top of page

保守思想は死ぬ運命にあるのか? 前編

【コラム】 東京支部 K.T(都内医師)


保守思想は批判には強いが、創造には弱い。私の保守思想への感想である。


私が、保守思想に惹かれるようになったのは、学生の頃に西部邁ゼミナールを見たことがきっかけだった。品格ある紳士的な身なりと茶目っ気がある優しい笑顔、親戚のおじさんと話しているような共感を抱くことができる生活の情感を根底に置いて、いつの間にか世界の最前線の問題を語ってしまうマジックのような言葉に魅了された。西部先生の議論は、社会問題の表面を撫でるだけではなく、鋭く文明の問題や人間の性にまで深層を抉る。そうして、その深層から誰もが経験するような日常茶飯事、政治、さらには戦争・歴史を一続きに語ってしまうのだ。そうして、このような苦難をこのおじいちゃんは実際に乗り越えてきたのだろうと思わせる重みがあった。このリアルな肌触りがある西部邁の言論は、本当にカッコよかった。西部先生に触れると、自分の生きている世界が実はもっともっと奥深く、大きく、繊細なものであるように感じられた。


というところまで書いて、ちらっと西部邁の著書を読み返すと、西部先生もそういうことを意識していたみたいでうれしい。晩年の著書「保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱」には、


(エドマンドバークやトクヴィルの例を挙げたのちに)彼らにあって概念は、けっして人工的な言語ではなく、根源的なセンチメンツ(情操)を表しうる語彙を日常的な言語のなかから探り出し、それをみずからの散文の中枢に据え置くためのものであったのだ。(中略)自己宣伝する気は毛頭ないが、述者はそのことを絶えず気にしながら保守思想を語ってきたつもりである。


とある。

様々なトラブルを共に乗り越えていく家族や仕事仲間、地域・近所、国家で醸成され共有された「根源的なセンチメンツ」を表しうる語彙=概念を中枢に置いて、生活〜政治までに対峙しようとするのが保守思想の流儀であるというのは、西部先生に先のように魅了された私にはとてもしっくりくる定義である。日常生活の知恵や良識から離れることを厭わずに、知性的に社会改革を行う革新と対をなす保守という態度・立場も明確になる。


しかし、である。


西部邁先生が晩年に到達した結論は、「絶望」であった。「絶望するものの数が増えることだけが希望である」とオルテガの言葉を引いたのは、感情的な絶望の手前に、社会に対する構造的な分析があり、それゆえに深い絶望であることが伺える。同著の中で、西部先生はさらに


現代文明が没落期に入っている

文明なるものは道徳・価値をめぐる文化的な基礎の上に成立するのだから、文明の没落とは『文化を失った半端な文明』が到来しつつあるという謂なのである


と指摘しており、この絶望は文明の没落期という取り返しのつかない歴史の強大な動きから生まれるものであることが窺える。


ここで、私には素朴な疑問が浮かび上がった。現代文明が、「文化を失った半端な文明」であるとするのであるのなら、現代に保守思想は存立しうるのだろうか?という疑問である。保守思想の流儀を実践する上で必要な、


文明に共有された、根源的なセンチメンツを拾い上げることは可能なのだろうか?

根源的なセンチメンツを拾い上げることができたとして、それは人間が繁栄するために有用なのだろうか?


これができないのであれば、保守思想は存立し得ないため、保守思想は死ぬ運命にあることになる。西部先生は、「保守の真髄」と題した晩作で、己の最期と共に保守思想にもレクイエムを捧げたのだろうか?


こういう問題提起は、保守思想について考えるうえで私は結構重要ではないかと思う。保守思想には、国家や社会の中に伝統的な良識や文化があることを前提としているはずだからだ。しかし、現代に日本人が共有している良識や文化はいったいどんなものなのか?と問われた時に、「こういうものです」と明示するのは難しいだろう。それは、西部先生が指摘したように近代文明の社会構造の変化に起因すると私は考える。


とりわけ産業革命と資本主義経済の発達は、その原理からして、社会の分業化と巨大都市の構築、短期利益を追求する企業を生み出した。これらの変化は、人間が自然を生きているという実感に大きな変化を与える。


大規模な分業システムがない頃は、自給自足的な生活実感があっただろう。多くの人が食物や衣類など直接命を支える仕事に従事していただろうから、地域で協力して生きているという実感があっただろう。ともに自然の中で生きていく地域社会における文化や道徳は、そのままその環境を人間が生きていくための知恵であって、「豊かな心を愉しむ教養」のような観念的なものではなかっただろうと考える。


しかし、産業革命と資本主義の発達によって大規模な分業システムと大都市ができると、一人ひとりの仕事はそれだけで命を支えるものではなくなっていく。ある機械の部品を作り続けてそれだけで食事にありつけるというのは、考えてみると妙な気がする。たしかにその部品が組み合わさって、社会に必要とされる機械につながるとしても、食事や衣服をつくったり、水路をつくったりして目に見える生活を支える仕事とは、自分の生活と社会の生存の距離に変化があっただろう。自分が従事している職業の利害と社会全体の利害は異なっているから、個人の人生を生き抜くための教訓は社会全体に共有されうる道徳にはなりえない。そういう仕事がダメだといいたいのではなく、社会の構造が複雑になったのだと言いたい。


都市が大きくなるとますます同じ都市に暮らす市民の仕事は細分化されていく。隣に暮らすご近所さんは、自分と全く違う生活を送っている社会で、同じ道徳や文化を共有することは難しくなっていく。かろうじて残った道徳や文化は、当たり障りのないものにならざるを得ない。個人の価値観は、社会全体の生存に利するかどうかとは分離していくのである。社会を動かすのは、短期的な利益を追求する経済主体であるならば、文化的なものの価値は商業的価値を生んだか否かで決められて、やはり社会や国家の存亡に不可欠な理念・世界観の象徴とは切り離されていく。

こうして、西部先生が絶望した現代社会が出来上がったと私は考える。


それならば、保守思想は、どうやって社会に共有された良識を取り上げ、しかもその良識によって人々の有機的な関係性を強靭なものにできるというのだろうか?この糸口を認めなければ、保守思想は死ぬ運命にあるのである。 

閲覧数:181回
bottom of page