価値観の再構築
- mapi10170907
- 2023年4月16日
- 読了時間: 5分
【コラム】 東京支部 市井のキムラさん
※本文中、敬称略
自己批評の無限後退そのものだった。批評している私を批評している私が永遠に繰り返されていた。自己の内面と表現の一致を求める私の潔癖は10年、いや20年近く続いていた。
ひょんなことから、ネット上でとある人物の名前を知ることになった。福田恆存である。
社会人になってからも図書館をたまに利用してはいたが、この時は図書館という選択肢を失念しており、amazonで「福田恆存」を検索し、中古でどの本を買うか選んでいた。
女性誌向けで言葉遣いが平易、というレビューに釣られて最初に買った本は『私の幸福論』である。
目次に並ぶテーマは、自由、宿命、教養、結婚…など興味をそそるものばかりであったが、はじめは思うように読み進められなかった。今でこそ福田の文体に馴染んでいるものの、現代仮名遣いとはいえ古めかしい言い回しの文章にとっつきにくさがあったことは否めない。黙読では埒があかず、音読も行った。そうこうしているうちに、次第に文章の断片が頭に入るようになった。今思えば音読に走ったのは正解だったかもしれない。「セリフとは自分に鞭打ち、行為を促す言葉である」といった旨を『翻訳論』にて福田が語っており、日本語のリズムにこだわっていたことを後に知ったためだ。
悪戦苦闘しながらしばらく読み進めていたところ、あるところで急に目が覚めた。
“が、「理解」という美徳にたいする信用度は、その辺で打ち切っておかなければなりますまい。”
“その上、なにより危険なことは、おたがいに理解しあったと思いこんだ瞬間、それからは相手を自分の理解力のなかに閉じこめてしまい、相手がその外に出ることを裏切りとして許さないということです。”
“「理解」という美徳の信仰は、自分をも相手をも、自分が理解した小さな枠の中に閉じこめてしまうことです。”
「完全に理解されないのであれば、最初から人と関わらない方がいい。よって、人には頼れない。自分で何とかしなければならない。」
などといった私の考え方は何か無理があるのではないか?
その調子で全編を読んでみると、福田の姿勢はもう一貫していることが分かった。「一般的にこのように言われているが、果たして本当にそうだろうか?このようには考えられないだろうか?」という態度。そして提示された考え(事実)は何も特別なことではなく、ちょっと立ち止まって身を振り返れば経験があるようなことだったりする。平易な言葉でありながらここまで懇切丁寧に語ってくれた人はいただろうか。ポリコレ、流行の考え、社会通念等私自身が「なんとなく違和感があるが、うまく言語化できず、こんなことを考えている私の方がおかしいのかもしれない」と思ってきたところを、こんなに平易な言葉で過不足なく言ってのける人物がいたという衝撃。福田は有能な代弁者であると同時に、真顔で致命的な弱点を指摘してくるいけ好かない奴でもあった。
(とはいえ、福田の表現は誰もが知っている言葉を使っているがゆえに、時に大変な誤解を招きそうではあるし、実際それで福田は各所から反発を受けてきたときく)
これまで築いてきた価値観を再構築せねばならない状況に追い込まれていた。「自我の解体手術」とはまさにこのような状況のことかもしれない。
曲がりなりにも学習を積み上げてきた私は、知識を得ることは身軽になることだと思っていた。が、これもまた大きな思い違いだったようである。浜崎洋介のこの表現はまさに私の手応えそのものだった。
「性急に自己回復の夢に飛びつくことは同じことの繰り返しでしかない。私はただ待つしかなかった。私の意識を超えて、私のなかに残る手応えがあるのかどうかを確かめること、そして時間に洗われなお残るものがあれば、それが何なのかを見極めること。フットワークの軽いはずだった私の足取りは次第に重くなり、現在進行形の言葉、未来展望的な言葉を必要としなくなった。」(福田恆存 浜崎洋介編『保守とは何か』編者解説)
“あらゆる精神的転機とは――ぼくにはこのやうにしか考へられない――それは新しい事態の生起ではなく、自分の精神の内部のいくつかの可能性とおもはれたものが、外部的な、あるいは内部的な、限定を受けて死ぬことにほかならない。はじめから存在しないものが新しく発生するのではない、いままで存在してゐるとばかりおもつてゐたものがさうではなかつたといふことに気づくだけの話だ。”(福田恆存「チェーホフ」)
何かに気づいたとて、人生はそこからかろやかに転じるものではないらしい。
あの時了解した言葉は、まさにあの時の私の理解の範疇で了解したに過ぎず、理解という行為がかように動的なものであるならば、私は再び理解をしなおしていくことになる。不思議な話だが、文章は一言一句変わらないのに、読み手である私の方が変わっているために、読書における理解は非常に動的なものとなっているようである。
じめっとした手触りのものを触らねばならないような気がしている。それは、一人の生活者としての私を生き切ることを通じて。ところが私の性格は常に未来を先取りしようとしてきた。
早急に答えを出そうとしない。答えはこれと明示できるものではないかもしれない。答えは必ずしも私にとって快楽なものではないかもしれない。そして何も掴めぬままいつの間にか時間切れを迎えるかもしれない。それでも今のところ自裁せずうっかりここまで生きてきた事実はなんなのか。
私は近代日本の自己喪失を語るこの界隈の言論を見聞きするたびに、まるで自分のことのようだと感じていた。一流の文学者と無名の凡人を並べるのもおこがましいが、芥川龍之介や夏目漱石の苦悩を自身に容易に重ねることができたからかもしれない。
古い動画だが、浜崎洋介と柴山桂太が小林秀雄について対談しているトークイベント※がある。そこで語られていた中上健次に関する考察、「落差の経験」は私自身にも自覚があった。そしてその落差によって今の自分が在ることにつよくうなずいた。この分裂に秩序を付けないと生きていけない気がしていた。「分裂した私の縫合」である。
※「浜崎 洋介×柴山 桂太 ~グローバル時代に小林秀雄を読む~」
丸善ジュンク堂オンラインコンテンツ https://youtu.be/-ywgFxuop30
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