「驚愕の僧」から学ぶ
- mapi10170907
- 5月30日
- 読了時間: 3分
【コラム】 信州支部 長谷川 正之(経営コンサルタント)
最近、東京への所用の際に国立新美術館で開催されていた書道展にフラッと立ち寄った。
何百という作品の中で目にとまったのは「一期は夢よ ただ狂え」という書。独特の字体で、その後、私の脳裏から離れないのは、特に「狂え」という文字。
辞書を引くと、「物事の働きや状態が正常でなくなること」とある。この室町時代の閑吟集のことばの意味は、ネットにいくつか出ているが、私が納得するのは「人生は儚いもの、ならば狂ったように懸命に生きろ」というもので、胸に落ちる。
私の日常生活は淡々としていて、小学校PTA役員OB会やライオンズクラブ、菩提寺護持会やこども食堂他、限られた範囲の仲間と気楽にお付き合いしているので、「狂え」は異常な言葉であり「日常に埋没するな、必死に堂々と懸命に生きろ」と身に迫る。
そこで頭をよぎったのが、菩提寺住職から教えてもらった明治・大正・昭和初期に生きた浄土宗の僧・渡辺海旭(かいきょく)上人である。私はほそぼそとコンサルタント業をしているが、問題解決等に窮したとき、500ページ余りの著書 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』、ポット出版、を手に取る。
すると、暗闇の中で光を指し示してくれるような気がするのだ。それほど、私にとって桁外れの人物であり、刺激的な存在である。少し、どのような人物か紹介したい。
明治維新後の神道国教化政策に伴い、仏教は排斥・抑圧され消滅危機に陥いる。そこで、浄土宗学本校は、人材教育による仏教再興・革新に向け海外留学生を送り出す。海旭上人はドイツに11年間留学し、世界文化と交わっていく。
英語・フランス語・ドイツ語に堪能で、サンスクリット語・チベット語・バーリー語を学び比較宗教学を修得。肉食やビール・ワインを親しみ、オペラ観劇を好んだ。仏教学者として欧州各地の大学等で講演や講義を行ない、伝道師の中心的人物だった。
明治43年、法然上人御忌700年を期に38歳で帰国する。それからの23年間、61歳で亡くなるまで怒濤の活躍。何しろ多彩で、まず交友関係は、右翼の巨頭・頭山満、世界的な仏教哲学者の鈴木大拙、キリスト教思想家の内村鑑三、社会主義者の堺利彦や幸徳秋水、音楽家の山田耕筰、小説家の井上靖他。右や左や分野、年齢を問わず接する彼のスケールの大きさに圧倒される。
活動は、「教育家」として東洋大学・国士舘大学・大正大学の各教授。母校芝中学校校長を死去するまでの22年間務めている。「宗教家」としては、西光寺住職で大正新脩大蔵経を出版(漢訳仏典集大成の最高峰と呼ばれる)。「社会事業家」の面では、浄土宗労働共済会を設立(職業紹介所、宿泊所、簡易食堂、授産部)、情熱を注ぎ込んでいく。
また、私が刺激を受けているのが「詩文家(文案家)」としての海旭上人である。芝中学校校長の彼は、教育方針を梵語(サンスクリット語)の記号卍(幸福や吉祥の印)から視覚的に発想する。
卍を分解し、4つのLから「Light(光明)と Love(愛)を持って人格を統治し、 Life(命)で生活を充実させ、 Liberty(自由)をもって高遠なる理想の充実を目指す」というものであり、凄い閃きで感嘆してしまう。
そして、校長としてのエピソードにも驚く。校長としての教育は「何も言わずじっと見守るだけ。ひたすら考えさせ、怒ることをしなかった」。
ただカンニングが流行ったとき、一度だけ怒りが爆裂。全生徒を講堂に集め破廉恥な行動をののしった。海旭校長は首謀者の父親を呼んで、こう話した。
「あなたの子供にこんなことをさせて校長として申し訳ない」と涙にむせびながら詫びたという…。海旭上人の葬儀には会葬者が8,000人で埋まり、大僧正を追贈された。
改めて、「海旭上人の驚愕の生き方」と「一期は夢よ ただ狂え」の書がハウリングし、私の「日ごろ胸に秘めているシンプルな言葉」をさらに強化すると信じている。
そのことばとは…「小さくまとまんなよ」。
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