信州支部便り 3月版
- mapi10170907
- 2023年4月16日
- 読了時間: 18分
【コラム】 信州支部 前田 一樹 ※信州支部メルマガ配信より転載
【信州支部】お問合せ:shinshu@the-criterion.jp
▼3月5日配信 マインドセットからの解放~国民の常識としての「軍事」について~
いよいよ来月、4月29日(土)に信州支部「第4回学習会」が須坂市にて開催されます。今回は『クライテリオン』にて連載中の【小幡敏先生】と、クライテリオン編集委員の【浜崎洋介先生】の豪華二人の先生をお招きしています。以下のリンクが、お申し込みページになります。
https://the-criterion.jp/symposium/202304-2/
前半の第1部では、「軍事について考える前に知っておきたいこと」というテーマで小幡先生にご講演をいただきます。
後半の第2部では、浜崎洋介先生に、小幡先生の講義を踏まえ、国家にとっての必要欠くべからざる「軍事」について、それを国民としてどう解釈し、引き受けるかといったことについて解説を加えていただきながら、対談形式でいつものように「国家論から人間論」の次元まで縦横に語り尽くしていただきます。
この度、メインゲストとして小幡先生をお呼びする運びとなったのは、信州支部の立ち上げから継続して活動に関わってくださり、幹事を引き受けて下さった、「北澤孝典氏」と内容について相談するなかで、
「新進気鋭の評論家である小幡先生の講演を、是非、直に聞く機会を作りたい」
という提言があったことから決定しました。
そんななか私としては、今回のテーマは挑戦的なものであると考えています。というのも日本の世論では、
【軍事=悪=廃絶すべきもの】
というのが、「絶対の定式」として成り立っており、政治や経済以上に、日本の「軍事」について主体的な関心を寄せる人は少ないことが予想され、果たして関心を持つ参加者がいるだろうかとの不安があるからです。
私自身も一般的な家庭で育ちましたので、多くの日本人が持っている【この定式(軍事=悪=廃絶きもの)】を漠然と持っていました。
よく覚えているのが、旧『表現者』を読み始めたばかりの頃、特集で「沖縄の米軍基地の問題」が取り上げられたのですが、米軍基地の存在が、なぜ日本にとって大きな問題でがあるのか、まったく分かりませんでした……
いまでは、在日米軍基地は、【軍事=悪=廃絶すべきもの】だから問題なのではなく、【在日米軍基地=占領の継続=隷属国の象徴】だから問題なのだと理解していますが、そのような経験から日本国民の大多数から軍事についての思考が失われていることはよく分かります。
しかし、私はこのような軍事への固定した【定式】から解放されることの意義が、少なくとも2つあると考えています。
まず一つは、国民として「軍事」について考えることは、戦術論や兵器論だけでなく、広く日本という国全体のなかで、「軍事がどのような位置づけを持っているのか」を考えることに繋がります。
すると、
【様々ある国家の構成要素の中の一つに「軍事」という領域があるだけなのだ】
という巨視的な視点を持つことができるようになります。
そう考えると、「軍事」をことさらタブーにし、排斥すべきものと考えることの「愚かさ」が見えてきますし、逆に何でも「軍事」的なパワーバランスだけで、国際関係が片付くという考えも偏っていることが分かります。
国という全体のなかでの「軍事」の位置づけが見えてくることで、その他の「経済、政治、文化、社会」などの各要素も、同時に広い視野のなかで捉えることができるようになり、個別の領域に囚われることがなくなります。
もう一点は、この【軍事=悪=廃絶すべきもの】という硬直した思考パターン、マインドセットこそが、日本人自身を大きく縛っているのではないかということがあります。
例を挙げると、
・【コロナウィルス=悪=廃絶すべきもの】⇒過剰自粛⇒貧困化・自殺の増大
・【国の借金=悪=廃絶すべきもの】⇒緊縮財政⇒出口のない不況
・【ハラスメント=悪=廃絶すべきもの】⇒過度な個人主義⇒孤立化、共同体の崩壊
などです。
つまり、「悪」とされているものの内実を問わずただ忌避し、遠ざけようとすると逆に問題を悪化させてしまうということです。
軍事の場合は、
・【軍事=悪=廃絶すべきもの】⇒属国路線の継続⇒他国からの軍事恫喝への脆弱化
ということにります。
よって、「軍事」について考えることは、このような【一般的には「悪」とされているもの】の内実を一度立ち止まって考える機会を与えてくれるものであり、そのような思考の態度を養うものであるとも言えます。
以上、①「国家全体のバランスを考える視点」②「一見悪とされているものの内実を考える態度」の2点を身に着けるために、「軍事」について考えることは、とてもよい思考のレッスンであると私は考えています。
小幡先生の著書『愛国としての反日』には、軍事についてより踏み込み、なぜ一般の日本国民が「軍事」について考えなければならないかについて、日本の歴史に立ち返り、戦前の軍隊や、自身も経験してきたい戦後の自衛隊のありようを詳細に検討しつつ語られています。
https://amzn.asia/d/1viYchE
しかし、書籍から入るのはなかなかにハードルが高く入っていけないという方向けに、今回は、タイトルからも分かるとおり、極めて平易に、日本人にとっての軍事について基礎・基本的な部分に的を絞ってお話いただくように依頼していますので、この機会を「軍事」について考える切っ掛けにしていただければ幸いです。
最後に、3月後半に、小幡先生より簡単なイントロダクションを寄せていただき配信します。そして、4月の前半には、浜崎先生からもイントロダクションを寄せていただき配信していきますのでご期待ください。
▼3月12日配信 禅と愛することの関係ー保守思想のコアについてー
20代は一貫して「禅」に関心持っていました。10代のなかば高校生の頃から、思春期特有の自信のなさや、自己嫌悪といった「煩悶」を抱えるようになり、それを何とか克服したいとの思いから、手の届く範囲の「読書」を重ね、「キックボクシング」に取り組み、「音楽」「自転車旅」などをした挙句すがるようにしてたどりついたのが「禅」でした。
何をやってもどこか不安が残り、「じたばたしたところで、結局は自分自身と向き合うしかない」といった心持になり、「禅」を通じて自分の内面を見つめることで、小手先ではないレベルから自分が変わるための切っ掛けが掴みたかったのだと思います。
そして、ちょうど「20歳」の頃、通っていた大学の近くのお寺で初めて「座禅」を体験したときのことをよく覚えています。その時は静かな環境で、
①「数息観」という、ただ座り、ひたすら自然に生起する「息」を意識するというシンプルな座禅法。
②「作務」というただ体の感覚を感じながら、黙って草取りや掃除などに取り組むこと。
という2つの実践を体験したのですが、生まれて初めて頭から「ノイズ」がなくなり、心が晴れたことを覚えています。冷蔵庫などの家電の電源を落とした時に体験する、いままで意識していなかった「ブーン」というノイズが消えた静けさといった感覚でした。
現代生活では、常に外側からの情報や刺激という「ノイズ」に満たされており、静かな環境でただ呼吸を感じことや、ただ一つの作業のみに集中することで、内側に感覚向かい「意識のひと時の晴れ間」のようなものを経験するのだと思います。
その体験が元となり、20代の10年間で「禅」から始まり広く「日本仏教」に関心を持ち、タイにも出向き「上座部仏教」のお寺で修行体験をしたり、「ヨーガ」を学びにインドまで出かけたりしていいました(今思えば流石にやりすぎました…)。
その後、30代になる辺りで「政治、経済、社会、文化」といった現実的かつ国家レベル(マクロな)時事問題に関心を持つようになり「保守思想」へと関心が移っていき、「禅的なもの」から離れていきました。
しかし、時事的な問題の奥にある「保守思想の核心」が、「直観、信仰心、武士道」といった「現世的な価値観を越えた精神」であると考えるようになったことから、自分にとっては、20代に探求していた「禅」こそ、心を澄ませ「直観」を磨く実践であり、それを信じることで生まれる「信仰心」の基盤を培うものであったのだと気づきました。武士道の鍛錬においても、座禅は欠かせないのもでもありました。
そう考えると「禅」と「保守思想」の距離はそうかけ離れたものではなく、「保守思想」の大きな文脈のなかの、コア的な部分に「禅」が内包されているという位置づけで捉え直すことができます。
「自分の心への洞察」はとても「ミクロな実践」ですが、そのコアの部分がしっかりとしていなければ、「政治、経済、社会、文化」といった「マクロな問題」に向き合うことはできません。なぜならどうしてもそこに「主観」が入ってしまい、自分の事情を脇において、公平な視点で「公(おおやけ)」について考えることができないからです。
そんな考えから、毎朝晩に「5分」だけでも座禅をすることを習慣にしています。また、日中でもなるべく自分のやっている作業に集中することや、体や呼吸の感覚を意識することを心がけています。
といっても、スマホやPCでネットで動画を見ていることも多いため、とてもクリーンな意識ではいられないことが、ほとんどではありますが、あらためて、「禅的感覚」を保持することも「保守思想」を涵養するプラクティスであると考え地道に取り組んでいます。
そんな折、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(フロム1956)を読んでいて、そこに1日15分ほど「数息観」を朝晩行うことを進めている箇所に出会い、「やっぱりこれが肝心なんだな!!」とさらに確信を深めました。
https://amzn.asia/d/6nLI6Qw
この本は60年以上前に出版された本ではありますが、「資本主義」が人間の精神に及ぼす影響として、財とサービスの「等価交換」という大原則が、「ギブ&テイク」の精神を人々が心に当たり前のものとして植え付け、「心から人を愛するということ=ギブ」することを忘れさせてしまっていることや、なんでもスピード重視で日々の出来事を味わうことの豊かさを忘れてしまっていることなど、まさにいま顕著になっている人間精神の傾向に警鐘を鳴らしている良書です。
その中でフロムは、
「愛は『実存』にたいする唯一の答え」
とも言っており、一時的な感情ではなく「心から人を愛する」ためには、自分の内面への洞察を敏感にできるようにならなければならないとして「禅的な実践」を推奨していました(フロムは、禅を世界に紹介した「鈴木大拙」とも交流があったそうです)。
ということで、「禅的なもの」「愛すること」が深い部分で繋がりあった「保守思想」をこれからも人生を通じて深めていきたいと思っている次第です。
今回は、自分が考える「保守思想」のコア部分について体験を交えつつ私見をお届けしました。政治経済における時事的問題も大事ですが、このようなコアの部分を意識することでより保守思想が奥行を持って見えてきます。保守思想を理解する上でのヒントになっていれば幸いです。
▼3月19日配信 松本市に見る地方衰退の現状と思想による反抗
最近一地方都市である、長野県松本市の衰退を実感する2つのニュースがありました。
1つ目は、2月に発表された「松本パルコ」閉店のニュースです。松本の都会的な文化の代表する「シンボル」となっていた施設であったため、特に長野県内には大きな衝撃を与えました。
https://www.asahi.com/articles/ASR2W730SR2WUOOB008.html
私(前田)は「松本市」の出身であり、高校のときになけなしのバイト代を片手にちょっと背伸びをして「松本パルコ」に出かけ、よく服を買っていた青春の思い出があります。同じように長野人にとっては多くの方が一度は行ったことがある場所であり、思い出のエピソードとともに深く記憶に残っている大切な場所でした。
失われることが決まってみると、改めて喪失感を感じている人が多くおり、周囲の家族や同僚からも喪失感を漏らす声を聞きました。
記事によると、1984年に開店し、1996年に最高売り上げ「95億円」となっており、その後コロナ渦の入った2021年には売上が「約40億円」となり、ピークに比べると、「55億円」も下落してしまったということで、とんでもなく衰退しているのが分かります。
2つ目は、規模は小さくなりますが、松本で40年間親しまれてきた「民芸レストラン盛よし」という老舗のレストランが閉店したというニュースでした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f494f1a18ba5fbd6bf6e623660a63a8a4e23fdd0
松本らしい民芸調の落ち着いたインテリアで、鉄板焼きのボリュームたっぷりの洋食が食べられるということで、観光客にも地元の人々からも愛され親しまれてきたお店でした。
私も小学生のころ家族で街に出かけ、「おいしいものを食べよう」となったとき何度か行ったことがあり、いつもより贅沢をした気分を味わいました。社会人になってからは職場の同僚の方々と、お酒も交えつつ夕食を共にした思い出もあります。
こちらも身近なところで、いまの職場の上司が「松本の思い出の場所がなくなってしまった」としみじみ喪失感を話して下さいました。
ネット記事によると閉店の理由は、「経営者が体調不良のため」と書かれていましたが、もし売り上げが好調であったのならば、調理人を雇って経営を継続できたはずですので、やはり売り上げ自体が不調であったことが予想されます。
生まれ育ち、慣れ親しんだ街の「シンボル」「思い出の場所」が消滅していくことによって、いよいよ松本地域の衰退が「庶民感覚」として無視できない事実として目の前に立ち現れてくることとなりました。
日本経済の動向に関心がある人にとって、1997年から始まったデフレによって日本経済が衰退していることは当たり前のことですが、積極的な関心のない庶民にとっては、身近な「シンボル」「思い出の場所」が消滅することが経済統計より、その事実を実感させる効果があったのです。
しかし、政府の「緊縮財政」によって、地方が衰退しているのである以上。多くの人々が地方の衰退に「喪失感」を感じたとしても、その思いを地域活性化の方向につなげていくのは難しいと思われます。
こうした危機的な状況を目の前にして、果たして自分に何ができるのだろうかという思いをより強く持ち、ともかく「政治」に働きかける取り組みを行っていかねばならないとも考えました。
しかし、『表現者』から『クライテリオン』を通じて、「保守思想」に関心を持ち学んできた私にとっては、「政治」というフィールドより、「思想的な次元での戦い」が基本であろうと思い直していました。
そんなとき、エーリッヒ・フロム『反抗と自由』(1983)にあった、「思想によって現状に反抗すること」、について語られた箇所が目に止まりました。
「(思想による)反抗とは、理性と意思を肯定する行為である。それは本来、何かに反する態度ではなく、何かを求める方向の態度である。人間がものを見る能力、見たものを口に出して言う能力、見ないものを口に出すことを拒否する能力を求める態度である」(52)
フロムの言葉によれば、地方衰退の問題における思想の闘いとは、危機的な状況に対してまずはそれ自体をしっかりと見つめうやむやにしないこと、この街の経済が活性化することを望んでいるということをはっきりと主張し、衰退の原因がなんであるか、何が問題がなんであるかを見定め多くの人に伝えること…だと言えます。
一庶民としてできる範囲で率直に物を言う「態度」を養い、「思想的な反抗」を続けることが自分にできる活動なのだと気づき、そのような言論運動を信州支部を基点に、ここ長野県で継続していくことを改めて心に決めました。
さらに、フロムは、ただ意見を述べるだけの「思想」では不十分だと言います。
「(人々が)思想によって動かされること、真実を把握することは、きわめて難しいことなのである。(…)とはいえ、思想はそれを教える者がそれを生きいるならば、教師が身をもって体現するならば、思想が肉体化しているならば、実際に人間に影響を与えるものである。謙虚の思想を述べる人物が謙虚であれば、聞いている人々は、謙虚がいかなるのかを理解するであろう。理解するだけでなく、彼が真実を語っていて、単に言葉をもてあそんでいるのではないことを、信じるだろう」(44)
「思想を生きる」これは非常に深淵なことですが、この言葉を受けてまず自分にできる実践としては、この「信州支部メルマガ」を地道に続けることだと考えています。
内容的にはそれほど貴重な情報をお届けできるわけではありません。しかし、毎週お届けし続けることによってこそ、言葉と思想に込めた「本気」の思いが若干でもお読みくださった方に伝わり広がっていくことを信じています。
まず1年間を目標に続けていきますので、今後ともお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
▼3月26日配信 白馬村インバウンドについての感想と考察
「白馬(長野県)に行くと、まるで外国に来たようだ」という噂は数年前から聞いていました。
そして、今年からスキーを始めたことで、十数年ぶりに白馬方面のスキー場に行くようになり、白馬を訪れている外国人観光客(いわゆるインバウンド)と、その周辺地域の実態を目の当たりにするようになりました。今回のメルマガでは、その体験を通じて考えたことを書いていきます。
まず、噂通り多くの外国人観光客がいるのを見て、率直に言って「レジャーのために遊びに来る外国人の落とすお金に頼らなければ、経済が回らないというのは何とも情けないことだ」、という感想を持ちました。また、英語だけではなく、韓国語や中国語もあちこちから聞こえ、周辺の諸外国からまさに「日本が安く買い叩かれている」ことを如実に感じました。
それと同時に見えてきたのは、周囲の旅館やホテルが廃れつつある姿でした。明かに廃業して数年は経っている旅館がいくつもあり、なかには外国人観光客向けに、英語の看板だらけになっている旅館も見えました。明かに廃れつつある状況のなか何とか外国人観光客の需要を取り込むことで生き残っているとった状況が見られました。
観光資源が安く買いたたかれ、廃れていくか外国化していく周辺地域の現状を見て、私が小中学生の時に通っていたころの、まだ日本人スキー客で溢れていた「90年代~2000年前後」の白馬の活気ある光景との違いに悲しみを覚えました。
そして、次にそのような状況になってしまった原因を【①マクロ(大)、②メゾ(中)、③ミクロ(小)】の3つの視点の大きさに分けて段階的に考察しました。
(1)政府の「緊縮財政」によりデフレから脱却できず、国内需要が高まらないため外需(インバウンド)に頼らざるを得ない経済環境【マクロ(大)】
もっとも大きなレベル(マクロ)でみると、日本政府が90年後半からの緊縮財政路線を転換し、デフレから脱却ができていれば、日本国内の需要が高まり、外国人観光客(インバウンド)に頼らずとも経済を回すことができたのだ、という事実があります。
この構造が分かる通り、デフレを放置してきたことによって、日本の貴重な自然・観光資源を外国に売り飛ばし、切り売りするしかない状況を作り出している責任は、まぎれもなく「日本政府」にあります。
(2)スキー場は自助努力によって、観光客を呼び込まなければならない。それが出来なのは「努力」が足りないからだ、という事業者責任論、新自由主義の跋扈【メゾ(中)】
次に「緊縮財政」を前提として、スキー事業者は自助努力によって観光客を集めなければならい、観光客が減ったのであれば新たなサービスを展開することで、顧客を呼び戻してみせよ、というビジネス重視の「新自由主義」が、結果としてインバウンドに依存しなければならないスキー場周辺の依存経済と、廃れてしまった旅館・ホテルを生み出したと考えられます。
つまり、デフレで国内需要が冷え込んだ「ツケ」を、スキー場事業者の怠慢に責任転嫁したということです。
地域の観光資源を活用して事業を展開する企業があるからこそ、雇用が生まれその観光地で暮らす人々の生活が持続的に続いていくことで地域社会が安定します。そんな、スキー場事業者を行政が財政面で支援をするのは当然のことだと言えます。
その点について調べてみると、観光庁が提供している、スノーリゾートを形成しようとする「観光地域づくり法人」の事業を補助する「国際競争力の高いスノーリゾート形成計画」という制度がありました。
https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kankochi/snowresort-kentou.html
しかし、内容を見てみると、【補助率が「1/2」で、上限が「2億円」】となっており、出資額が少ないため効果は限定的であると考えられます。
(3)外国人観光客が増加することに嫌悪感を覚えるのは「差別主義」であり、グローバル化に適応し、多様性を認めなければならいという思想【ミクロ(小)】
最後に個人(ミクロ)のレベルで、そんな外国人観光客と共存していくことを「是」とする考えが広がったことで、実態としては、「外国人観光客への依存経済」になっているにも関わらず、これからは「グローバル化の時代」であるとか、「インバウンド事業の振興」だと一見ポジティブな言説にすり替わってしまっている現状があります。
そして、この現状に反対する人間は、危険なナショナリストであり、多様性を認めない「差別主義者」であると指弾…まではされませんが、そのような反対意見を「あからさまに言ってはいけない空気」が出来上がっています。
そのような膠着状態を脱却するために、最も必要なことは何かと問えば、
【目の前の現状、「外国人に安く買い叩かれている」、「旅館やホテルが廃れている」という事実に悲しみと憤りを感じ、あるがままに認めること】
から始めるしない、という至ってシンプルなものです。
というのも、まずこの状況を「問題」だと思っていなければ「解決」のしようもないわけで、地方の観光経済が外国人に依存している状況と、「デフレ脱却の必要性」というマクロな問題意識に繋げるためにも、まず「この状況を問題だと捉える」というところから始めるのが最初の一歩になります。
そこにおいて、デフレを日本政府が長期化させていることを「知る」ことは必要ではありますが、人間は「知的なレベル」ではなく、まずもって「感情のレベル」から変化するものなので、明かに地方が衰退し、外国人に安く買われている、という現状に対して、「悲しみや憤りを覚える」という素直な感情を持てるかに全てがかかっていると言えます。
そうした「悲しみや憤りの感情」に対して、先にあげたように排外主義や外国人差別に結びつくのを警戒する向きもあると思います。しかし、それは杞憂です。何故なら悪の大本は、デフレを放置してきた「日本政府」であって「外国人観光客」ではないからです。
よって、知的にも感情的にも問題を素直に認めることで、最終的には行きつくのは「日本政府批判」であって「差別主義」ではりません。むしろ、その悲しみや怒りの感情を「グローバル化」や「多様性尊重」などの言説で抑え込むことから、反動として「差別主義」が生まれてくるのではないでしょうか。
このような問題解決のアプローチは、「まず先に心(感情)で現象を感じとり、そこから頭(知性)によって分析を積み上げていく」という、私の考える「保守的な態度」から来ている発想です。福田恆存にも「保守派はまずもって素直であること(「私の保守主義観」」という言葉がありました。
今回は、長野県白馬村の事例を取り上げましたが、他地域の様々な問題にも当てはまる見方と考察だと思います。身近な事例に引き付けて置き換えて考えていただければ幸いです。
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