街々などを巡っていれば、
「観光地を巡りながら、日本の文化や自然の魅力を感じ体験しているんだな。またそれに見合ったサービスに対価を払ってくれているのも、それはそれでよいことだ」
と思うこともあるはずなのですが、とてもそんな気持ちは湧いてきません。
しかも、それと同時に、なんと私が住んでいる「木曽郡」では、コロナ感染者が増えてきたといって地域の「感染対応レベル3」となり、またぞろ自粛しなければならないということで職場や学校を閉鎖しているのです。
5月8日より感染症法上、季節性インフルエンザと同レベルである「5類」に引き下げられるのを、目前にしているのに一体なにをやっているんだ!という怒りと虚しさを感じつつ、なにより不可解なのは、
【世界的規模の人的交流推進である「インバウンド政策」が旺盛に進められているなか、地域規模の人的交流抑制でしかない「コロナ自粛」が同時に行われているという現象】
です。世界中から人が日本に大勢来ているなか、なぜ日本人だけが身動きしてはいけないのでしょうか。この自殺行為とも言える、完全な矛盾はまったく理解に苦しむ他ありません
しかし、この2つ現象の底にあるものを落ち着いて考えてみると、それは日本人に巣くっている病根が違う形で表れているだけで、根っこでは繋がっていることに気づきました。
その病根を一言でいうと、
【思想を持たない日本人】
という問題に帰結します。
上記2つの現象の並立という矛盾は、この根本問題の表れだと言うことができるのです。どういうことでしょうか。
まず、旺盛に進められている「インバウンド政策」から見て行くと、それが進められている動機は、即物的なもので、「日本経済が成長していないならば、経済成長している外国の消費需要を取り込もう」と考えてのことです。
それを裏付ける資料として、内閣府HPにある「今後のインバウンド需要の拡大への展望」を読むと、政府が「外国人消費」の取り込みを、日本の観光産業におけるメインテーマであると考えていることが伺えます。
いくつか拾ってみると、
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①世界経済、特に日本の近隣諸国・地域であるアジア経済の成長が続けば、海外旅行が可能となる所得層の人々が増えることによって、今後も訪日外国人旅行者数の増加が期待できる。
②日本政府においては、訪日外国人旅行者の誘致のため、2016年3月に「明日の日本を支える観光ビジョン-世界が訪れたくなる日本へ-」をとりまとめており、その中において、訪日外国人旅行者数を、2020年に4千万人、2030年には6千万人とする達成目標を掲げている。
③中国は最大の訪日旅行者数であると同時に一人当たり旅行支出も欧米とそん色なく、訪日外国人旅行者の消費総額におけるインパクトは非常に大きいと言える。(…)まずは同じアジア地域に位置し、一人当たり旅行支出が高い中国からの旅行者をこれからもいかに取り込み続けるかが重要となろう。(…)ポスト「爆買い」となる中国人旅行者のニーズにあったインバウンド戦略が求められる。
④インバウンド需要がもたらす関連産業の発展や地域活性化といった効果を全国に浸透させるには、訪日外国人旅行者が著名観光地以外にも多く訪れるようになる必要がある。
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などなど、日本全体の経済成長による内需の拡大ではなく、その衰退を前提としたうえで、中国を中心とした世界経済の成長を取り込み、それによって日本経済を活性化させていく他なく、また、関連産業の発展や地域活性化までも、インバウンド需要に委ねていこうという方針が明言されています(ポスト「爆買い」なる言葉は特に露骨ですね)。
しかし、積極財政の必要性を訴える専門家の方々が主張しているように、日本経済がデフレに入ったのは、1997年の消費税5%増税にはじまる、「緊縮財政」にあるわけですから、世界経済の成長に頼らなくとも、この誤った財政政策を転換し、日本国内の内需を活性化すれば、外需に頼ることなく観光産業の安定と地域活性化が達成されるわけです。
そんな愚策を20年以上推進している政府も政府ですが、それより問題なのは、自分達にとって必要な経済政策については主体的な関心を持たず、「借金が怖い」といって政府の実施する「緊縮財政」を国民が放置し続け、その結果苦しい経済を回していくために、「インバウンド需要」に我先にと飛びつくことしかできなくなっていることです。
そして、それはそのまま「コロナ対応」についても当てはまります。
国民が主体的にコロナウィルスの毒性について見極め、政府に適切な対処を求めれば、当然もっと早い段階で感染症法上「5類」にするのが適当であったわけです。
なぜなら、言うまでもないほど当たり前の話ですが、「政府が5類に下げるから、コロナウイルスが5類相当の毒性にあるのではなく、『もともと5類相当の毒性』であったから、5類に引き下げるから」です。
しかし、周囲の人々の反応を見ていると、あたかも、政府の判断に合わせて、コロナウィルスの毒性が変化するかのごとく、完全に政府に毒性についての判断とその対処を任せきっています。それだけではなく、ある世論調査では、「8割超が5類以降に不安を感じている」との結果がでていました。
「緊縮財政」や「コロナ対策」にしても、自分達の生活に直結する問題の真の解決には関心を持たず、ひたすら政府の言う「インバウンド」「自粛政策」に任せきり、さらに「借金を恐れ」「コロナウィルスを恐れ」被害を拡大させ続ける…
こう考えると、なぜ「人的交流拡大(インバウンド政策)と人的交流抑制(自粛政策)が並立しているのか」が分かってきます。この2つの現象は日本人に避けられないものであり、それへの対処に他の選択肢はないという意味において矛盾しないのです。
しかし、「自分たちで判断せず、政府に依存しきっている態度」こそ、私のいう「思想を持たない日本国民」そのものの姿です。
「思想を持つ」とは、博識であることより、まず様々なことにあたって、
【自分達の生き方、物の考え方を手放さぬこと】
だからです。
日本人における「思想の喪失」を、近代化のプロセスにおける「過剰適応」によるものであり、それを、原爆が比較にならぬほど日本人にとって甚大な被害を及ぼしていると喝破したのは、批評家の福田恆存でした。
適応異常というのは、人間の進路には常に壁があり、それぶつかって、それが乗り越えられるか、乗り越えられなければ、遠回りして壁の無い道に出られるか、そういう手段を考える能力、詰まり判断力と意思とを欠き、諦めて壁の前に坐り込んでしまったり、道は一本しか無いと思い込み、むやみにそれにぶつかって挫折してしまったりする状態を言う。(『滅びゆく日本へ』、95)
まさに、この状態こそ「緊縮財政による終わらないデフレ不況」や、「コロナ感染におけるいつまでも続く過剰自粛」といった問題に苦しみ続ける日本人の在り方そのものの描写ではないでしょうか。
それに対する処方箋をここに提起する力量はありませんので、最後に参考までに、近代化に関する、福田の言葉をいくつか引用したいと思います。
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・ひとつの思想を自分のものにするためには、その毒をも身にひきうけなければないないのだ。(同掲書91-92)
・チェーホフはヨーロッパの知性を身につけ、それに毒されることなく、かえってそれを利用することにより、スラヴ人を超えて人間の心の純粋な状態に到達することができたのである。(92)
・私が西洋に学んだ最大のことは、精神と物質とを、つねに二元論的に、あるいは弁証法的に、たくみに使いわける主体の精神的能力である。(92)
・西洋には常にオーソドクシーというものがあって、それにたいするオポジションが起こる。ところが、日本にはそのオポジションだけが輸入されて、こちらでは一つもオーソドクシー、あるいはトラディションができあがらないで今日まできている。(93)
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いまからでも遅くありません。このような「真正な思想」を獲得する努力によってしか、日本の現状が好転しようがないと覚悟を決め、一歩一歩それを得る道へ歩み出すことが大切だと考えています。みなさまはどうお考えでしょうか。
▼4月30日配信 第4回信州学習会―軍事について考える前に知っておきたいこと―レポート
昨日(4月29日)、「第4回信州学習会」が盛況のうちに開催されました。いままでの信州学習会で最大の「30名」を超える方々にご参加いただき、緊張感を感じながらも活気のある学びの場を共有することができました。
「第1部」の、小幡先生の講義「軍事について考える前に知っておきたいこと」では、まず小幡先生の自己紹介として、起床ラッパで起きるのが習慣となっていたことなど自衛隊時代のエピソードが語られました。
次いで本編では、近年の日本人の「軍事」に関する態度から、
①ウクライナでの戦争行為に見られた、熱しやすく冷めやすい態度から、真剣に軍事について考えていないこと。
②「ジャベリン(戦車を破壊できる小型ミサイル)」の有効性を騒ぎ立てたが、やはり、戦車が必要であったという帰結しかもたらさなかった無意味な議論。
③防衛費を増額しても、憲法改正しても、そもそも自衛隊自体が戦う体制ができていないという内実。
④中国軍との戦闘において死者が出る可能性が明らかになったにも関わらず、慰霊をしない国家の体制。他人の「生命と財産を守る」という目的のためには、誰も命を懸けないという当たり前の事実。
といった話題が取り上げられ、現在の日本及び日本人の軍事に向き合う態度が批判されました。
しかし、具体的に戦う主体である「軍人という存在」について考えると、それは私たちと同じ、「国民の誰かが命を投げ出して戦う」ということであり、詰まるところ、「日本国民に戦う覚悟があるか」という決定的な問いかけであり、それは「自分自身に戦う覚悟があるか」という問いが突き付けられるとこであると話され、そこを喝破した、
結局は国民的戦闘精神と、自己犠牲意思とがすべてを決するであろう(マライ軍インド第三司令官英国陸軍中将ヒース)。
との言葉も引かれました。
しかし、省みると「日本人は戦う精神・覚悟」を失っていると言わざるを得ないわけです。そこから、「何故日本人が戦う覚悟をなくしてしまったのか」という議題に入っていき、それは、敗戦という「失敗」をトコトン反省せずに、新しい戦後の「理想(平和主義、民主主義、経済成長、日米安保など)」に乗り換えてしまったこと。その結果として、「歴史」を忘却してしまったことに最大の原因があると指摘されました。
また、敗戦を迎えた当時の一軍人の、
「戦争を忌避しながらも、その戦争に突入させたもの。そのために世界が平和になるならば、日本は戦争に負けてもよいと思いながらも、やはり、戦わないでいられなかったぎりぎり一杯のものが、去勢されたように、いつしか失われた。(清水寥人『レムパン島』)」
との言葉に表れた喪失感や、戦う意思の具体的な表れである「武器」を持たないと決めたことで、戦う意思そのものが同時に放棄されてしてしまったことが語られました。
最後に、「生だけを最高の善」とする生命至上主義によって、何を守るために戦うのかという問いそのものが、完全に忘却されてしまったことが指摘され、逆に「日本人が戦う覚悟を持つこと」こそが、何より大切であることが参加者それぞれに刻まれた講演となりました。
「第2部」の小幡先生と浜崎先生のディスカッションでは、第1部の議論を出発点として、様々なことが語られました。その中から、いくつか拾うことで議論のあらましを読み取っていただければと思います。
・人は何によって支えられ戦うことができるのか、という根源的な問いが戦後忘れられてしまった。その結果、ひたすら「卑しく」生き延びざるを得ない存在になる他なくなっている。
・危機に接して、自分の生き方を確かめる、その往復運動を行うことが重要である。例えばコロナ問題もその一つであり、自分の思考や振る舞いを反省する材料にすることができる。
・政治的な課題には、明確な「処方箋」が提示されている。しかし、問題はそれがどうして実現されないかであり、それは、日本人が頭では分かっていることを「行動」に移したがらない「理性」を軽んじる体質にある。
・前近代日本人は「武士道精神」という形で、自分が戦いにおいて死ぬこと、また命令によって人を死に追いやる責任を引き受けることができる思想を持っていたのではいか。
・軍事に関する不備の根底には、日本人論があり、長期的な目線で日本人の体質を改善していくべきである。それは、日本近代150年の歴史の延長線上において、議論を積み重ね成熟していく過程でもある
・軍事について考える場合も、「政治(99匹)と文学(1匹)」の葛藤の問題があり、99匹から零れ落ちる1匹の孤独を乗り越える、「宗教性」(または、歴史、自然、言葉)と接続されることで、敵と味方を分ける、政治におけるギリギリの決断を行う根拠と、一匹が救いとられる拠り所が与えられる。そこにたどり付かなければ、その葛藤から逃れることができない。
・最後に、そのような「宗教性」の獲得は、「一人一人」によって行われるほかなく、いかに遠回りであっても、一人の人間が変わることの可能性を信じて、周囲との関係を保ち、対話や言論活動を行っていくことが最も重要なことであり、例えば、藤井聡先生が主な活躍をしたことで「都構想」が止まったように、一人の人間の力を低く見積もることはできない。
以上は私が書き留めたことですが、それ以上に豊富な内容が語られ、お二人の先生の活発なディスカッションを通じて、日本が軍事における不備を改善していくためには、非常に困難なことではあるが、一人一人の国民が、利害(99匹)と孤独(1匹)を乗り越えた宗教性を含めた「日本人としての生き方」を取り戻し、それを守るために「戦う覚悟」を固めること、そしてそれが実現する可能性を信じる人間の真摯な言論にこそ希望があることが結論されました。
その後の質疑応答でも、1部と2部で語られたことに関する感想やご意見、また大川周明に関する評価などなど時間一杯活発な議論が展開されました。
その後の懇親会にも、多くの方々にご参加いただき、講師と参加者、また参加者同士、議論や社交を存分に行うことができる時間を持つことができました。
今回の、「第4回信州学習会」は、2021年に行った「信州松本シンポジウム」から、通算5回目の信州支部としての企画でした。企画を重ねるたびに、少しずつ信州支部に関わるメンバーの結束と、講師の先生方との関係も深まり、何より参加していただける人数も増え、徐々に手ごたえを感じてきています。
今後も非常に遠回りではありますが、思想的な立場から「一人一人が変わる可能性」を信じ、今回のような学習会を開催するのはもちろん、信州支部から発信する言論活動によってその可能性を幾分なりとも広げる活動を長野県にて展開していきます。
今後も信州支部の動向にご注目いただくともに、ご支援ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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