仁徳天皇陵遥拝所の老人 方位角27度の謎
- 5月18日
- 読了時間: 4分
【コラム】 東京支部 深沢 功
「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶ)り立つ 民のかまどは にぎはひにけり」
仁徳天皇の御製です。天皇が、難波高津宮から遠くをご覧になられると、人々の家から炊煙が上がっていないことに気づきました。かまどより煙が上がらないのは、災害や飢饉に見舞われて、食べるものが十分でないからだ、と考えられ三年間の税の免除をされました。その結果、また、煙が見えるようになったことを喜んで詠われた御製だそうです。まさに「仁」「徳」の名にふさわしい天皇といえるでしょう。
その仁徳天皇の御陵を、昨年(2025年)3月に訪れる機会を得ましたので、外周約3キロを歩いてみました。途中、遥拝所でお参りしていると、ある老人の方(後でお年を聞いたら80歳だそうです)から話しかけられました。そして、明治20年ごろの(140年ほど前)日本陸軍作成のA3版の古地図(下の地図)を渡されました。同じ地図を何枚も持っていたことから、私だけでなく、何人もの方に渡して、話をしているようでした。

その話は、仁徳天皇の御陵の向きについてでした。この向きに意味があるとのことですが、その説明を受けましたが、いきなり話しかけられたこともあって、理解できないでいました。その話の終わりに、その方は両手は開げ、片方の手を太陽に、もう片方を遥拝所の鳥居に向けたのです。その手で示された方向は御陵の中心線を一直線に通っているようでした。時刻は午後1時をすこし回った頃です。
このことから、太陽が御陵の上で一番高い位置になる、子午線上の南中の角度を言っているのだろうと思いましたが、家に帰って良く考えてみると、12時ジャストならともかく、午後1時では、太陽は頂点からはずれてしまうので、この意味ではなさそうです。
そもそも、御陵の角度は何度なのか? 渡された地図は、コピー時にきちんと角を合わせてなかったのか、若干斜めに印刷されてます。これでは、この地図に作図して角度を割り出そうにも正確な数値は出せません。地図上で1度狂えば、実際の地形では大きなズレが出生じるからです。渡された地図では意味をなさないと思い、ネットで国土地理院の地図を使って、この角度を探ってみました。
それによれば、下の地図のように、御陵の傾きは真北から方位角27度の方角になります。反対方向の南に向く角度は207度になります。しかし、角度は分かりましたが、この角度にどんな意味があるのでしょうか?

そこで、国土地理院の地図は、角度を維持したまま拡大も縮小もできますので、方位線を残したまま縮小して日本列島の全体像が表示されるまで領域を広げてみました。

すると、上図のように日本列島の中央部を斜めに縦断する線が浮かんできました。
27度線を北北東方向に延長してゆくと、「能登半島の珠洲崎」を通ります。ここは先の地震で相当な被害を受けた所ですが、静岡県の富士山、長野県の分杭峠、とともに日本の三大パワースポットの一つに当たる所のようです。
インターネットでは、『珠洲岬はパワースポット、聖域の岬』として紹介されています。
また、反対方向の南南西、207度方向に方位線を延長しますと、紀伊半島で四国にいちばん近いといわれる「和歌山県の日の御埼」を通ります。
同じようにネットを探ってみると『ここから紀伊水道を見下ろす眺望はすばらしく、その夕陽は和歌山県の朝日・夕陽100選に選ばれています。』とあります。こちらも太陽の運行と深く関わる土地のようです。
以上のことから御陵の向きは日の出、日の入りの景勝地と深い関係があるようなのです。ただ、その方がこのことを意識していたのかどうかは、連絡の取りようもないので、今となってはわかりません。しかし、この指摘がなければ上述したことは見落とされてしまうところでした。
御陵の向きについては、このほかにいろいろな説あるようです。しかし、ネットで、それぞれの説をあたってみましたが、この珠洲崎と日の御埼ラインについての記述をみなかったので、これは新たな発見だと思うのです。
さらに五世紀ごろに、どうして当時の人々が、この知識を得ていたのかも疑問です。偶然にしては出来過ぎです。古代史の謎がまた一つ増えてしまいました。
私がこのことを書くにいたった動機は、その方がこのことを、一人でも多くの人に伝えようと、誰に言われるでもなく、しかも無償で行っている、その姿勢に感動したからです。
御陵を呼ぶ時にも、仁徳天皇陵、大仙陵古墳、大山古墳ではなく、「仁徳さん」と親しげに呼んでいました。「子供の頃は囲いの破れたところから中に入って良く遊んだよ」とも話してくれました。この方にとって仁徳天皇の存在は、歴史を記述した文字の中ではなく、身近な、親しい、生活の中に溶け込んだ存在なのです。仁徳天皇はこの方の中で今もなを生きているのです。ここには資料や文献では語られることのない、生きている歴史そのもがあると思いました。
お名前を聞いたのですが答えてくれませんでしたが、埋もれてさせてしまうのは惜しいと思い、ここに投稿させていただきました。
仁徳さんに反応してしまいました。
大仙公園はピクニックや遠足でよく行きましたし、短大生の頃は仁徳さんのそばの蕎麦屋でバイトしていたので懐かしいです。
ですがそんな謎は全く知りませんでした。
仁徳さんではありませんが、今も古墳群の中に住んでいます。うちの母はいつも「ええ場所に住まさせてもろてる」と言うてます。
関西支部 N