三か月で教えられること、十年かけて身につくこと 〈前編〉
【コラム】 東京支部 市井のキムラ
先日、表現者塾オンライン納涼会に参加した。動画会員として毎月塾には参加していたが、入塾初期の頃のような猛烈なインプットへの欲も落ち着き、しばらく同人ブログに投稿したいことも特になかった今日この頃。
そんな中、今回の会への参加をきっかけに、久々に表現したいことが湧いてきたので、その記録をしておきたいと思った。
オンライン納涼会では特に、政治と文学(言論)の峻別の話が印象に残った。とあるきっかけから福田恆存を知って以来、福田を思想の軸に据えている私なので、「一匹と九十九匹と——ひとつの反時代的考察」や「言論の虚しさ」を収録している浜崎洋介編『保守とは何か』を片手に話を聞いていた。
政治と文学は峻別されながらも、互いに無関係ではいられない。福田が「一匹と九十九匹と」の中で指摘しているように、良き政治は良き文学に支えられ、良き文学もまた、良き政治のもとでこそ十全にその力を発揮する。一方だけが突出して成熟することは難しく、結局、政治と文学は互いに近い水準へ落ち着いていく。
議論の中でも触れられていた、西部邁による政治と文学の峻別の実践。単なる概念上の整理ではなく、政治と文学の峻別を実際にどう生きるのかという、生の実践の話を聞いたように思った。
会の最後に勧誘(?)もあったので、この度遅ればせながらクライテリオンサポーターズプレミアムに入会した。入会特典の選べる冊子を何にしようかと悩み、ちょうど現在、新体制の『表現者クライテリオン』が始まったということもあり、前回のターニングポイントでもある、藤井聡前編集長就任第1号となる第二期創刊号を選択した——雑誌というものは、創刊号にその思想が宿るのではないだろうか。
手元に届いた第二期創刊号をさらっと読んでみると、今まさに私が考えていたこと、表現したいと思っていたことにドンピシャな論考があって驚いた。むしろ第二期創刊号のテーマは、私の論考ど真ん中の「保守とクライテリオン」。今回はそれにインスパイアされながら筆を執った次第である。
——
十年ほど前だったと思う。堀江貴文氏の「寿司職人になるために何年も修業する必要はない」という主張が話題になった。
寿司の握り方や魚の扱い方を集中的に教えれば、何年も皿洗いをしてからようやく包丁を持たせてもらう必要などない。実際、短期間で寿司職人を養成する学校も登場している。
当時の私は、この言説に違和感はあったものの、有効な反論を見出せなかった。寿司を握る技術を身につけることが目的なら、必要な技術を分解し、体系立てて教え、集中的に練習した方が早い。十年かけて身につけていたものを数か月で身につけられるなら、その方がいい。
ちょうどその頃、私は食品・食品添加物を扱う卸兼メーカーの研究所で、食品の試作開発業務を担当しており、新卒1年目社員のOJTに数年関わっていた時期だった。当時、新卒1年目社員は、研究所で試作開発業務を行っている先輩社員の下で約十か月の OJT 研修を受けることになっていた。私を含め、研究所のメンバーはおおよそ担当領域が決まっているため、新入社員は担当の先輩が受け持つ領域を中心に学ぶことになる。
たとえば、ゼリーなどに使用するゲル化剤を担当する先輩につけば、一年間ほぼゼリー関連の素材を扱い、畜肉系の先輩の下につけば、畜肉の品質改良に関する商材に詳しくなる。私が新卒で入社した頃も、そのような形でOJTを受けていた。
しかし2015年頃から、新卒社員の側に少しずつ考え方の変化が感じられるようになってきた。新卒社員の側から、「翌年営業になればゼリーだけを扱うわけではない。肉も魚も、さまざまな食品を扱う。それなら一年間でいろいろなものを経験させてくれた方が、より実践的なのではないか」という意見が上層部に上がるようになった。実際、二年目に営業へ配属される率は高かった。
この意見自体はリーダー層に伝えられたものであり、私に直接向けられたものではなかったが、あとからこの話を聞いたとき、たしかに一理あると思ってしまった。翌年営業に出るのであれば、一年間ゼリーだけを扱うより、肉も魚も含めて広く経験した方が役に立つようにも思える。
反論できないのなら、すぐに新人側の意見に賛同できるはずだ。だが、なぜか立ち止まった。
「一つのジャンルを一年やり続けることの意味は本当にないのだろうか。単に昔からそうしてきただけなのか。」
「広く経験させる方が、やはり合理的なのではないか。」
当時の私には、結局この問いに答えを出すことができなかった。
今振り返ると、福田恆存が「私の保守主義観」で記した次の一節が、妙に重なる。
「保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。『敵』に攻撃されて始めて自分を敵視する『敵』の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。」
当時の私は、まさに「武器」を持っていなかったのだと思う。
昔から続いてきたやり方に、何か意味があるような気はする。しかし、「それは非効率ではないか」「もっと合理的な方法があるのではないか」と問われると、その意味を自分の言葉で説明できない。そのやり方を守りたいのかどうかすら、実のところよく分かっていなかった。ただ、何かを取りこぼしているような気がしていた。
《後編に続く》
コメント