信州支部便り 11月版
- mapi10170907
- 2023年12月7日
- 読了時間: 14分
【コラム】 信州支部 前田 一樹 ※信州支部メルマガより転載
信州支部 お問合せ:shinshu@the-criterion.jp
▼11月4日配信 ギター一本弾き語りの精神と言論活動の類似についてー名もなき一人ひとりを信じて
本日は、長野県松本市ある「柳沢林業」が企画している野外イベントに参加してきました。
柳沢林業は、信州松本の森林資源の活用を積極的に行い、牧場やキャンプ場の運営など多角的に事業を展開されている、チャレンジ精神あふれる地元密着型の林業会社。下記のHPを見ていただければ、どんなビジョンも持って事業を展開されている企業かお分かりいただけると思います。
行われたイベントは、柳沢林業が、里山に興味を持ってもらおうと牧場や材木倉庫を開放して行っており、「自然体験、飲食店の出張販売、ライブ、物販、クラフト体験」などなど盛沢山のイベントでした。
私は前回の「スプリングフェス(4月)」に続き、今回の「オータムフェス(11月)」でも、音楽ブース担当の方にお声がけいただき、ライブコーナーのステージに参加させていただきました。
といっても、ライブコーナーは前回の木材倉庫から移り、小さな室内に設置されていたため、お客さんは知り合いばかりの数人。
ともかく、「声をかけていただいたからには、できることをやろう!」というモチベーションで、ギター一本弾き語りをやらせていただきました。演奏曲は以下の通り(お恥ずかしながら、全部カバーです…)。
1、 夜空のむこう(スマップ)
2、 マドベーゼ(ハナレグミ)
3、 ユーモラス(ゆず)
4、 グッバイデイズ(YUI)
5、 ひこうき雲 (荒井由美)
6、 サヨナラColer(ハナレグミ)
やはり、人前で演奏するのは緊張するもので、自己紹介トークもたどたどしく、演奏もトチったりもしましたが、自分なりの歌とギターで一通り歌いきることができて一安心。
終わってから、知らないお子様連れのお客さんなども聞いてくれいたことに気づき、何かを分かち合うことができたかと、ほんの少しやりがいを感じました。
この経験を通じて感じたのは、演奏も歌も大したものではないけれど、「まず、自分にできることをやってみることの価値」です。
もちろん、プロの演奏は素晴らしい。それを楽しむだけで十分なのですが、等身大の一般人が目の前で演奏するのを聞く機会というのも、それはそれで聞く方の印象も違ったものがあります。私はその懸命な姿から、「自分も興味あることに調整しよう頑張ろう!」という意欲をもらうことがあります。
また、自分にとっても、孤独に部屋でこそこそとギターを漫然といじっているのとはまった次元が違い、外に出て演奏することで、それに向けて練習することでの上達もあるし、何より聞いてくれた方からの反応もあり、同じステージに立つ自分と同じように音楽が好きで演奏している方々の知り合いになり、音楽の世界が広がります。
これは、「音楽」だけではなく「言論」にもまったく通じると考えています。何がしかの社会問題について疑問を持ったり調べたりして不満を持っていても、まず誰に話しても通じることもなく、一人で悶々と抱え込み、まして、自分の出番はないだろうと考えるのが普通です。
しかし、そんな一般庶民としての自分の発信だからこそ、大学教授や著名な評論家とは違って、聞く側も同じ目線に立ち、いままで意識していなかった問題に気づくこともあるかもしれませんし、また、自分の信頼する言論人の方のサポーターとなって講演会を企画するなどして、言論活動を応援するという方法もあります。
どのような方法をとるにしても、緊縮財政、グローバル化、地域の衰退などなど、大きな問題が山積していますが、それらについて問題意識をもった庶民が動くことで、玉突き連鎖のようにして、世論の認識を変えていくことでしか改善しないと考えています。
もちろん、それについては断言できませんし、結果は分かりませんが、しかし、つまるところ、自分が問題を感じるのであれば、著名であろうがなかろうが、名もなき一人一人の力を信じ、「自分にできるやるしかない」とは言えます。
私が「信州支部」を運営しているのは、そうゆうモチベーションですし、この信州支部メルマガもその一環として無力を顧みず続けています。
2021年に長野県松本市で「表現者シンポジウム」をやらせていただいてから、自分と周囲には多くの変化がありました。「できることを、できるだけ」の精神で行動することで、確実に自分と周りに少しづつ訪れます。
これからも、そんなことを想い考えつつ、「言論と歌(と登山)」に取り組んでいきます。皆様におかれましても自分にできる言論活動の方法や、大切にしたい趣味との付き合いについてお考えいただければ幸いです。
▼11月11日配信 クライテリオン編集長「藤井聡教授」の脅威的な言論活動に密着した動画を見ての感想
11月に入り今年も残すところあと、2ヵ月を切りました。時が経つ早さを感じる事ごろです。
そして、この「信州支部メルマガ」、今年の1月1日に宣言した通り、途切れさせずに何とか「週1発行」を続けてくることができました(最近は日曜日配信ではなくってしまっていますが…ギリギリ踏みとどまっています)。
週1回というペースで続けていくことの難しさを感じつつ「継続は力なり」。とにかく、あと2ヵ月なんとか根性で継続したいと思っています。
これまで続けてきたいくなかで実感しているのは、1回1回の文章構成や情報よりも発信を続けることで、自分が『クライテリオン』に学び、その議論を多少なりとも「長野県」で展開させたいという「本気さ」「思い」が伝えていくことが重要だと感じていることです。
また、この発信の継続が、今後、「信州支部」として情報を発信していくことに繋がることを願う気持ちもあります。
そして、お読みいただいている方にとっても、「名もなき庶民である自分にもできることがあるのではないか」という思いを持っていただければ、これに勝る喜びはないという思いもあります。
しかし、日々の「仕事(教育)」と「生活」があり、登山などの「趣味」があり、その上での「言論」の時間となっているため、なかなか時間をかけることができません。
また、仕事で疲れて帰ってくると、お酒を飲んだり、ネットで動画を見たりして時間を無為に過ごしてしまうことも多くあり、怠惰な自分を責めつつ継続するのをギブアップしたくなることもあります(多くの人にも覚えがあるのではないかと思います…)。
そんななか、『クライテリオン』編集長の「藤井先生」に密着するという動画が先ごろ配信されたのを見て大変驚嘆し、まったくスケールは違いますが、自分が憧れ、多少なりともこうありたいという人間像が示されていることに大きな感銘をうけました。
というのも、これまで、「ラジオ、テレビ、メルマガ、雑誌、書籍、SNS」で情報発信をしつつ、本職である「大学教授」を務められ、また、趣味の「釣り」と学生時代から続けている「バンド」活動も継続しているという、まったく人間離れした、ライフワークをどのよう日々こなしているのだろうかと疑問に思っていたからです。
この動画でその疑問の一旦が解けると同時に、その言論にかける気持ちの100分の1でも怠惰な自分を改め、できることを継続していこうと気持ちを新たにしたからです。
ということで、今回のメルマガでは、その動画のなかから自分が感銘を受けた点を取り上げたいと思います。
【1日密着】藤井聡[京都大学大学院教授/元内閣官房参与]に1日密着
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①巨大なゲームとして言論を見据える視点
言論活動の手法について説明する場面で、「みんなの意識を変えて、世論を動かして、政治を変えて、日本を救う」という言葉ででてきます。
そういう、大きな「言論ゲーム」を視野に入れて言論を活動を行っている人物が日本に何人いるかは分かりません。しかし、間違いなく日本の現状の改善に寄与する言論活動という意味では現在、日本で随一だと思います。それはこのような視点から生まれているかと納得しました。
「ゲーム」というと、軽い印象になってしまいますが、そこに、「日本を善くする」という非常に大きく崇高な目標を抱き、極めてプラグマティックに自身の持っているリソースを最大限に発揮し、目標を達成することに常に全力を傾注するという営みを絶えず続けていることに驚嘆する他ありません。
また、その大きな視野を持つことで、「自分がどう見られているか」というエゴイスティックな動機ではなく、あくまでゲーム全体のなかで効果的な言論を展開するか、という点に思考に焦点化され、そこに宿る謙虚さにも大いに好感を持ちました。
②言論における「研究⇒雑誌⇒メディア」の3重構造
自身の言論活動の構造について語っている箇所があり、
大学の研究室での研究が「アカデミズムのコア」で、その上に、ジャーナリズムのコアとして、『表現者クライテリオン』があり、それをベースとして、ラジオやテレビ、ネットで情報を拡散していく構造がある
と話されています。
「真実を探求する」という、アカデミックな研究をベースとして、方法論的な厳密な研究を、メディアでの発信につなげていくのは、いまの様々な情報があふれる現代において、信頼性を担保しつつ、言論をできるだけ拡散するという意味で、非常にバランスの取れた言論展開の方法だと思いました。
そして、これは、私自身が以前、表現者塾にて「仕事と言論の関連性」について質問させていただいたことと繋がる説明にもなっていました。
藤井先生からは、この質問に対して、
最初は「自身の研究」と「言論」は直接結び付いてはいなかった、しかし、何十年も試行錯誤してきたことで、少しづつ「研究(仕事)」と「言論」が結びついてきました
との回答をいただきました。
それを考え合わせると、このインタビューで話している「言論の3重構造」は、言論に関わりだしたときには見えなかったところから、積年の努力と試行錯誤の末に、できたがってきたものであることが分かりました。
まったくスケールも畑も違いますが、自分も「仕事と言論」の関連を表現者塾で学びつつ、時間をかけて見出していきたいとの思いを改にしました。
③「釣り」を通じて、確保される「自然との回路」
この動画の終盤では、「磯釣り」のエピソードが語られます。そこで、
磯はいつも自分がちっぽけな存在、未熟者であることを思い出せてくれる。そんな、汚染されていない気持ちよさがいい。
と語っておられます。
これは自分にとっては「登山」に通じるものがあると感じました。いつも、山に登ると一種の宗教性というか「崇高さ」を感じ、自分がいかに小さい、ちっぽけな人間であることを感じます。
これは、日本の高山が古くから山岳信仰の対象として信仰されてきた感覚や、日本おける山岳登山が近世の修行僧によって開かれたものであることに通じると感じています。
そして、このインタヴューでの発言を聞いて、これまで「表現者塾」の藤井先生の講義にて、先生が「磯釣り」に深く自分の心を傾けていること、またそこから多くの自己への反省や気づき得ていることを聞いたことから、私にとっての自然との回路として時間がある限り「登山」にも邁進していくことを決めたことも思い出され、大きな学びを表現者塾から与えていただいたことを振り返りました。
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今回の私の感想はこの3点に軽く触れる程度になりますが、他にも多くのことが語られているため、人によって学べるポイントが複数あるのではないと思われます。
しかし、何より本気で言論を展開するその「生き様」「姿勢」「人としての在り方」そのものになにがしかの感銘を受けるはずです。
ということで、藤井先生に対するイメージはそれぞれだと思いますが、まずは、その将来の日本を見据えて言論に取り組む「本気の精神」にはこの動画で触れていただけるのは間違いありません。また、そこから何かを感じて「1mm」でも自分にできることをお考えいただけたら幸いです。
私もつい最近も依頼したい件があり、メールを入れたところ、超多忙ななかにも関わらず返信時間「4分」という驚異的なスピードで返信を下さり、要件をすぐにご承諾いただくということがあり、そのスピード感に驚くとともに、これからも藤井先生の言論活動を『クライテリオン』の言論活動の末席から関わり学ばせていただきつつ、できるだけの応援をさせていただく所存です。
▼11月18日配信 登山と批評(文章表現)の関係ー『太陽のかけら』との出会いから
クライテリオン最新号(11月号)に、登山と批評の関係を扱った、「北海道知床よりー日本百名山と批評という仕事について」(165‐166)を掲載していただき、登山と言論の両方に関心を持つ自分にとって、「山と文章」を関連させて表現していくことが一つのスタイルになるのではないかと考えていたところでした。
「山」に登り続けるだけではなく、「山」という同じモチーフに別の側面である文章からも迫っていくことで、より立体的に奥深く山に向き合っていくことができるかもしれないとも…
そう考え、何から山関係の文章を読んでいこうかと思っていところ、『太陽のかけら―アルパインクライマー谷口けいの軌跡』という著書を、知人に紹介していただきました。
この本は、2015年に北海道の黒岳での滑落事故で亡くなった、「谷口けい」さんという女性登山家の生涯を、著者本人の回想も含めて、家族、幼少期の幼馴染、登山関係者といった多くの人間に取材し、その生涯を丹念に追った評伝となっています。
登山界では有名な方であり、野口健のヒマラヤ清掃隊に参加し、数々のヒマラヤの困難な岩壁の登攀を成功させてきた方です。しかし、この本はそういった輝かしい業績を紹介するだけではなく、谷口さんの内面をできうる限り深く見つめていこうという一貫した視点で書かれています。
まだまだ読み始めたばかりで、確かなことは言えませんが、谷口さんが、直に自分とそして山と向き合う姿から、自分が無意識ながら「登山」に求めていたものが明瞭になるのではないかとも感じています。
今後、読み進めるなかでご紹介したいところが見えてきましたら、このメルマガでもお伝えしたと思っています。今回は谷口さんが初めてヒマラヤに行かれたときの日記から気になった箇所を短く引用いたします。
「私は山が好きだ。ただ山を歩いているだけで幸せになる。山へ行くと気持ちに磨きがかかる。なんだか自分の中にもやもやしたモノがあるときは、山の中に行けばいい。山に行って自分自身と向き合えばいい」
「私は、ただ歩いているだけの山から、自然とシビアなものを求めるようになってきた。シビアであるほど自分の姿がよく見えるし、本当にいま必要なものが見えてくる。そこで見えた弱い自分に踏み倒されて終わるのか、それともその腐りかけた自分を乗り越えて強い自分と向き合えるのか。それが大きな分かり道。大地の上で、自分自身との闘い」
この姿勢は自己を見つめながら登山をする人間にとって自然と共感できる言葉です。そして、そのような登山の道程が「自然とシビアな登山」に向かっていくというのも頷けるものがあります。
このような言葉を自然に話す谷口さん、その生涯からどのような気づきがあるのか。これからじっくりと著書に当たってみようと思っています。
▼11月25日配信 登山と人生のパラレルな関係ー『太陽のかけら』の感想
前回紹介した、登山家 谷口けいさんの生涯を追った、『太陽のかけら』を読み進めています。そのなかで「登山とは山に自分のラインを引くこと」なのだと教えられました。
山岳という大自然が生んだ対象に向き合い、これぞと思える山を内発的に選びとり、どこを通っていただきを目指すか。計画と準備を重ね、当日は体力と知力を傾け、自身の思考と行動によって山頂を目指す。様々な天候や地形に左右されながら山頂に立つ。そして、下山も気を抜くことはできない。
そう捉えると、「登山」が創造的な行為のように思われました。
また、谷口さんの人生をたどっていくと、人との出会いや人生経験の積み重ね、それら全てが「登山」に繋がっていることが分かります。
著者の大石さんも、
けいさんは自分の弱さや、限られた可能性に真正面から向かい合い、行動し続けていた。たとえ逆風のなかにいても、自分の本当の気持ちと向き合い、流されることがなかった。(…)けいさんにとって重要だったのは、山頂を極めるということはなく、自分を乗り越えていく行為そのものの中にあったにちがいない。登山だけでなく、高校時代の旅、自活した大学生活、自転車での旅、そしてアドベンチャーレース……。そんなけいさんの行動すべてが、自分自身を克服し、次の自分になろうとする「冒険」だったのだ。(15‐16)
と語っています。
「自然から与えられた【生命】、同じく自然から与えられた【山】」というフィールドを重ねて捉えると、「人生と登山がパラレルな関係」にあることがはっきりと見えてきます。
「登山とは人生そのものだ」とは、よく言われる言葉です。まだまだ谷口さんがたどった軌跡や著書を読んでの感想がまとまりませんが、谷口さんの登山とはそうでしか言えないものであり。そこまで、人生と登山が濃密に関連さられる方はめったに現れないのではないかと思います。
だからこそ、そのような生き様からエネルギーをもらうことができ、たとえ登山をしたことがなくても、何かにチャレンジしようという志や想いを持ったからなら誰でも感銘を受けるであろう本になっています。
私自身もこ谷口さんの生涯から影響をつけつつ、内発的な声に耳を傾け、できる限り創造的な登山に挑戦し、またそれを仕事や言論にも生かしていく、そんな力強い励ましをいただきました。
この本では、そのような人を元気にするエネルギーのことを、タイトルともなっている「太陽のかけら」と呼んでいます。
エネルギーの一杯詰まった「太陽のかけら」に触れてみたい方がいらっしゃいましたら、是非著書をお読みいただければと思います。
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