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マスクせぬ者を睨みつけ、自由を語ることなかれ

  • yoshida910
  • 2023年5月14日
  • 読了時間: 4分

【コラム】 東京支部 吉田真澄


 何度睨まれ、何度注意を受けたことだろうか。特に困惑したのは、喉の渇きを癒しに立ち寄ったコーヒー店で「飲んでないときはマスクを着用してほしい」と女子店員に促され時である。仕方なく、マスクを顎にかけ、上げ下げしながらアイスコーヒーを飲んだが、なんだかちっとも旨くない。早々に退散し、まったく凄い世の中になったなあ、と感嘆したものであった。


筆者が人前で大っぴらにマスクを外すようになったのは、新型コロナが大分、落ち着き始めた2022年の10月頃である。それまでは、渋々ではあるが電車の中でも、仕事の打ち合わせ時にも、講義時にもマスク着用に努めてきた。無意味だとは知っていたが、いちいち変な目で見られ、時には、はっきりと注意されることに疲れ果てていたからである。ところで、本稿を書いているのは2023年GWの序盤である。友人との待ち合わせの場所へ向かうために、久しぶりに乗った午後の電車は、そこそこに混み合っていた。そろそろどうだろう?と期待はしていたが、やはり、ほとんどの乗客(幼な子まで)が未だマスクをし、大人たちの大半はスマホの画面を眺めている。そしてノーマスクの筆者を認めると、ちらりと顔を上げ、二人ほどが、小さな棘のある視線(以前より、マイルドにはなったが)を送り、ふうっと溜息でもつくかのような表情で、またスマホへと帰っていったのである。


私は考えた。そして彼らに問いたくなった。「あなたたちは、自由を愛していますか。本当に愛していますか。思想・信条の自由って、自分の頭で思考することが基本ではありませんか。そして他者の自由も愛せますか。あなたたちの正義って何ですか。周囲と自分を合わせることですか。あなたが、自分の頭で確かめたことのない正義って本当に大丈夫ですか。こっちこそ、溜息つきたいゼ。」まるで10代の青年のように、そう叫びたくなったのである。


彼らには、彼らなりの言い分もあるのだろう。だいいち、ふだんは仕事で忙しいし、細かいことまで調べられないし、大勢に合わせているのが、まあ無難な選択なのだろう。もちろん、規律を重んじることや、自由の大切さも知っているのだろう。問われれば、少数派の意見も尊重する、なんて答えるのだろう。しかし、敢えて言いたい。


あなた方は、自由を抑圧している。

 

その自由とは、パンデミック当初はともかく、ある程度の時間が経過した頃からは、健常者が社会の前面に立ち、弱毒化したウイルスを僅かずつ穏やかに吸い込み、自らの自然免疫を強化することを通じてコロナウイルスに備え、同時にその身体を通して社会的な弱毒化プロセスに参画・交流(もちろん、マスクなど外して)し、そもそも逃れきれるはずもないウイルスとの共存状態を一刻も早く確立する(今、考えれば、最も科学的であり、犠牲者数を最小化できたはずだ)という、生命体の原理に沿った根源的な対策を選択する、自由である。


 実際に筆者は、テレワーク等で減少した対面会議や打ち合わせの機会を補うために、コロナ禍以前より頻繁に外出を心がけ、連日の報道に震え上がり、家に引きこもりがちになっていた九十歳の実母を週に一度は、居酒屋へ連れ出し、人々と会話させ、就寝時には漢方薬を飲ませる、という荒っぽい方法でことなきを得ている。しかし、「薄く、穏やかにウイルスに身体を馴染ませていきたい」という筆者の(確固たる厚労省史観と、それなりの科学的知見にもとづく)マイナーな自由は、彼らの視線と言動によって、陰に陽にプレッシャー受け続けてきた。そして、ウイルスを必要以上に恐れ、忌避する態度は、過剰適応とも言える社会現象を生起させ、世界屈指のワクチン接種率を達成し、同時に驚異的な(英国『ランセット』2022年3月)超過死亡者数(人口動態統計2021年、2022年 厚生労働省)を記録する結果(因果関係は不明、とされているが接種日と死亡日や副反応疑い初診受診日の近接分布が、高い相関関係を示唆している、と筆者は考えている)を招来している。


 この場所には、カムパネルラもジョパンニもいない。他者を覗き見ることはするが、他者を深く思うことはない。銀河など見えるはずもない晩春の午後の車中で、N95マスクを試着した時よりひどい息苦しさを覚えながら、少し不安になった。「この電車は一体どこへ向かっているのだろう。」



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