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あなたにとっての”道(どう)”とは?

  • mapi10170907
  • 2024年9月5日
  • 読了時間: 3分

【コラム】 東京支部 浅見 和幸


 昨年秋に四半的弓道(以降、四半的)に出会い、以降週1回の稽古が私の暮らしにすっかり溶け込んでいる。四半的の詳細は(四半的ノ会 (shihanmato.jp))を参照頂きたいが、簡単に言うと弓道よりも弓の長さ・的までの距離等が全てコンパクト。弓も矢も生まれて初めて触れた私でも数射で的に当てられた。私の妻や子供達(未成年)も体験して、同じく短時間で的を射ることは出来たことから敷居が低いことは想像頂けるでしょう。


 とはいえ、同じように”左手で弓を構え右手で矢を引き放つ”も、常に的のど真ん中(中白)に当る程、容易いものではない。たったこれだけの動作でも実際にやってみると大変奥深い。私は人生において所謂”道(どう)”に触れたのは、幼少時の書道と空手道をほんの少し習った程度。体得とは程遠いながらも、四半的を稽古した初日に「(上達するには)技術も重要だけど精神面は更に重要では?」と直感し、稽古を続けている理由の一つとして精神面、現代風に言えばマインドフルネスにあります。


 弓といえば、オイゲン・へリゲルの名著「弓と禅」です。私も四半的の先生の薦めで拝読すると、へリゲル氏と彼の師にあたる阿波研造先生が共に歩まれた道と、弓に触れたばかりの私が同じ道にいると思う程の身の程知らずではないが、弓と禅の所作を通じての精神的な共通性を稽古を通じて感じています。


 精神面といっても色々な要素がある中で、大切な一つと感じるのが平常心。これは単に矢を放つ動作時に平常心を保つという当たり前の心構えではなく、起床から就寝までの暮らしにおいての平常心です。仕事、食事、娯楽等、置かれた局面は常々変化するが、心だけは平常で物事に粛々と向き合う。的に当る/外れるの結果に一喜一憂するのではなく、暮らしの延長の心構えで矢を放たれれば、等と考えたりする。文章にすると偉そうに分かった様だけど、実際は常に煩悩に喰い尽くされている私であり日々精進せねば・・


 さて日常において、自身の生活、要は仕事等の自分の”役割”を持ち暮らしていれば、自ずと他者に触れながら社会に身を置く。その中においては不安不満や問題懸念事項は必ず有るし挙げ出したらキリがない。とかく不平不満、時としてルサンチマンを感じることになる。外の問題に関心を向けることも大切だけれど、それより自分自身に目を向けることはもっと大切では、と私は感じている。


 また、例えば四半的を始めてみる、ダイエットしよう、といった個人的な事柄から、仕事等の社会環境における対応まで、「何かを始めるか」「何かをしなければ」という判断を迫られることは多分にあります。その判断の際に私は出来るだけ「出来ない理由を探す」のではなく、「出来ることを探す」ように心掛けている。前者だと消極的思考から、その先も良い結果に繋がらない気がしている。後者は前者とは真逆であり、結果が良くなかったとしても最善を尽くしたことで納得感得られ後悔は無いかと。

 不平不満を常に抱えながら社会と関わり続けるより、自分の道に邁進して煩悩を少しでも振り落とした後の方が、自分にも社会にもより良い効果を相乗的に与えらるれないだろうか?


 道(どう)などと大層な表現を用いたが、そう、「趣味」というもので十分である。趣味に没頭(フォーカス)している時に不平不満等の負の物事を考えはしないだろう。私は幾つか趣味を持っていたが、四半的に出会い、更にはクライテリオンを相棒にしながら、以前よりも自分自身と暮らしに対してフォーカス出来ている。

これらが私にとっての道(=趣味)であるが、あなたにとっての道とは何でしょうか?

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