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どう生きて、どう死ぬか。コロナ禍で「死」について考える

【コラム」 東京支部 田尻潤子(翻訳業/日本尊厳死協会会員)


最近「神様メール」(原題: Le Tout Nouveau Testament)というベルギーの映画を観た。「神様」が意地悪で気まぐれなダメ親父という設定で、その娘がそんな父親を困らせようと、人間たち一人ひとりにメール一斉送信という形でその人の寿命を知らせてしまう。自分の寿命を知った人々、特にそれが残り少ないと知った人たちは残りの時間を悔いのないものにしようと、それぞれ「スイッチが入った」かのように行動を変容させる。諦めていた愛や夢に向かって立ち上がるのだ。


今年で4年目に突入してしまった「コロナ禍」。この3年間、年末や大型連休が近づくとニュースキャスターが「おじいちゃんおばあちゃんを感染から守るため、帰省は自粛したいですね」などと言うのを耳にしてきた。おそらくキャスターには悪気はない。しかし「守る」と言うけれども、当の高齢者ご本人たちはどう思っていたのだろうか? かわいい孫と正月におせち料理を一緒に食べられない。趣味などの社交の場に行けない。高齢者施設にいるなら家族と対面で面会ができない。次から次へと人生の楽しみを取り上げられて、それで感染は免れても孤独で心を病んだり認知症が進んだりしたケースが多々あると聞く。これで高齢者を「守って」いたというのだろうか。こうなると「悪気はなかった」とか「善意」だった、では済まされない。ちなみに私の好きなヨーロッパの諺に「地獄への道は善意で舗装されている」というものがある。


「何年生きるか」よりも「どう生きるか」、さらに「どう死ぬか」について社会全体がもっと関心を持つようになってほしい。会いたい人に会い、食べたいものを食べ、ずっと行きたかったところに旅に出かけて、それで寿命が少し縮むことになったとしても、悔いを残すことなく逝くのであれば、それでよいではないか。一人で静かに過ごすほうが好きなら、それもそれでいい。それぞれの人生だ。でも、家でじっとしていられない人だって沢山いる。


日本医師会はコロナの「5類移行」に反対していたらしいが(※1)、彼らが儲からなくなる事情でもあるのだろうか。現場でコロナの重症患者の対応にあたっている/あたってきた医療従事者の働きは十分に労われるべきだと思うが、俯瞰的に見て日本の医療全体の問題を指摘する声(※2)は少なくない。日本尊厳死協会が普及に努めている「リビング・ウィル」(延命措置を拒否するかどうかの書面による意思表示)への理解が医師の間でなかなか広がらない理由の一つにも、同様のカネや利権絡みの事情があるのではないか。わかりやすくするため乱暴な言い方を敢えてするが、チューブにつないででも生かしておけば、それでベッドを占有させておけば儲かるわけだから(※3)。


しかし世の中の「システム」がどうであろうとも、自分の死や大切な人の死について考えてみると、そこから「逆算」して人生をより良いものにしていこうという気持ちが湧いてくると思う。「より良い」というのは世間の基準や他人からどう思われるかではなく、あくまで自分自身が納得し後悔しない人生ということだ。さらに、親や配偶者との別れも必ず来ると想像してみれば、愛や感謝の気持ちを日頃から伝えておこうという気持ちにもなるだろう。この世は「仮住まい」の場でしかないが、滞在期間は有意義に過ごしたいものである。


【注釈】

※1 ジャーナリストの鳥集徹氏などが指摘。

※2医師の森田洋之氏(表現者塾にて昨年10月に講義)、同じく医師で日本尊厳死協会の副理事長でもある長尾和宏氏など。

※3十羽一絡げに医師を批判するつもりはない。医師が延命を勧めていないのに家族が措置を切望するケースも当然ある。近年は親の年金欲しさに延命措置を続けるという事例もあるらしい。しかし延命措置を受けたい人は受ければよい。選択肢があること、そして事前の意思表示に対する社会・医療現場の理解を望んでいるだけだ。

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