top of page

信州支部便り 2月版

【コラム】 信州支部 前田 一樹  ※信州支部メルマガより転載

 信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp


▼02月03日配信 キェルケゴールとウィトゲンシュタインの〈実存哲学〉的つながり

今週のメルマガは、前回の定例会にて講義をいただいた、佐々木先生の「地域マネジメント・交通計画における公共心の役割」についてのレポートを届けしようと思ったのですが、いかんせん時間がなく、まとめることができませんでした。


来週お届けできればと思っております。


実はまとめの時間が取れなかったのも、最近『キェルケゴールー生の苦しみに向き合う哲学』(2024鈴木)を読んだことはお伝えしましたが、その著者の、


「ソクラテスに起源を持つ彼(キェルケゴール)の〈実存哲学〉の精神が、ハイデガーなどのいわゆる実存哲学(実存主義)ではなく、じつはウィトゲンシュタインの『哲学探究』のなかにこそ息づいている」(同前、305頁)


という言葉に触発されて、「ウィトゲンシュタインとキェルケゴールの繋がり」に関心を持ち、ウィトゲンシュタイン関連の入門書を読んでいたからでもあります。


その中の『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』(大谷2020)は、後期ウィトゲンシュタインについて解説した書籍で、ウィトゲンシュタインの哲学を、


「自身がよく生きるために、己の世界観を明確にするためのものである」


と位置づけ、その複雑の議論を一つ一つ身近な例を引きながら語っている懇切丁寧に語っており、我々に生きたウィトゲンシュタインの哲学を届けたいという情熱にあふれた書籍でした。


その書籍についても紹介したいとも思っているのですが、「キェルケゴールの哲学についてのポイント」「定例会のレポート」など、積み残しがあるので、さらにその先になりそうです…


一先ず、無関係に思える、キェルケゴールとウィトゲンシュタインの哲学が、〈実存哲学〉という根源的なところで繋がっている可能性について共有できればと思っています。


この週末の土日は、「日本障害者スキー連盟」のスキー講習会をスタッフとして泊りで手伝うことなっており、そちらにかかりきなってしまいます。


中途半端なメルマガになってしまって申し訳ありませんが、明日(日曜日)には、新たな信州支部メンバーのメルマガを配信することになっていますので、そちらにご期待いただければ幸いです。



▼02月10日配信 個人の利益・利便性を追求した果てに望ましい都市・地域はない。求められるのは住民の「公共心(歴史感覚、共同体意識)」である。

1月27日(土)に「信州支部1月定例会」が開催されました。今回はお招きさするのが2回目となった、早稲田大学の佐々木先生に、


「地域マネジメント・交通計画における公共心の役割」


と題し、「公共心」に焦点を当てた、公共交通を含めた望ましい都市・地域にまたがる講義を行っていただきました。


今回のメルマガでは、そちらの内容について簡単にレポートさせていただきます。


講義は途中、質問や意見などをいつ出してもよい形式で行われ、議論しながら進みましたので、私の講義メモを箇条書きにて共有いたします(※分析は「前田」にあります)。


若干でも講義や議論のあらましを汲み取っていただければ幸いです。


===以下、講義メモ===


〇高速道路のジレンマ


講義は、「雪の降る高速道路の写真」から始まった。雪が降ったとき、すぐに高速道路を使用不可にしてしまうと経済的な損失が大きい。


しかし、安易に解放しておくと、スタットレス・タイヤを装着していないトラックがスタックして、完全に高速道路が止まってしまい、経済的な損失は決定的になってしまう。


高速道路を開ける場合に頼みとなるのは、トラックドライバーの使用頻度の低いスタットレス・タイヤを装着するコストを負担し、「全体に迷惑をかけないようにするマナー」だけとなるが、それはいかにも危ういものある。


〇社会的ジレンマについて


・「短期的な私的利益の増進に寄与する行為【非協力行動】」

・「長期的には公共的利益の増進に寄与する行為【協力行動】」


のいずれかを選択する社会状況を、「社会的ジレンマ」と呼ぶ。


これはどの社会にも見られることであり、【非協力行動】が増えれば増えるほど、その社会全体としてはマイナスを抱え込むこととなる。


個人のニーズや利便性だけを優先する「市場優先主義」においては、多くの人々が【非協力行動】しかとらないため、長期的に見るとその社会における損害は必然的に大きくなると言える。


逆の流れを生み出すには、長期的(公共的)の利益について考え、【協力行動】をとる人が増える必要がある。このような「長期的な利益に対するコミットメント」を「公共心」と呼べるのではないか。


〇「公共心」を育むコミュニケーション・心理的方略


【非協力行動】において配慮される利益範囲は、「時間(過去~現在~将来)」においても、「社会的距離(自分~家族~他者)」においても非常に小さな範囲(主として個人)しか包摂されていない。


たいして、【協力行動】において配慮される利益範囲は、そのどちらにおいても、より多くを包摂している。


つまり、ある社会において【協力行動】を増やすには、過去から将来にわたる「歴史感覚」、自分より大きな社会を慮る「共同体意識」を持つ人々を増やすことが重要となる。


人々の行動変容については、従来は「構造的方略」と呼ばれる「経済や政治」の面からのアプローチが考えられてきたが、上記のような、自らの意思で社会的に望ましい行動をすることを促す、「心理的方略」も実施していきたい。


〇能登の復興について


震災復興の議論のなかで、「採算性の悪い地域(主に半島先端の沿岸部の漁村)」に多額の予算をかけて復興させるのは無駄遣いあるとして、切り捨てようとする発言が散見された。


しかし、それは時間的には「現在のみ」、社会的には「個人のみ」の非常に視野の狭い見方から出てくる判断であり取り返しのつかない悪影響があると考えている。


その地域には過去から現在、そして将来にわたる歴史の積み重ねがあり、また、そこには共同体が存続してきている。それをないがしろにする意見には賛同できない。


〇学生が他者を知る経験


大学の授業の一環として、20人の学生を連れて、400人ほどの村に聞きとり調査を行ったことがある。


調査が目的ではあったが、学生に「自分の知らない他者」を知る機会を持ってほしいという、ねらいもあった。


自分とまったく違った条件の下で、生まれ育ち、そして生きている人々とコミュニケーションをとる経験を積むことで、他者を認識する「公共心」の一部が培われるのではないかと考えている。


〇地域の代表


その地域への「公共心(時間感覚・共同体意識)」も持つ住民達が、市議会議員へ自分達の意思を託すことができる代表を送り出せれば、全体の利益になる政策が実現することになる。


しかし、現実には、多くの住民が個人の利益を重視し、代表となる議員は当然その住民の利益に寄りそう政治的判断を行うため、全体としてマイナスの政策が現実化している傾向にある(公共交通の縮小、週末の交通渋滞、身近な地域商店の閉店など)。


〇「経済学者」と「都市計画者」の考え方の違い


①経済学者の考え方


・社会が最も望ましくなるように、構造(制度)を適切に設計することで、社会的ジレンマは解消可能

・望ましい都市像・望ましい社会像に関する合意が不要


②都市計画者の考え方


・望ましい都市像の共有が必要不可欠

・それを達成するためには、個人の協力・変容が求められる


という決定的な違いがある。都市計画者(または、地域の現状を改善していきたいと者)にとって、「望ましい都市像」を共有するためのコミュニケーションをとり続ける営みが求められる。


===============


もちろん、これ以上に沢山の議論や意見もでましたが、以上が講義の内容のあらましになります。


自分達の住まう「長野県」なり、「住んでいる市町村」の現状を改善していくためには、制度改革や個人の利益の選択にゆだねるだけでなく、望ましい都市や地域像を共有するためのコミュニケーションをとり続けることの重要性を学びました。


その後、いつものように懇親会も行ったのですが、その席にて信州支部の「顧問」をお引き受けいただけないかと、佐々木先生に依頼したところご快諾いただきました。


引き続き講義をいただき議論を深め、ご協力をいただきながら、信州支部として長野県内へ「望ましい都市・地域像を共有」していきたいと考えています。


一人の人間ができることの小ささを実感してばかりですが、いま自分にできることを仲間と連携してコツコツやっていく他はありません。



▼02月17日配信 「実存哲学」という思考運動の意味ー『キェルケゴールー生の苦悩に向かう哲学』小感

今回は以前お伝えすると言いつつ積み残した宿題、『キェルケゴール』(鈴木2024)について私が特によいと思った部分についてお伝えします。


まず、この著書の価値は入門書としての読みやすさを担保しつつ、名前が通っている割には謎多き哲学者・思想家である、「キェルケゴールの全体像」を読者に届けていることです。


その生涯の著作、言動、私生活の「核」にあるのは、キリスト教的な生き方が習慣として形骸化していた、当時のデンマーク社会に生きる人々に、神との関係に基づいて生きる、「キリスト教」の生き方に復帰するよう呼びかけることであったこと。


キェルケゴールが自身、幼いころから厳格な宗教教育を受け、一時的その反動から、放蕩の生活を送ったことで、自身を「懺悔者(ざんかいしゃ)」として、罪を悔い憂愁のなかで深くへりくだる者であると認識していたこと。


罪深い懺悔者であるからこそ、神の僕として「神との関係」を真摯に受け止めて生きる「キリスト教」の信仰に多くの人に復帰させる、「神に仕えるスパイ」として生きることを自身に課していたこと。


その「神に伝えるスパイ」というアイデンティティを中核にして、キェルケゴールの著作活動、思想、突飛な行動を見渡すと、キェルケゴールの全体として生の様態が明瞭な像をもって読者に提供されます。


しかし、それ以上に私が感銘を受けたのは、「神に仕えるスパイ」としてキェルケゴールがとった、主に著作活動を通じてとった「方法・アプローチ」についてでした。


著者はそれを「実存哲学」と呼び、キェルケゴールがおこなったこの思考運動を、「実存」と「哲学」に分けて説明しています。


まず、「実存」については、


「存在そのものとしての神から、それぞれの本質に存在を付与されて現存するようになった、個々の事物の具体的なあり方のこと(30頁)」


だと説明され、それに加え、キェルケゴールは人間の「罪」を強調することで、一方の「救い」にも開かれてもいる人間の在り方だとされています。


キェルケゴールはこの「実存」を「キリスト教」の根幹と捉え、それに基づいて生きる思考と態度に目覚めさせようとしていたとしています。


さらに、もう一方の「哲学」は、ソクラテスの対話術から学んだ2つの要素が取り入れてられています。


1つは「主体的思考」であり、外から付け加えられた「客観的知識」ではなく、実存という罪と救いの間に立っているのは、まさに、「自分自身」なのだと考えることです。


また、そのような思考には、「間接的伝達」が必要だと言います。これは、語り手が自身の「主体的思考(自分自身の「実存」についての考え)」を相手に伝えるのではなく、相手が自分の生き方を反省し、「実存」について真剣に考えられるように、対話を通じて間接的に影響を与えるアプローチです。


この「実存」を我が事としてとらえる、「主体的思考」と、語りかける他者が「実存」について反省的に考えられるように導く「間接的伝達」の2つが、哲学の元祖「ソクラテス」が行った、まさに、「哲学」であるとキェルケゴールは捉えていたとしています。


この「実存哲学」という概念は、非常に抽象的でかつ、あまりに「キリスト教色」の強い概念ですが、


「実存=人間が罪と救いの間におかれた存在であること」

「哲学=自己の存在について主体的に考え。また相手にも考えさせる」


という、この2つを合わせた思考運動である「実存哲学」は、思考の枠組みとしてより広い範囲に有効ではいかと感じました。


なぜなら、キリスト教の文脈から離れても、人間は、やはり、自己を見失うことによって様々な「罪」に囚われ、だからこそ、自分を越えたものに「救い」を求める願いも本質的に持っている。またそれを我が事として、自他に問うこともできるはずです。


そこまで考えると、キェルケゴールが「実存哲学」によって「キリスト教」を伝えようとしたのと同じように、


「実存(罪と救い)について考えず、それを我が事として、自他に問うことがない私たち」


においても、この「実存哲学」は非常に重要な問いかけを持った思考運動だと考えました。


私たちが「キリスト教的社会」に生きていなくても、キェルケゴールが投げかけた、「実存哲学」について考えてみることに意義があるのだはないかと…


これは、本書の序章において説明された、キェルケゴールの全体像の「骨子となる概念」です。


本書はこの概念を核として、その後のキェルケゴールの残した著作を縦横無尽に引用しながら各章で豊富な肉付けを与えていきます。


気になった方はお手に取っていただき、そこに立ち表れてくる、キェルケゴールが全身全霊で投げかけた「実存哲学」に触れていただければと思います。



▼02月24日配信 佐々木邦明先生(早稲田大学教授)の『クライテリオン』初登場と名もなき庶民の役割について

既にご覧になった方もいらっしゃると思いますが、今月『クライテリオン3月号』が発売されました。


今回の特集は「日本を救うインフラ論―今、真に必要な思想」ということで、私もまだところどころ読んでいる段階ではありますが、「日本社会」を根底から支える道路鉄道港湾を中心としたハードから情報通信技術などのソフト、また日本の歴史にみる土木事業が果たしてきた国作りにおける役割に至るまでの「インフラ」の重要性を認識し、中央(政府)・地方(地方公共団体)ともに積極的に拡充していくことが、現在と将来世代の日本人の生命・財産・文化を守りつつ、日本という国が今後も存続していく上で重要であることが、よく理解できる充実した内容となっています。


今週の信メルでは、その「クライテリオン最新号」と信州支部の関わりについてお伝えします。


今回の特集論考のなかに、佐々木邦明先生が「理念・理想なきインフラ政策が導く未来」を寄稿されています。


この原稿で佐々木先生は、


①インフラの整備格差が、地域間、個人間の希望格差を生み出し、それが、日本が希望を持てる社会であるかのイメージにも影響を与えているのではないか。

②日本の20年間の都市政策が、理想像を欠いたまま継続されており、その結果、需要追随型のインフラ整備に偏り、地域間のインフラ格差が拡大し、将来的に国内分断の原因となる可能性。


を提示し、


「現在日本の都市計画とインフラ整備を導くイデオロギーが、希望格差をますます増幅させ、それが生じている地域だけでなく日本全体を衰退の方向性にむかわせているかもしれない」


ことが指摘されており、日本の将来像が「分断」と、とめどない「衰退」にあるという、政府と国民に反省と思考の転換を促す示唆的な内容となっています。


しかし、これだけ多大なマイナスの影響を生じさせている疑いのある、現在のインフラ整備の実態があるということは、それを逆転させることができれば、将来の日本に希望を持ち、実際発展に導くこともできることを示しています。


「交通インフラ・エネルギーインフラ等のインフラの利用可能性が人の行動に影響を与え、社会を変えていく大きな力になるのである。そのようなインフラの力は、合意に基づく大きな構想のもとで望ましい国土に向けたインフラ整備とその適切な活用によってさらに増大される。その力が、日本を将来に希望を持てる社会に変え、活力のある国土を形成するであろうことは疑えない。」


とも明確に書かれています。


「将来に希望を持つことができ、分断ではなく一体的な日本社会」を目指すために、最後に指摘されている通り、「コスパではなく将来を見据えたビジョンに導かれたインフラ整備に、すぐさま大きく舵を切らなくてはならない」ことを痛感しました。


同時に、『クライテリオン』にこの原稿が掲載されたことで、この佐々木先生の重要な指摘が多くの読者の方々に共有されたことに将来への一抹の希望を持ちました。


ところで、この原稿を書かれた、佐々木先生と信州支部の関わりは、まず、佐々木先生に2021年に行った信州支部としての最初の企画であった、「表現者クライテリオン信州・松本シンポジウム」に参加していただいたことに始まります。


その後、2023年に須坂市でおこなった、小幡先生と浜崎先生を招いた「信州学習会」にも足をお運びいただき、その際に信州支部の定例会で講義をしていただくことを依頼し、快諾いただいたことで講義をしていただく運びとなりました。


そのような経緯で、信州支部の集まりにおいて貴重な講義をいただいたことを、「クライテリオン編集部」にお伝えしたところ、


「丁度、次号はインフラ特集だから、佐々木先生にも寄稿をお願いできるのではないか」


という話が生まれ、藤井編集長から佐々木先生に原稿の依頼があり、今回の佐々木先生の「クライテリオン初登場」となった訳です。


このことは、上記の「コスパ重視から、ビジョンに導かれたインフラ整備への転換」が、政治家、役人、専門家(知識人)のみによって担われるものではないことを示していると考えています。


なぜなら、信州支部のような地方在住の名もなき人間達の動きが、佐々木先生のようなインフラの専門家(知識人)と連携することにより、より広く多くの方への問題への意識喚起を生みだす契機を生み出したと言えるからです。


インフラ整備の問題は、国家・地域レベルの非常に巨大な問題で一庶民にはいかんともしがたいものがあることは否めませんが、政治家、役人、知識人、庶民とそれぞれの立場で問題意識を持った方々、議論し動き出すことでしか望ましい方向へのシフトは起こらないと思われます。


信州支部は今後も微力ながら、そのような流れを作るべく今後も活動を継続していきたちと考えております。

閲覧数:78回
bottom of page