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ひそかな対話

【コラム】 関西支部 小町



「だから俺は彼女のことを愛していないと考える、まよいが生まれる」


「アァ!ズボシだ」


「ココが違う、だから俺はコマル」



 昨年末、部屋の掃除をしていた時、書棚から分厚い紙の束が出てきたので、なんだと思って見てみると、二年前、高校卒業してすぐの頃、青空文庫からダウンロードした文学作品の数々だった。漱石の随筆、高村光太郎の詩、岡本かの子、柳宗悦、寺田寅彦…ジャンルも何もあったものでなく、節操のなさに自分でも少し恥ずかしくなる。


 印刷されたものを目でなぞりながら、しかし二年前の記憶はかすかに思い出される程度で「読んだかな」と味気のない感想ばかりが頭に浮かび、時々線が引っぱってある箇所にしても、いったいこの話に当時、私は何を思っていたのか、さっぱり思い出せないほどだった。それらは著名な作家の作品を読んだという既成事実としてそこに並べらていたに過ぎなかったのだ。


 最近読んだオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』、プロローグに、"一冊の本は、私たちにひそかな対話をもたらす限りにおいて良書である”と書かれていた。


 この本を私はお勧めしてもらって手にとったのだけれど、これまで西洋の書物には、何となく距離感をおぼえたり、肌合いが違ったりするのを感じていた。今度も読めるかどうか不安に思っていたが、思いがけず、私は先月linkageに投稿した、#013「本を読むこと」という記事と重なる言葉を発見したのだった。二年前の私は、ただ文士たちの語りかけに聴き従うばかりが、本を読むことだと思っていた。そこに読者である私が応えるということを知らなかったのだ。「本を読むことは著者との対話だ」とその時(#013)書いたのは、私にとって、それが読書をするなかで、また読書の感想を書くなかでの、新たな体験、発見であったからにほかならない。


 対話とは、ただ他人の話を聞くばかりでも、自分が一方的に喋り続けるものでもない。オルテガは、


”自分が誰に対して話しているのか知らないときには胸の痛みさえ覚える”


と言っていた。著者がひとり筆をとったそのとき、すでに、彼らは私たちに対話を求め、語りかけ始めている。


”…つまり、著者が具体的に読者を想定でき、そして読者の方でも、その行間が親しく、自分に触れ、愛撫しようとする、あるいは、極めて慇懃に殴打を食らわそうとする、その一本の触手のようなものが出てくる限りにおいて良書である…”


 なかなか片付かない部屋の中、紙の束を手にとってみると、実にたくさんの言葉を尽くして、著者が何かを伝え、表現しようとしていることに、あらためて気がつく。これほどたくさんの紙の束も、そこに対話がうまれなかったならば、ただ虚しいだけのものにすぎない。


 ”親しく触れ、愛撫し、時に慇懃な殴打を食らわそうとする触手”それらが、いたるところに伸びていたことに勘付きながらも、かつて私はそれに応えるような自信も言葉も持っていなかった。


 冒頭の言葉、


 「だから俺は彼女のことを愛していないと考える、迷いが生まれる」、「アァ!ズボシだ」、「ココが違う、だから俺はコマル」、etc…


 これは、私が高校生のころに古本屋で買った三木清の『人生論ノート』の行間やページの片隅に、前の持ち主によって書き込まれていたものの一部で、私は、至る所にこの書き込みを見つけ、その度ごとに恥ずかしく思い、また、心のどこかで小馬鹿にしていたようにも思う。が、私が恥ずかしいと思っていた、この書き込みこそ、まぎれもなく著者と読者の間におこなわれた「ひそかな対話」そのものだったのだ。そこには、格闘、葛藤、感動、驚嘆や散りばめられている。それはもはや、元の本ではなく、著者の言葉と読者の思いが織りなされた共著のように感じられる。


 それに比べて、私の手元にある紙の束のなんとも虚しいこと。本当に残しておくべきものは、そのようなただの紙の束ではなく、著者たちと語り合った記憶だったはずだ。

 素朴に、そのときの思いを本の端に書き残しておくことは、後から見返すと恥ずかしくなることも多くあるに違いない。けれども、それは著者との対話の記憶であり、自分を発見することにもつながるのではないか。


 著者の言葉に耳を傾け、私も素直な気持ちを吐露すること。

 本にメモに、あるいは胸の内にとどめておくこと。


「ひそかな対話」は著者と私の間に、ひっそりと、しかし情熱的に執り行われる。

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