top of page

『タブレットは阿片である』『場末の酒場』

【コラム】 信州支部 北澤 孝典(農家)


■『タブレットは阿片である』

『子供たち一人ひとりに個別最適化され、創造性を育む教育ICT環境の実現に向けて ~令和時代のスタンダードとしての1人1台端末環境~』文部科学省のGIGAスクール構想。


氾濫する情報から身を守るために、テレビとは無縁の生活を送る我が家にも、3台の情報端末が配られた。


毎日充電する電気代負担よりも、経産大臣の節電要請に後ろめたさを感じながら、コロナ禍のリモート授業に必要なのだからと、自分と家内を説得したが、幼くして眼鏡を強いられた3人の子供達に対しては、親として申し訳ない気持ちを常に感じている。


個人的な恨みを吐露したいわけではない。問題は、ICT環境の整備が、未熟な子供達の豊かな人間性を育むのだろうか、という素朴かつ根本的な疑念にある。


米国の哲学者ジョン・デューイは、教育における社会性の重要さを強調し、学校そのものが小さな社会生活の場であり、共同生活を通じて作られた関係性が、より大きな社会の継続性に繋がると指摘した(『民主主義と教育』)。


身体的、経済的、能力的、様々な要因において差異のある子供達が、学習という同じ目的に集い、日常的な活動を共にすることで、次世代の地域社会が成り立っている。


このことは、150周年を迎える小学校が津々浦々に存在する我が国に育った大人であれば、誰もが理解していると信じたいが、歴史ある公立学校が廃校に追い込まれている現在も、駅前の一等地には民間進学塾が次々と現れている光景を目にすると、もはやそんな性善説は通用しないらしい。


バブル期の最高値3万8915円87銭を超え、史上最高値を更新し続ける株価とは裏腹に、宇沢弘文が掲げた社会的共通資本であるべきインフラは悉く廃れている。ご多分に漏れず、我が地域でも、学校、鉄道、病院、銀行、農地、自然環境は、どれも例外なく減っている。


廃止する理由は、『サービスを享受する消費者(児童/乗客/患者/顧客)が減少し、経済的合理性に見合わない』とのこと。採算という下品な思考に囚われず、子孫の繁栄のために創造してくれた先人達には、本当に申し訳がない。


構想に4,600億円を費やし、一人に一台配ったタブレット。我が子達にとって、高嶺の花の情報端末を手に入れた喜びは凄まじかったらしく、帰宅後にランドセルから最初に取り出すのはタブレット。


口頭注意を無視して、至近から光源を見つめる姿が、その後もしばらく続いたため、親としての危機感を覚え、タブレットを子供達の手が届かない場所に隠した。


直後一人の子供が取り乱すように泣き出した。それはまるで、アルコール依存症の夫が、妻が隠した酒を求めて台所を探しまくるシーンの様だった。


19世紀半ば、世界に覇権をふるっていた英国が、更なる利権追求のために、中国に対して麻薬を大量に輸出したことで起こったアヘン戦争。


21世紀の今、辛うじて覇権国に留まっている米国が、その地位を維持しようと、従属国を消費地と定め、タブレットに限らず中毒性の高い在庫品を一掃しているように、私には映る。


故意か過失か、知ってか知らずか、我が国は自らの子供たちを生贄にして、宗主国のご機嫌を取っているのだ。


かく言う自分も、スマホとタブレットを駆使して生業を営み、SNSを利用してPTA活動にも積極的に関与しているので、インターネット機器が全て悪いと言うつもりはないが、そのPTA活動を通じて知ったいじめ問題の陰湿化も、そういったネット端末が助長していると容易に想像できる。


事は深刻で、いくら歴史上の哲学者を引いて、形而上学的に述懐しても始まらない。


小学校から大学まで公のお世話になり、二十歳過ぎまでモラトリアムを与えられたにもかかわらず、我が子も真っ当に育てられない自分自身の現実を直視すると、これからも英雄たちの思想を学ぶ必要がある。



■『場末の酒場』

都会の勤め人を辞め、田舎で百姓生活を始めて10年が経つ。


豊かな自然環境での落ち着いた生活を手に入れて、率直に満足はしている。落ち武者の負け惜しみなど、微塵も感じていない。


元来、孤独を好む性格だと自認している。


通知表には、協調性が無いと指摘され、スポーツも団体競技より個人競技に打ち込み、修学旅行以来、旅は独りで訪ね歩くのを好んだ、、、、程度のものだが。


そんな小生、大規模な会社組織から、一人親方の農家になったのだから、夢が叶ったはずなのだが、どうも釈然としない。


かつての都会生活では、駅前繁華街の一角の社宅に住んで、週に2、3回は、近所の酒場に顔を出していた。


仕事上の接待や同僚との飲食も日常的にあったが、そこでの打算的な会話に未練はなく、行きつけのバーでの、議論とも呼べない行きずりの会話が、どうも懐かしい。


農家と言っても、創業と同時に法人を設立し、代表取締役となった。


当初は、地元の商工会議所や銀行の会合にも参加して、懇親を深めるよう努めていたが、しばらくして、どちらも足が遠のいた。目の前の現金か、互いの傷を舐め合う自慰的な会話に終始しており、居心地が悪かった。


自然の景色と、多忙な子供達との家庭生活で、足るを知ってはいた。


きっかけは、2021年に松本で開かれた「表現者クライテリオン松本シンポジウム」だった。


日々繰り返されている社会的な茶番劇から目を逸らすべく、それまでも、保守思想家の著作を読んではいたが、口外するようなことはしていなかった。


シンポジウムでの質疑応答、その後の懇親会や、直後に設立された信州支部の活動、そこで交わされた様々な議論が、ぼんやりとした不安を払しょくしてくれた。


何よりも大切なものは、社交だ。


冒頭、孤独を好む、などと恰好つけたが、少し考えてみると、自分のような凡人に、孤独など耐えられるはずはない。


英雄たちの思想を書籍で読んではいても、口に出す言葉や、行動で表す態度に出されなければ、思想とは程遠い、単なる知識に終わってしまう。


クライテリオンを介して築かれてきた社交の場が、まさに、その知を実践する機会として、自分を研磨してくれているように感じている。


保守思想発祥の地とされる英国には、パブがある。Public house公共の場と訳される、文字通り社交の場だ。


一説によると、その数は5万店近いらしい。英国の人口は、日本の凡そ半分なので、我が国に置き換えると、10万店ということになるだろうか。


減少一途の公立小学校の数は、平成の時代には2万校を下回ったので、乱暴だが、1小学校区内に5件のパブが存在する計算になる。


イギリスに行ったことはないが、20年程前にヨーロッパを訪ねた時のことだ。


パリ近郊のレストランで、昼食を取っていたら、消防士達がテーブル席に座り、制服姿のままワインをボトルで開け、会話を楽しんでいた。


ブリュッセルでは、路面電車が通る幹線道路のテラス席で語り合う人々が、古い町並みと溶け合っていたのが印象的だった。


最も記憶に残っているのは、夕方の帰宅時の通勤電車でのひとコマ。パリ中央駅で乗った郊外行きの電車。通勤電車もテーブル席で、ほぼ満員だった。


突然4人がトランプのようなカードゲームを始めた。家族か仲間なのか、と思ったが、30分経った頃から一人が抜けて降車、その後、皆別々の駅で降りていった。


毎日同じ時間の電車に乗る他人同士が、カードゲームを楽しんでいたのだ。時間を共有する楽しみが根付いているのだと、文化の違いを感じた。


今もその光景が繰り広げられているかは不明だが、少なくとも、日本の通勤スタイルのような、全員が全員、スマホを眺めてはいないと想像はつく。


信州支部で浜崎洋介先生を招いた勉強会で、氏が語った言葉を思い出す。


『人と人の関係性が急速に希薄化する現在も、それが辛うじて残っている場所がある。場末の酒場だ。』


今後も、社交を楽しみたいと思っています。よろしくお願いいたします。

閲覧数:49回

Comments


bottom of page