キリスト教の「不都合な真実」
- poisonfrog777
- 5月2日
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更新日:21 時間前
【コラム】 東京支部 田尻潤子(翻訳業)

【※配信開始後、加筆修正しました(筆者)】
自分はプロテスタント教会で洗礼を受けた身だが、一部のキリスト教徒が主張する「聖書無謬説」は支持しておらず、イエス・キリストの物語に神話的な脚色があるのは当然だと初めから思っていた(それでもキリストへの敬愛の念は人一倍あると自負している)。しかし、聖書研究の学問的手法である高等批評を学び(1)、さらに聖書の歴史にも触れるうちに、新約聖書に改竄・改変・加筆・誤訳など(2)が多々あることを知ってしまった。それはキリスト教の根幹を成す概念にまで及んでおり、「多少の脚色」として看過できる範囲を超えていたのである。
イエスの説いた教えというと神の愛や真福八端が思い浮かぶが、高等批評の専門家らの見解では、イエス本人にとっては終末論のほうが優先順位が高かったようだ(3)。贖罪の犠牲となるために神に遣わされたのでもない。そもそも「原罪」という概念自体が後世に作られたものなのだから、イエスがそれを「贖う」必要もないということになる。
福音派は聖書の比喩的な読み方を一切認めない。イエスが魚とパンで5,000人を満腹にさせたという話(マタイ14:13-21)を例にとってみよう。「イエスの話に感動して『心が満たされた』結果、空腹を紛らわすことができた」を比喩的解釈とすれば、聖書を「一字一句、字義通り」に読む人々は(物理法則を完全無視して)文字通り何もないところから大量の魚やパンをイエスが出現させたと信じる。しかし、聖書理解にある程度柔軟な姿勢を保っている教会の信徒でさえも、原罪や贖罪論、三位一体などキリスト教の中心的思想は「比喩的」には受け止めていないことが多い。文字通りすべての人間はアダムとエバから「罪」を受け継いで生まれてくるのであり、イエスはそんな人間の「罪」を贖うために神から地上に遣わされたのであり、神とイエスと聖霊は一体なのである。これらの概念は最初期のキリスト教には存在していなかった。
カトリック・プロテスタントなどを問わずキリスト教の基本的な信仰内容をまとめた「ニカイア信条」というものがある。ところがニカイア信条の中で歴史的事実なのは(イエスが)「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」の一箇所だけらしい(4)。
元来イエスには「キリスト教」というものを新たに打ち立てようとする意図はなく、初期の弟子たちの活動は「ユダヤ教の改革運動」のようなものだったはずである。しかし長い年月を経て、それは全く「別物」に変貌を遂げていった。イエスの存命中に会ったことすらない後世のキリスト教徒たちが、自分たちの神学的立場や目的に一致させるために付け足していった要素をすべて削ぎ落とし、史実として蓋然性の高いものだけを順を追って大雑把に述べると、次のようになる:
イエスが自らの教えを伝え広め始める
↓
弟子ができ、支持者も増える
↓
イエスの言動はローマ帝国支配に対する反逆と当局にみなされるようになる
↓
よって逮捕され、ローマ帝国に処刑される
↓
イエスが説いていた「終末」は結局起こらなかった
↓
イエスを信じた弟子たちがこの結果を受け入れるためには、
「別の筋書き」が必要となる
↓
イエスの死は、旧約聖書の預言に沿った出来事だったと
解釈されるようになる
↓
イエスの「復活」を信じた弟子たちによってイエスはさらに神格化される
↓
神格化の過程で、イエスの教えはユダヤ人だけでなく
異邦人にも適用されるべきものとされ、普遍的な宗教へと変化していく
ユダヤ人の間には、長年の苦難の歴史を背景に、「救世主(メシア)」を待望する思想が根付いていた。また、イエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネも、イエスに先立って終末論を説いていた。こうした動きが生まれやすい背景があったといえる。
イエスの説いた「終末」とは、「まもなくこの世が劇的に変化し、神の裁きが行われ、悪しき勢力が滅ぼされる」というもので、この「勢力」には、当時ユダヤ人を抑圧していたローマ帝国も含まれていたはずである。そして、その出来事の後に「神が統治する世界(神の王国 Kingdom of God)が到来する」というものだった。
しかしながらユダヤ人が伝統的に描いていたメシア像はイエスのような人物ではなく、強力な指導者として軍を率い、支配者を打倒する存在であった。よって、ユダヤ教徒はイエスがメシアだとは――ましてや処刑されるような者など――認めない。キリスト教徒は「イエスは預言を実現した」つまり最初から神によって決められていたことだと主張するが、これはユダヤ教徒にとっては受け入れられない話である。新約聖書が作成・編纂される過程やその後の伝承の中で、「イエスは預言を実現した」というストーリーになるように、イザヤ53章や詩篇22篇など旧約聖書の中の特定の箇所が文脈から切り離されて本来の意味とは異なる形で解釈されたり、文書にあれこれ手が加えられたりした。新約聖書の中でユダヤ人はたびたび「頑なにイエスを拒絶した、頑迷固陋で無知蒙昧な罪深き民族」として描かれているが、これは(悲しいことに)キリスト教徒による一方的なレッテル貼りだったのだ。
上述の「ニカイア信条」には、他の様々な神学的立場を「異端」として排除して最終的に勝ち残った一派の思想が色濃く反映されている(5)。
人はしばしば自分の信じたいものを最優先させるあまり、その説明は「後付け」にしがちである。イエスの弟子や信徒たちは、自分たちがつき従った師の早すぎる死、そして彼が訴えていた「この世の終わり」がついに訪れなかったという現実をそのまま受け入れることができなかった。その結果、「物語」が構築され、広がっていった。そもそも私たち人間は物語を求める生き物なのだ(6)。
とはいえ、それでもイエスを「歴史上の一人物」とまで矮小化したくはない。イエスが身の危険を顧みずに既得権益層に真っ向から楯突いたり、社会で立場の弱い人々に寄り添ったりしたということは事実である。その精神(7)によって(だけでも)、キリストはこれからも唯一無二の存在であり続けるだろう。
1 バート・D・アーマン『書き換えられた聖書』筑摩書房、2019/J・S・スポング『信じない人のためのイエス入門』新教出版社、2015/Ehrman, Bart D. How Jesus Became God HarperOne, 2014/Sanders, E.P. Historical Figure of Jesus Penguin, 1995/Schweitzer, Albert. The Quest for the Historical Jesus Jovian Press, 2018 など。
2 具体例を挙げ始めたらきりがないので、興味のある方には邦訳版もいくつか出版されているバート・D・アーマン氏(聖書学者/歴史学者)の著書をお薦めする。
3 4つの福音書の中では最も古い「マルコによる福音書」ではイエスが終末論を語る場面が多く、マタイにある「山上の説教」のような道徳的な教えはほとんど登場しない。マタイとルカでは、マルコに登場する終末論の箇所は表現が弱められたり省かれたりしており、ヨハネでは終末論はほとんど語られていない。福音書は――マルコを土台にして――マタイは主にユダヤ人を対象に、ルカは主に異邦人を対象に、それぞれの層の関心を惹くようなエピソードを加えるなどして作成された。ちなみに福音書の著者(複数形)は実際には匿名で、いずれも(それぞれ)マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネではない(パウロ書簡も約半分はパウロ本人が書いたものではない)。
4 ピラトおよび磔刑の件はフラウィウス・ヨセフスの「ユダヤ古代誌」に記録されている(18.3.3)。他の聖書外資料としては、ローマの歴史家タキトゥスの「年代記」やキリスト教教父オリゲネスの著作などが挙げられるが、いずれもごく短い言及にとどまり、イエスの活動についての詳細な証言はほとんど残されていない。
5 当時の有力な教会勢力にとって都合の悪い内容を含む思想・主義(派)・文書は排除された。福音書が4つになった理由は、古代の自然哲学で世界の基本構成要素とされた四元素(火・水・土・風)や、四方(東西南北)に由来し、象徴的な意味合いが重視されたため。
6 ジョナサン・ゴットシャル(文学者)やジョゼフ・キャンベル(神話学者)などが"Humans are storytelling animals."という表現で人間のこうした傾向について論じている。
7 この「精神」には「スピリット」というルビをふりたい。
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