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レジリエンスフェスティバル2024・ビフォーアフター

【コラム】 関西支部 中尾 恵

以前から、水仕事の最中にえも言われぬ幸福感に包まれることが時々ありました。自分の垣根がなくなり全てと繋がっているような、許されたような感覚。居場所を与えられ、そこにスポッとはまるような感覚。この感覚は得ようとして得られることは稀で、たいていは突如やってくるものだったのですが、2024年末に開催されたレジリエンスフェスティバル後は、この感覚が私のデフォルトとなったほどに見える景色が一変してしまいました。


過去のフェスティバルはしばらく立ち上がれないほどのショックがあったので、始まる前は少し身構え怯える心持ちだったのですが、今回のフェスティバルでは福音を受け取ったような気分です。


共同体レジリエンスの聴講中、日頃「自分」と思っている「自分」を、もうこんなもの要らないと捨ててしまいたくてたまらなくなり、その「自分」が本当に剥がれてしまうような、もぎ取って捨てるような感覚を覚えました。例えるなら、これまでの先生方との交流や学びを通してグラグラになっていた乳歯をいよいよ引っこ抜いたような感覚です。「自分」を捨ててしまったところに現れたのはまた自分でした。けれど、現れた自分はもぎ取って捨てた「自分」とはまったく違うもので、とてつもなく大きいーーというよりは全てと繋がっている感覚に「こっちが本当の私?」と驚きがありました。


帰りはいつも一緒になる支部のメンバーらと軽く食事をしたのですが、いつになく楽しい時間となりました。先生方には呆れられそうなくだらない話ばかりでしたが、キャッキャと笑い合える時間が本当に楽しく、私の離婚の話を突っ込んで聞いてくれたのも、普段話すことのない心情を少し話せたのも嬉しいことで、ここは紛れもなく私の居場所の1つと、ほくほくした気分で帰路につきました。


元々、神前で交わした婚姻を破った自分への不信感、嫌悪感から人生に対して心を開くことが出来ずにいたことに加え、インボイス騒ぎがあってからは更に社会に心を閉ざすようなところがありました。今後への不安以上に、SNSなどで書かれる言葉を見ていると誰とも話をしたくなくなり、これまで既得権だと叩かれた人たちの悔しさを身を以って知れたことは一つの学びじゃないかと自分に言い聞かせながら、大和川から二上山を眺めては心を落ち着かせていました。昔の人も同じように二上山を眺めて自分を慰めていたかもしれないと、周囲に求められない繋がりを歴史に求め、正気を保つ拠り所としていたのです。


「自分」を捨てると、縦にしか感じられなくなっていた繋がりは横にも広がりを見せ、自分の人生をもう1度しっかり生きてみようと思えるようになり、二上山の姿はすべてと繋がっていることの喜びを分かち合うものとなりました。山肌の澄み具合や霞み、空の色、鳥の群れ、群れから遅れた一羽、キャッチボールをする親子、井戸端会議のご老人、通り過ぎるトラックや営業車、そこにある営みに愛おしさを覚えます。これこそが私が生きている世界そのもの。これが世界の実像ではないかーー。

フェスティバルから1ヶ月が経ちましたが、どこにいても何をしていても幸福を感じています。いつもと変わらない毎日ですが、見える景色の違うこと。


考えてみれば、風向き一つで変わるような世論に心を乱される必要はありません。現実問題として、困る政策には異を唱え、怒るべきものに怒ることは大切ですが、自分の在り方とは関係のない話だったのです。


フェスティバルでの、まだまだ勝ち目はある、やるべきことをやっていない、正直で素直であれば復活なんて朝飯前というお話は疑うべくもない真実として響きました。


政治やメディアの腐敗は止まるところを知らず、暮らし向きも良くならず、世の中が荒んでいく中、「自分」を守ろうとどんどん「自分」を着込んでいく人が多いように感じます。けれど着込めば着込むほど不安も苦しさも増すばかりです。


  国治つてよき武士の忠も武勇も隠るゝに、

  たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるゝ。

  ためしをこゝに仮名書の太平の代の政。


昨年秋に関西支部のメンバーで観賞した文楽「仮名手本忠臣蔵」の冒頭の一節です。世間が如何様であろうと、乱れていればこそ、実像の世界に身を置いて心を開いていること、素直に朗らかに生きることは誰かの助けになるのではないでしょうか。

何よりも私自身が私自身のためにそうやって生きていきたい。



Amazing Grace

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