お祭りの練習で気が付いたこと
- mapi10170907
- 5月2日
- 読了時間: 4分
【コラム】 岐阜支部 林 文寿(NPO職員)
私の住む蛭川地域では毎年4月中頃に杵振り花馬祭りというお祭りがあります。地元の安弘見神社へ奉納する祭りであり地域全体で協力して行われています。今年令和7年は4月13日開催予定で住民が準備を進めています。
今年は私の地区がお囃子当番区に当たっており、私は太鼓の役をすることになっています。十数名の太鼓役がおり、2名で合い向かいあって太鼓を叩き合い順番に交代にしていきます。祭りの間中同じリズムを延々に叩き続ける役割です。 私は今回初めの太鼓役なので、恥と汗をかきながら練習に参加しています。
♪テンツク・テンツク・テンツク・テンツク・テンツク・テンツク・テン・ソイ♪
ごく簡単に杵振り踊りの説明をすると、赤青黄色の笠を被り手には杵持った踊子たちが二列に連なりお囃子に合わせて踊りながら神社まで上がっていくというもの。
その練習が当日の1カ月前から始まっています。参加するのは、踊子隊、笛太鼓のお囃子隊、獅子舞隊、指導する保存会、当番地区役員、地区お茶当番係など、それなりに大所帯となります。夜間に2時間ほど週5日。皆勤はできませんが私もできる限りは参加しています。
その練習風景は只々太鼓は決まったリズムで叩き、笛は同じ音楽を吹き、踊りは決まった動作でする。終わりの時間が来るまでその繰り返しです。理屈でどうこうではなく、身体で覚えていくものです。
お祭り当日はハレの日です。活気と華やかな空気に包まれます。それを目当てに観光客もやって来たりします。しかし、そのハレの日の為には地味な繰り返しの練習(その他にも備品の制作など事前準備が大変)があってのお祭りです。
テレビなどに映る祭りの賑わいは地味な部分を伝えませんね。昨今のコスパ思考で判断するならば、祭りなんていうのは当日のハイライトにだけ参加するのがベストな選択でしょう。連日の練習参加など無駄だと言い切ってしまうのかもしれません。
実際に練習は必ずしも参加率が高いとは言えないところはあります。其々が日中の仕事を終えての練習参加はやはり大変なことです。練習に間に合うように職場や家庭の調整も必要となるでしょう。
一言でいえばそれは手間です。それが余計な手間なのか、非日常ための手間なのか。捉え方で練習への足の向き方も変わってくるのかもしれません。
冒頭にも記しましたが、このお祭りは安弘見神社へ奉納する祭りです。地味な練習とは、当日へ向けて徐々に全体で一体になっていく積み重ねの時です。頭では面倒だと思いながらも然し身体は決まった動作を繰り返し行っている時間です。もしかしたら、これもある意味では祈り形のひとつではないかと、ふと気が付きました。
祭りという文化は、見える形の祭りの日だけに本質があるわけではないのです。地域行事の一環である祭りへ参加しても当然日当などありません。(逆に住民は協賛金を出しています)参加する一番の動機は地域付合いだから仕方なくやっているというのが妥当なところでしょう。
「難しいことはよう知らんけど、うちの伝統行事ちゅうやつで昔からやっとって、順番が来たもんで今年はしゃあないでやっとるわ~WW」
積極的な動機ではないのかもしれませんが、住民同士が顔を合わせみんなで一つのことを成していく時間。その重要な目的は神様へと思いを(芸能という形で)捧げることです。
本人たちに実感はなくても、これは宗教行為と呼べるのではないか。それが良い悪いのではなくて、神という存在がある事でその地に住む人々は自分たちをひとつにまとめる事ができる。それがあるからこそ共同体としてその地で生き続けて来たのだと思うのです。
しかしながら、過疎化(少子高齢、若者の都市部流出)の影響はこのお祭りにも避けることはできません。10年後にこの祭りがどのような形になっているのだろうか…人々はそんな一抹の不安を感じつつ祭りを眺めている所もあります。
まあ、そんな余談はさて置いて、私はお祭り当日まで太鼓の練習に励み、神様へ恥ずかしくないように祈りを捧げていく所存です。
皆さまよろしければ4月13日、蛭川の杵振り花馬祭りへどうぞお越しくださいませ。
笛が鳴り 太鼓が響き 踊子が 杵を廻して 上へと続く
Kommentare