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人類が亡びぬために――家を守る意識

  • mapi10170907
  • 2024年11月24日
  • 読了時間: 5分

【コラム】 東京支部 小野 耕資(思想史家・『維新と興亜』副編集長)


夫婦別姓の議論が喧しい。いわゆるリベラル派に限らず、経団連までもが夫婦別姓を推進しているのは驚きである。夫婦別姓を選択すると、両親どちらかと生まれた子供の姓が異なるという状況が起こり得る状況となり、ややこしいことになる。家族としてのアイデンティティも希薄になるだろう。

一番許しがたいのは、いま法制化されようとしている「選択的」夫婦別姓だから問題ないという言われ方である。要するに全員別姓になるわけではない、いやなら同姓を選択すればいい、反対する理屈にはならないというわけである。だが、姓の問題という、歴史的、文化的、社会的に決定されるべきことを「個人の選択」などで左右してよいと考えること自体が、なんでも個人の自由、自己責任を重んじるネオリベラリズム的発想ではないだろうか。ホリエモンこと堀江貴文氏などネオリベラリズム的発想を持つ人も選択的夫婦別姓に賛同しているところからもそれはうかがえる。

前近代においてはわが国も別姓であったのであるから、歴史的、文化的、社会的に議論したうえで別姓にするという選択肢がないわけではない。しかし個人の選択に任せてそれでよいなどということはあり得ないのである。

既に結婚後の姓は夫のものとするか妻のものとするかを任意に選択する制度になってしまっている。その時点で風穴を開けられていたと言えなくもないが、強硬に反対していくべきであろう。


 また、新紙幣でもこんな問題が起こっている。

 本年から新紙幣に変わったが、渋沢栄一の新一万円札は、結婚式のご祝儀に使うべきでないというのだ。渋沢が妾を持ったことが不倫を連想させるというのだ。

 だが、当然のことながら妾を持つことと不倫することは全く異なる。こんなことを容認してしまったら前近代~近代初期の歴史的に著名な人物は、側室がいた人物の方が多いのだから、誰も使えなくなってしまう。ほとんど難癖に等しい議論である。

 最初は目立とうとした自称マナー講師が突拍子もないことを言っているとしか思っていなかったのだが、どうやらブライダル業界にも一部同調する人もいるらしい。このようなポリコレしぐさが、歴史上の人物の評価にまではびこるのは大いに問題であろう。


ところで一夫一妻制はキリスト教の習慣であって、わが国に伝統的になじんだ習慣ではない。新約聖書にキリストが「1人の男子と1人の女子が結婚して一体となることが神が定めたもうた秩序である」と述べるなどその由来となる一節があることに由来している。だがアブラハムやヤコブなど、旧約聖書に登場する著名な人物も一夫多妻であり、ソロモンは妻700人と妾300人を持っていたとも言われる。だがこれは前近代であればある程度当然のことである。一夫多妻制で有名なイスラム教も、男性の戦死者が多かったことから、寡婦を救済するために平等に扱うことを条件として四人まで妻を持つことが許されているのだ。このように必ずしも一夫多妻制だから女性蔑視というわけでもなく、またそこに無秩序な婚姻関係があるわけでもない。

会沢正志斎の『迪彝編』では、むしろ家を守るために一夫一妻制に留める事こそ倫理に悖る行為だと論じている。男女ともに同じ人間なのだから、一夫一妻制が当然のように思うかもしれないが、子孫を絶やさぬよう家を保つということは重要なことで古の賢人も説いたところだと述べている(男女ともに同じき人なれば、一夫一婦にして匹配するを其の道と思ふべけれども、(中略)妻を娶る事は、祖先の後を重んじて子孫を絶たざらんとの義なれば、天地の道に随ひ、妻妾を蓄へて継嗣を広くする事、聖賢の教なり。<岩波文庫>)。


ここに現代のわれわれが忘れがちな重要な論点が提示されている。正志斎は男女が結婚することは子孫を残し祖先の祭りごとを絶やさぬようにすることだと述べているのである。夫婦別姓も、妾を持つことへの過度なポリコレ意識も、現世のわれわれの選択のことばかり考えている。だが、われわれには先祖がいて、子孫がいる。その縦軸を守る存在として家族がある。姓を同じくするのもその縦軸の証明なのである。

 昨今は自由恋愛がはびこり、そもそも結婚が恋愛の延長戦となり、現世主義に毒された。自由恋愛とは競争であり、競争であるからには負ける者が多数出るのは当然である。昨今結婚しない若者が多数出るのも、自由恋愛である限り当然なのである。さらに若者への経済問題も加わりその深刻度は増し、わが国は人口減少社会に突入してしまった。かくいうわたしも独り身であり先祖の祭りを絶やす怪しからん存在と言えるのかもしれないが、自由恋愛による婚姻、核家族化が果たして先祖の祭りを守ることに繋がるのかは疑問であり、その意味ではわたしが生まれる前から既に滅んでしまっていたともいえる。

 近代の現世主義を真剣に見直さない限り人類は滅びる。恐竜は隕石の衝突で亡びたのかもしれないが、人類は家を忘れた現世主義・自由恋愛によって滅ぶのではないか。やや突拍子もない結論になってしまったし、すぐさま一夫多妻制に回帰することは現代日本では難しいだろうが、少なくとも家族に関する現世主義に疑問を持つことくらいはできるだろう。そこに先人の伝統的叡智がある。

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